第二話 渚にまつわるエトセトラ
水樹家は私の曽祖父の時代から政治家を多く輩出している。
数年前に亡くなった曽祖父は与党の国対委員長まで務めた一角の人物で、祖父も現役の文科副大臣。都議会議員を務めている父も、いずれは祖父の支持基板を継いで国政に打って出ることだろう。
でもその父の一人娘である私は、政治とは違う道を志している。
それは新エネルギー開発の研究職に就くことだ。
私は曽祖父から「世のため人のために尽くしなさい」と小さい頃から言い聞かされて育った。それもあって、政治家として世の中に尽くしている祖父や父のことは尊敬している。
けれどそれ以上に私の心を突き動かした「ヒーロー」が存在した。識名両信博士――世界のエネルギー問題を解決しようと日夜研究に明け暮れた人だった。
志半ばで非業の死を遂げてしまった彼の意志を継ぐこと。それが私が私なりに目指したい「世のため人のため」なのだ。
とはいえ、それはあくまで私個人の考えだ。
親戚の中にはいずれ私も政治の道に進むとか、婿養子を貰って父の跡を継がせるだとか、そういう勝手なことを言っている人たちもいる。
彼らは決して悪辣な人間というわけではなく、きっと私や父のことを大切に考えてくれてはいる。単に価値観が異なっているだけなのだ。だからいつか私の選んだ道を理解してくれたらいいな。
なんて考えていたのだけれど。
その父――お父様からもたらされた一言は、そんな私の穏健なスタンスを揺るがすものだった。
「……お父様、どうやら聞き間違えたようです。もう一度言ってくださいませんか?」
「わかった、ではもう一度言おう。渚、きみに縁談が来ている」
聞き間違えではなかった。
お父様こと水樹隆史は、ソファにゆったりと腰掛け、ブランデーの入ったグラスをゆらゆらと揺さぶっている。
さっきからグラスを弄ぶだけで口をつけようとしないのは、きっと決して酔ってはいないというアピールだ。つまりこれは大真面目な話なのだろう。
でも、私の答えは決まっている。
「お断りします」
「どんな相手かも聞いてくれないのかい?」
「聞く必要はありません。一体何を考えておられるのですか。私はまだ十三歳ですよ?」
「だが来月には十四歳、そしてあと二年で十六歳だ。そこまで性急すぎる話でもないだろう。それに、きみは普段は歳相応の子供として扱われるのを嫌がるだろう。都合のいい時だけ子供であることを盾にするのは、いささかきみらしくないな」
お父様の穏やかな口調には、有無を言わさぬ迫力が込められていた。
確かにその指摘は正しい。お父様だって、勝手に承諾するなり断るなりすることはできたはずだ。それをせずにこうして意見を聞こうとしているのは、私をきちんと一人の人間として扱ってくれている証拠だ。年齢の話をしたのは私の間違いだった。
「失礼しました、おっしゃる通り年齢は関係ありません。ですが、それでもやはりお断りします」
「ふむ。まあ私もこの縁談そのものには別に乗り気ではない。断ることは構わない――ここだけの話だが、ホッとしているくらいだ」
お父様はそう言うと、グラスを傾けてブランデーを僅かに口に含む。私はそれを「話は終わった」という合図だと解釈した。しかしそうではなかったらしい。
「だが、この手の話はこれからどんどん増えるだろう。きみは政治家としての歴史と強固な支持基盤を持つ水樹家の一人娘で、おまけに母さん似の美人。私もあと二十歳若ければ結婚を申し込んだかもしれない」
お父様は楽しそうに、恥ずかしげもなく自分の娘をべた褒めした。この人のこういうところは、嫌いではないけれど苦手だ。
「全てお断りして下さい」
「そのつもりだ。大事な娘を政略結婚の道具にするつもりは無いよ」
「ありがとうございます。では、この話は終わりに――」
「しかしだ」
会話を打ち切ろうとした私を遮り、お父様はグラス越しにジッと私の顔を見つめた。
「なかなか『お断りします』の一言で済ませにくい相手、しつこく理由を問い質してくる相手というのもいる。いちいちその度に理由を考えるのも面倒でね」
つまり断る理由をこの場で口裏合わせしておこう、ということらしい。
「当面は学業に専念したいと思います、ではいかがでしょうか? 嘘は申していませんので、角も立たないかと」
「だめだな。断る理由というものは『それさえクリアできれば了承する』という受け取られ方をするものだよ。籍だけ入れてくれれば大学院まで通って構わないとか、卒業まで待つから婚約だけでも、などと言い出されたら手詰まりだ」
なるほど。政治の場で日夜駆け引きを繰り広げているお父様の言葉には、流石に重みがあった。
同時に、面倒くささに頭を抱えたくなる。
あの月からやってきたお姫様が、火鼠の皮衣や蓬莱の玉の枝といった無理難題を貴公子たちに申し付けた時、こんな気持ちだったのだろうか。
「条件達成できるかどうかを相手に委ねてしまえば、絶対に実現不可能な条件でない限りは達成されて断れなくなってしまうリスクがあるということですね」
「うん、そういうことだね」
「では『娘には既に心に決めた人がいる』とでもお答えになってください。それならば条件達成の可否は私が握ったままになりますから、相手にはどうにもできないはずです」
「うん、まあそれが妥当な線だ。しかしそうなると私は嘘つきになってしまうかな?」
お父様は楽しそうに笑って、またブランデーを口に含む。
その小馬鹿にしたような態度が鼻について、私はつい言わなくてもいい一言を言ってしまった。
「心外ですね。お父様は私にそういう人がいないと決め付けておいでですか?」
-†-
「――そういうわけで、つい張り合っているうちに父に乗せられてしまいまして……」
「なるほど、恋人のフリをして欲しいってことか」
両太郎さんは苦笑しながら頷いた。
「紹介しろと言われたのはどうにか断りました。ただ、その――デートしているところだけでも見せろと、遊園地のチケットまで用意され……」
「ははは、流石は渚のお父さん、退路を断ちながら攻めてきたな」
「すみません、こんなことをお願いできるのは両太郎さんしか……」
テーブルに額を擦りそうなくらい頭を下げる。それくらいしか私にはできない。
「よせよ、頭を上げてくれ。それに、謙遜しすぎじゃないか? 人望の厚い渚なら協力してくれる人はきっと沢山いると思うけどな」
両太郎さんはそう言って困ったような表情を浮かべる。
私はそれを、やんわりと断られてしまったと思った。
でも両太郎さんは、
「それでも渚が俺を頼ってくれるというなら、喜んで協力するよ」
そう続けてから、いつものどこか幼い笑顔を見せてくれた。
「細かい日程なんかは後回し、まずは冷めない内に食べようぜ」
両太郎さんはそう言ったけれど、長々と事情を説明している間に、テーブルに並べられた料理はすっかり冷めてしまっていた。
「ま、ほうゆふほほならひょうはないへ」
「こら光、口にものを入れたまま喋るなよ」
「むぐ……む。ま、そういうことならしょうがないね。明後日は渚に両兄を貸したげる!」
さっきまで修羅の形相を浮かべていた光さんは、そう言ってケタケタと笑った。優に負けず劣らず、切り替えの早い子だ。彼女のそういうところはとても好ましいし、羨ましい。
「でもその代わり、あたしと桃も行くからね」
『え?』
私と桃さんの声が重なった。
「え、じゃなーい! シスターを警戒してなるべく二人以上で行動する決まりでしょ。だからあたしと桃がこっそり付いてってあげる」
光さんは「任せなさい」と言わんばかりに自分の胸をドンと叩く。華やかさと剛毅さを兼ね備えた彼女には、こういう勇ましく大仰なジェスチュアがよく似合っている。
「大丈夫、邪魔はしないからさ! ――邪魔されるようなことをしなければね」
悪戯っぽく笑ってそう付け加えた光さん。桃さんはそんな光さんにたじろぎながらも、基本的に同意見らしい。私に向かって「いい?」と目で訴えかけてくる。
光さんの有無を言わさない距離の詰め方も大したものだけれど、桃さんの視線攻撃も負けていない。小柄で庇護欲のくすぐられる彼女に、こんな小動物のような目でじっと見つめられて「ダメ」なんて言える人がいるとは思えない。
「そうね。それじゃあお願いします、桃さん、光さん。もちろんお二人のチケット代は私が出します――というか、どうにかして父に出させますので」
「いやったぁ! 実は行ってみたかったんだよね、ここ!」
「もう、光ちゃんたら……」
満面の笑みでガッツポーズする光さんに、呆れながらも嬉しそうな桃さん。二人のそんな様子に、私は思わず吹き出しそうになる。
「あー、ズルい。みんなが行くなら、ぼくたちもご相伴にあずかりたいな。ね、麻美?」
今度は優が光さんの提案に乗っかる。なんだか結局、全員で行くことになりそうだ。ま、いいんだけどね。
なんて思っていたら、麻美は首を横に振った。
「……麻美と優ちゃんは、ダメ。隆史おじさまに、顔、知られてる……」
「あー。それもそうだ、残念……」
優がしょぼくれた子犬みたいに項垂れる。
確かに麻美の言う通り、優と麻美はお父様と面識がある。二人が近くにいるのが見つかってしまったら、両太郎さんとのデートがフェイクであることもバレてしまいそうだ。
そういうわけで明後日の八月四日は、私と両太郎さん、桃さん、光さんの四人で遊園地に行くことになった。もちろん桃さんと光さんは別行動で他人のふりだ。
置いてけぼりになる優と麻美には、別の穴埋めの約束をした。まあつい先日まで一緒に海で合宿してたんだし、穴埋めなんて必要ないのかもしれないけれど。私自身が優たちと遊びたいのだから、別にいいのだ。
その後私たちは、冷めてしまった料理をいそいそと食べ、当日の打ち合わせやいくつかの口裏合わせを済ませた。朝のうちはどうなることかと思っていたけれど、こうしていざ話が決まってみれば、案外なんでもない。
胸のつっかえがとれたような――ううん、それだけでは済まないふわふわした気持ちがある。
ひょっとすると私は、散々私を憂鬱にさせてきたはずの遊園地行きを、楽しみにしてしまっているのだろうか。
まあ、それはそれで面白いか。
――なんて私が油断しきっていた時、爆弾は投下された。
「あ、そうだ渚。明後日は俺からも頼み事があるんだけどいいかな? 合宿の時のお願い、それでいいからさ」
「え? ええ、もちろん私でできることなら構いませんけれど……」
「無理だったら断ってくれていいからな」
両太郎さんはそんな前置きをしてから、何気ない雰囲気で――それこそ「ちょっとそこの紙ナプキンとって」とでも言うくらいの軽さで――とんでもないことを口走った。
「俺を渚のお父さんに紹介してくれないか?」
またもや私は、「ピシッ」と場の空気が凍る音を聞いた。
今度は私が固まって、耳を疑う番だった。
『え、ええええぇぇぇぇぇぇー!?』
ファミレスの店内に、四人の中学生女子たちによる二度目の絶叫が響き渡った。




