第一話 ある日渚に
「はぁ……」
私は陰鬱な気分に任せ、溜息をこぼした。
道場の引き戸に手をかけて、かれこれ五分は経っただろうか。簡単に開くはずの木戸が、今日はなんだかとても重く感じられる。
ゆったりとした風が庭木の梢を揺らし、葉がさらさらと心地よい音を立てる。相変わらず雰囲気の良い庭だ。でも、それすらも今の私には不穏なざわめきに聞こえてしまう。自分でも呆れてしまうほど、今の私は憂鬱さに支配されていた。
ここは親友の生天目優の家が開いている道場。私と仲間たちはここで古武術を学んでいる。
といっても、つい一昨日まで私たちは合宿と称して海に出かけていた。
今日は八月二日の月曜日。八月最初の稽古日であり、合宿の成果を試す日でもある。夏休みをいいことに、朝から晩までしっかり稽古に励む予定だ。
きっとみんな気合が入っていることだろう。なにしろ私たちには、友達を取り戻すという目標ができたのだから。
――と、そんな風に思えば思うほど、戸を引く指から力が抜けていく。
そう、今はこれからの戦いと大きな目標に向けて、気を引き締め直す時。それだというのに、今日の私はまったく違う悩みを抱えてしまっている。悩みそのものに加えてそんな後ろめたさが、道場の入り口で二の足を踏んでしまっている原因なのだった。
とはいえ、ただ立っているだけでも照りつける日差しによって体力が奪われる夏場の日中。このままここで熱射病になるのを待っているわけにもいかない。そろそろ覚悟を決めなければ。
と、そう思った時。
「お、渚も来たか。おはよう」
ガラリと戸を開けて道場の中から現れた男性が、私を見とめて微笑んだ。
あとちょっとで覚悟が決まるところだったのに、不意打ちはやめて欲しい。
「ええ。おはようございます、両太郎さん。もうみんな集まっていますか?」
「いや、麻美と光がまだだな。集合時間までまだ三十分もあるし、お互いちょっと早く来すぎたかもな」
男性――両太郎さんは、そう言って照れるように笑った。
両太郎さんは私より三歳年上の高校二年生。少し中性的な印象を受けるけれど、まあ年齢相応の顔立ちといっていい。でも、笑った顔だけは実年齢よりもずっと幼く見える。
その両太郎さんが、現在進行形で私を悩ませている憂鬱の原因なのだ。
-†-
今日はもう散々だった。
着替えでは道着を裏表逆に着てしまい、合宿の成果を確認するために行った組手では敢え無く全敗。さらにはみんなで昼食を作った際には出汁を煮立たせてしまって麻美からお説教を受ける始末。
稽古を終えてみんなで訪れたファミリーレストランで、注文を済ませるやいなや
「で、今日の渚は一体どうしちゃったの?」
優が呆れ顔で訊いてきたのも無理は無いことだった。
「うん、あたしも気になってた。なーんか渚らしくなかったね」
「……ずっと、上の空だった」
光さんと麻美まで一緒になって追及してくる。これは誤魔化し通すことは難しい。
いや、そもそも誤魔化せたとしても、それでは何も解決しない。私は両太郎さんに、気の重いお願いごとをしなければいけないのだから。
でも、流石にちょっと皆の前では気が引けてしまう。
「ええ、ごめんなさい。ちょっと家の事情で気がかりなことがあって……」
プライベートなことだからそっとしておいて。遠回しにそう伝えたつもりだ。
実際のところ嘘ではない。
でも、それで追及が終わるかどうかは半々――いや、もっと分の悪い賭けだった。
「何、ぼくで良ければ相談に乗るよ?」
「そうそう、水くさいじゃない」
案の定、優と光さんは遠慮なくさらなる追及に乗り出した。こういう時、この二人は手強い相手なのだ。
でも不思議とそれを鬱陶しいとは感じない。二人とも他人との距離の縮め方が上手いというか、ごく自然に踏み込んでいくタイプだ。それは私にはなかなか真似ができない。私はどちらかといえば正確に距離を測った上で、駆け引きでそれを前後させようとする性格だ。
でも今はその性格が災いして、こんな風に憂鬱を抱えている。きっと優や光さんなら、もうとっくに解決してしまっていることだろう。
「こらこら、二人ともあんまり問い詰めるもんじゃないぞ」
両太郎さんが二人をたしなめた。単に年長者だからというだけではなく、両太郎さんもまた他者との距離を厳密に測ろうとするタイプの性格なのかもしれない。そういうところは、とてもシンパシーを感じる。
「でも、話せることだったら遠慮無く話してくれていいからな。もちろん俺だって力になるから」
少し幼く見える笑顔を浮かべて、両太郎さんはそう付け加えた。
なんてことだろう。優よりも光さんよりも厄介なのは、あろうことかシンパシーを感じた相手――そして目下の悩み事の相手その人だった。
「うう……」
「あ、いやごめん。本当に言いにくいことだったら言わなくていいから」
「ううう……」
言うべきか言わざるべきか。
いや、言わなければならないのは決まっている。ただ、できれば他のみんながいないところで済ませてしまいたかった。恥ずかしいというのもあるけれど、それ以上に余計な波風を立てたくなかったから。
でも、こうなってしまったらこの場で黙して後でこっそり、という方が波風が立つのではないだろうか。
ああもう、私はどうすればいいの?
「……その反応」
頭を抱える私に向かって、優と並ぶ長い付き合いである麻美がボソッと言った。
「……さては、にーさまに関係あると見た」
「なっ――!」
感情の読みにくい淡々とした声で、麻美は呆気無く核心を突いてきた。まったくこの子は、時々恐ろしく鋭い。
そして麻美の言葉の正しさは、私の迂闊なリアクションでみんなに伝わってしまったことだろう。
「え、そうなのか? でも家の事情って……」
両太郎さんが首を傾げた。
それを見て、私は溜息とともに覚悟を決めた。この状況で言わずに済ますには、親友や仲間たちに嘘をつく必要がある。それだけは嫌だ。
はあ……こんなことなら朝に会ってすぐお願いしてしまえば良かった。
私は半日前の自分を呪いながら、両太郎さんに向き直った。
「わかりました、白状します。実は両太郎さんにお願いしたいことがありまして……」
「お願い? ……ああ、いいけど。俺が叶えられることならなんでも」
両太郎さんは少しだけ怪訝な顔をしてから、すぐに笑ってそう言ってくれた。
一瞬何かを考えたように見えたのは、きっと合宿の時の約束のことだろう。私が両太郎さんにクイズを出して、両太郎さんがそれに正解したため、私が両太郎さんの言うことをなんでも聞くという話になっていたのだ。
まさかその逆に、私の方から両太郎さんにお願いをすることになろうとは。
「では、その――両太郎さんは明後日、お暇でしょうか?」
「明後日? 明後日は確か――ああ、特に何の予定も無いよ」
「でしたら、私と二人で遊園地に行っていただけませんか?」
言ってしまった。
その瞬間「ピシッ」という音が聞こえた気がした。場の空気が一瞬で凍りつく音だ。
両太郎さんは予想外のお願いごとだったらしく「え?」と耳を疑っている。そして桃さん・光さん・優・麻美の四人は、四者四様の表情を浮かべて固まっていた。
『え、ええええぇぇぇぇぇぇー!?』
少し遅れて四人がそんな驚き声を上げたものだから、ちょうどサラダを運んできた店員さんが驚いて、お皿をひっくり返しそうになった。
次話は明日21時更新予定です。




