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愛と元素のフェアリズム  作者: みなもとさとり
Element.2 世界を繋ぐもの
65/93

第二五話 世界を繋ぐもの 2 -Elemental Bond 2-

「それは違うよ、シスター・ポプレ。世界の本質が憎しみだなんて、間違ってる」


 フィオーレは真っ直ぐポプレを見据えて言い切った。

 対するポプレは不愉快そうに目を細める。


「どう間違ってるってのよ、言ってみなさい」

「それは――上手く言えないけど……。でも、絶対に違う!」


 フィオーレの言葉は拙く、何の根拠も無い。

 論理性に欠けているし、浅はかだとすら思える。


 けれどそこに迷いは無かった。それが俺の胸を打つ。

 たとえ根拠がなくても、理屈なんて思い浮かばなくても、それでも迷わずに言い切ってしまう。それは、俺にはできないことだ。そして、とても大切なことに感じられた。


 だが、ポプレには届かない。


「……呆れた。そんなものは思考でも信念でもない、ただの子供じみた願望よ。それでもその願望を叶えたいなら、力ずくで証明してみなさい。――あたしが踏みにじってあげるから!」


 ポプレの手の中で五行の水のエレメントストーンが妖しく輝く。するとポプレを中心にまたも大気中の水分が集まっていく。

 さっきまでと違うのは、水の球が小さく圧縮されることはなく、今度はポプレ自身をも胸元近くまで飲み込んでいる点だ。


「ミラージュ・ダークサーペント!」


 水流が放たれる。ダークスプラッシュとの違いは、複数本に分岐することなく一匹の巨大な水蛇となってフィオーレに襲いかかった点だった。フィオーレとポプレとの距離はおよそ二十メートル。その二倍近い全長を波打つようにうねらせた水蛇は、小型車くらいなら一呑みしてしまいそうな鎌首を、容赦なくフィオーレに振り下ろした。

 しかし、


「フィオーレ・ジャーミネーション!」

「――何っ!」


 フィオーレが掛け声とともに拳を放った。

 それが水蛇の鼻っ面とぶつかる。その瞬間、ぶわっという音と共に水蛇の頭が緑色の波に飲まれた。打突点から無数の木々の芽が猛烈な勢いで生じたのだ。まさに五行相生・水生木――やはり俺の見立て通り、フィオーレの技はポプレに対して相性が良い。

 緑色の若芽はあっという間に長さと太さを増して灰茶けた木の枝へと変化、水蛇の胴体を喰らい尽くすように勢い良く伸びていく。その向かう先――水蛇の尾の先には、当然ポプレの姿がある。


「フィオーレ・ブランチスピア!」


 先に突き出した右拳に重ねるように、フィオーレが更に左拳を振るう。すると木々の先端が捻れて鋭く尖り、文字通り枝の槍(ブランチスピア)と化す。


「こ……のォッ!」


 ポプレは水の刃を放ち、ブランチスピアの先端を切り落とす。しかしその断面からさらに芽が無数に伸び、新たな穂先を形作る。


「くっ……お前たち!」

「フアンダァァァ!」


 ポプレの号令を受け、人型フアンダーの一体がブランチスピアの前に立ちはだかった。

 フィオーレはビクッと身体を震わせ、突き出した手を僅かに引く。槍の穂先は急停止して、人型フアンダーの眉間のほんのすこし手前で静止する。


「あなた、また味方を盾に――!」

「フィオーレ、危ない!」


 ポプレに向かって声を荒らげるフィオーレに、いつの間にか横から回りこむように近づいていた残る三体の人型フアンダーが襲いかかる。


「――――! フィオーレ・ヴァイン!」


 フィオーレが咄嗟に放った蔦は、三体のうち一体の身体を縛り上げた。

 だが残る二体は身を沈めて避け、フィオーレに喰らいつく。


「この――っ!」

「フアンダァァァ!」

「きゃあぁっ!」


 躍り掛った二体の片方を蹴り飛ばしたところで、最後の一体がフィオーレを捉える。蹴り上げたフィオーレの足を掴んだそいつは、そのまま乱暴に地面に叩きつけた。

 ドゴッと重い音が響く。砂地といえど、勢い任せに叩きつけられたらダメージは計り知れない。

 さらに人型は倒れたフィオーレに馬乗りになり、無造作にその顔面を何発も何発も殴打していく。


「ぐぅっ! あぁっ!」


 フィオーレの悲鳴と、頭蓋が殴りつけられる鈍い音が繰り返される。

 俺は咄嗟にスズメバチと交戦中のマーレとチェーロを確認した。だが二人とも無数のスズメバチの攻撃を捌くので手一杯だ。顔に焦りを浮かべてフィオーレの状況を気にかけてはいるものの、援護に入る余裕はない。


「くそ――フィオーレ!」

「――だめ!」


 思わず飛び出そうとした俺を、螢が襟を掴んで制止した。

 見れば螢も顔面蒼白、唇を噛み切りそうなほど険しい表情を浮かべていた。凄惨な光景に怒っているのは明白だ。


「離せ、くそ!」

「あなたが行って何になるの!」

「でも、フィオーレが!」

「あなたが行くくらいならわたしが――」


 そう言って螢が踏み出そうとした時、


「――来ないで!」


 フィオーレは横薙ぎの拳で馬乗りになっていたフアンダーを振り払った。


「――っはぁ、はぁ……わたしは大丈夫、二人は絶対に、守るから……!」


 苦しそうに呼吸を荒げながらフィオーレが立ち上がる。髪は振り乱れ、背中は砂まみれ、横顔には真っ赤な打撲痕。目に見えて深刻なダメージを負っている。だがそれでも、その目には迷いも怯えも一切見えない。


「わたしは、憎しみには、負けない……ポプレ、あなたには絶対に負けない!」

「倒すべき敵のことをいちいち気にかける甘ちゃんごときが、あたしに勝つつもりかぁッ!」


 振り絞るように叫んだフィオーレに、ポプレは激昂する。

 しかしフィオーレは一歩も下がろうとはしない。


「――なんか――じゃない……」

「――何?」

「フェアリズムにとって、フアンダーは倒すべき敵なんかじゃない! 救うべき相手だから!」


 フィオーレの左手の薬指――五行の木のエレメントストーンが桃色の光を放つ。

 同時に光の花弁がフィオーレを包んでいく。回復技、ヒーリングブルームだ。


「させるかッ! お前たち、フィオーレにとどめを刺せ!」


 すかさずポプレが号令を下すと、四体の人型フアンダーが次々と突進していく。

 フィオーレはヒーリングブルームを中断して跳躍、それを回避する。だが今の一瞬では受けたダメージは回復しきれなかったらしい。その体捌きは精彩を欠き、着地の際にもふらついてしまうほどだ。

 その隙を見逃さずに、さらに人型たちの追撃が迫る。フィオーレは半ば倒れるように横っ飛びして、どうにか避ける。もはや反撃に転じる余裕は無い――完全に防戦を強いられていた。


「あはははは! 無様ね、フェアフィオーレ!」


 じわじわと追い詰められていくフィオーレを、ポプレは愉悦と憎悪に顔を歪めて嗤う。しかし、やはりそこに余裕は感じられない。


「甘っちょろい願望なんかが憎悪に勝るはずがない! さあ、あたしを憎め、フアンダーを憎め、お前も憎しみに染まれ!」


 ポプレは全身で――いや、全身全霊を賭して、憎しみを叫んでいた。それはまるで赤ん坊が泣き叫ぶ声のようにも聞こえる。


 生まれる前、母親の胎内にいる胎児にとっては、「自分」と「自分を取り巻く世界」に境界がない。自分こそが世界であり、世界こそが自分――そんな充足の中にいる。

 しかし生まれた瞬間から、それは一変する。

 眩しい、暗い、暑い、寒い、痛い、気持ち悪い……あらゆる外側からの刺激が、小さな赤子に「どうやら自分と世界はイコールではない」という自覚を促していく。そうやって世界そのものであった意識は、世界の片隅に存在する一個の存在として、「自我」を獲得していく。


 その次に起こるのは、「自分以外の世界」をさらに細分化していくことだ。あれは父親、これは母親、犬、車、木――ごちゃまぜの「自分以外の世界」だったものを、そうやって一つ一つの細かな存在へと分割していく。

 それは、物と物、人と人、あらゆるものの間に境界線を引いて、切り離していくこと。言うなれば拒絶の歴史、憎しみの歴史だ。


 そういう意味で、世界の本質は憎悪だというポプレの叫びは、決して間違っていない。

 きっとポプレは、憎悪することによって切り離してしまいたいのだ。

 父親を、母親を、タチアナを、幸福だった頃の思い出を、自身の中に残る後悔や苦しみを――そして自分がオリガという少女だったこと、その全てを。


 だがそんなポプレの心情よりも、そして俺の理解よりも、さらにその先にフィオーレはいた。


「わたしは憎まない! フアンダーのことも――あなたのことも」

「何だと……っ!」

「わたしには大切な人がいる。最初はその人だけを大切にできればそれでいいって思ってた。でも、その人にも大切な誰かがいて、その誰かにもまた別の大切な誰かがいる。最初はそれが苦しくて、辛かった。でも、もう迷わない! そうやって、誰かを思う心で世界は繋がっていくんだから!」


 人型フアンダーの猛攻を必死に捌きながら、フィオーレが叫ぶ。


「不思議だよね、バラバラの存在だから憎しみが生まれる。ううん、憎むからバラバラの存在になるのかもしれない。でもね、そんなバラバラの存在だからこそ、繋がっていくことができる。それを教えてくれたのも、わたしの大切な人たちなの!」


 ポプレは苦々しい顔で唇を噛み締めた。あのポプレが、フィオーレの言葉に圧倒されているのがわかる。

 いや、ポプレだけじゃない。俺の腕の中で、螢もまた身を震わせた。

 そして、それは俺も同じだった。

 フィオーレが口にしたのは、俺には辿りつけなかった思考だ。俺はポプレの言葉を理解し、共感した。しかしそれゆえに、そこで立ち止まった。否定したいのに否定できない、そう思ってしまっていた。

 でも、必要なのは否定ではなかった。その先に進むことだったのだ。


「その繋がり――心の繋がりを守ることがわたしたちフェアリズムの使命! ポプレ、あなたが憎しみで世界を分かつというなら――わたしは愛で世界を繋いでみせる!」


 愛――世界を繋ぐ愛。フィオーレが高らかに放ったその言葉こそが、ここ何日もの間ずっと追い求めてきた答えなのだと、俺は確信した。

 同時に、フィオーレの持つ五行の木のエレメントストーンが強烈なピンクの光を放つ。その光を浴びて、人型フアンダーたちはギクリと身を硬直させた。


 フィオーレの横顔は、一瞬ぽかんと口を開いて驚きを露わにする。けれど次の瞬間には、唇はキッと結ばれ、瞳は力強く輝いた。


「ありがとう、五行の木のエレメントストーン――力を貸して! フィオーレ・エレメンタルボンド!」


 フィオーレが叫ぶ。すると無軌道に放たれるだけだった光はその色味を増し、まるで凝縮されるようにフィオーレの右手に吸い込まれていく。

 やがて光が収まった時、フィオーレの左手からはエレメントストーンの指輪が消失していた。かわりに、右手に一本のバトンのようなものが握りしめられている。

 白い円柱状の持ち手に、少し膨らんだ先端。そこには桃色に輝く宝石が取り付けられていた。宝石を支える、それよりもやや薄い桃色の台座には、緑色の月桂樹のモチーフが彫刻されている。バトンは、どうやら五行の木のエレメントストーンが姿を変えたものらしかった。


 結合(ボンド)――それは元素と元素の結びつきを意味する化学の用語。そして心と心の相互作用――繋がりを意味する臨床心理学の用語でもある。

 そう、心は元素と似ている。個と個に隔てられ、様々な形と性質を持ち、互いに反発し合う。けれどその斥力を超越して惹かれ合い、繋がることだってできる。

 その繋がるエネルギー、愛こそがフェアリズムの力。探していた答えはそんなにもシンプルで、そんなにも美しいものだった。

 きっと最初に他人の口から聞かされても、俺はただの冗談か綺麗事だと切り捨ててしまったことだろう。でも、この合宿を通じて桃と、(ひかる)と、渚と、(ゆう)と、麻美と――そして螢と触れ合うことができた今だからこそ、それは俺の中に絶対の確信として宿る。


「届け、草花のいたわり! フィオーレ・フローラルエンヴェロープ――リゾーマタ!」


 フィオーレが手にしたバトン――エレメンタルボンドを振るった。

 するとその描いた軌道は光の帯となって広がり、狼狽する人型フアンダーたちを包んでいく。やがてそれは淡い桃色に輝く四つの光の球と化した。


「クロージング!」


 フィオーレの掛け声を合図に、光の球が次々と大爆発を起こす。

 一瞬ぎょっとしてしまったが、しかしすぐにそれは安堵に変わる。

 爆発が収まった時、そこには夏らしい薄手の服を身につけた四人の男女が、折り重なるように倒れていた。ポプレによってフアンダーにされてしまっていた、元の人間たちだ。


「フィオーレ!」

「よかった……ぼくたちも負けてられないよ、マーレ!」


 四人の人型フアンダーが浄化されたのを見て、マーレとチェーロも歓声を上げる。

 二人はそれぞれが半円を描くようにスズメバチの攻撃を回避しながら移動し、ちょうど一箇所に誘導し終えたところだった。


「チェーロ、狛犬の時の要領よ!」

「わかってる! ――風が運ぶは冷たき輝き!」

「ちょ、ちょっと! その掛け声って本当に私も言わなきゃダメなの? ――ああもうっ、わかりました、言えばいいんでしょう! ――輝きがもたらすは永久(とこしえ)の安息!」

「そう来なくっちゃ! 行くよ!」

『フェアリズム・アブソリュートアムネスティ!』


 マーレが放った無数の氷の結晶を、チェーロの風が一斉に巻き上げた。暴力的に吹き荒れるブリザードと化した二つの力は、まんまと誘導されたスズメバチフアンダーの群れを一瞬で飲み込む。

 シスター・キャンサーの狛犬フアンダーを一時的にでも足止めしてみせた合体技だ。

 それにしても、いつの間に技名や掛け声まで考えて練習していたのだろうか。その辺りはほとんどチェーロの仕業だと思うが、やはりこの二人は良いコンビだ。


 吹雪が止んだ時、そこには真夏の砂浜から聳え立つ氷の柱が出現していた。

 大人が十人がかりで手をつないでようやく囲えるかという巨大な氷柱に、三十匹以上いたスズメバチフアンダーは全て閉じ込められている。一網打尽、という言葉が似つかわしい。


「グ、ググァ……ンダァ……」


 たまたま頭が氷の外に露出していた一匹が、苦しそうに呻く。不死身のフアンダーたちの力を持ってしても、身体の自由を完全に奪われてはどうにもできないらしかった。


「大丈夫。すぐに終わらせますから、じっとしててください」


 マーレは一歩前に踏み出すと、エレメントストーンの指輪にそっと唇を重ねる。


「五大の水のエレメントストーン、お願い! マーレ・カームクレンズ!」


 まっすぐ突き出したマーレの両手から、青色の光が放たれる。

 光は氷柱を包み込み、まるで液体のように実体感を増し、とぷんと揺れた。


 次の瞬間には、バシャッと水そのものの音を立て、光が弾け飛んで消える。だがそれと同時に、聳え立つ氷柱も、ひしめくスズメバチフアンダーたちも消滅していた。

 後に残ったのは、何十匹もの小さな――といってもあくまでフアンダーと比べてだが――スズメバチ。マーレの浄化技がフアンダーたちを元の姿に戻したのだ。

 スズメバチたちは少しフラフラと力なく飛び回った後、一斉に朝焼けの空に消えていく。


「くっ……こんな馬鹿な!」


 全ての手駒を失ったポプレが、怒りと驚きで顔を引き攣らせた。


「さあ、ポプレ。次はあなたの番だよ」


 スズメバチ戦を横目で見守っていたフィオーレが、ポプレに向き直る。その両隣にマーレとチェーロも駆けつけた。


 いかにポプレの手にエレメントストーンがあるといっても、三対一の優勢が覆されることはないだろう。ましてやフィオーレの手には新たな力、エレメンタルボンドがあるのだから。

 だから今ポプレがすべきことは、この場を切り抜けて撤退することだ。前回の戦いで俺の裏をかいて逃げおおせたように。


 しかし。


「――認めない!」


 予想はできていたが、ポプレは瞳に爛々と憎悪を灯した。まだ戦意は失せていない。


「愛が憎しみに勝る力? そんなことは認めない! 絶対に――絶対に認めない!」


 喉が張り裂けるんじゃないかと思うほどの絶叫。口にこそ出さなかったが、そこに「だったらどうしてタチアナは死んだのだ」という怒りが込められているのは明白だ。


 ズキ、と胸が痛む。

 ポプレの痛ましさにではない。その痛ましい姿を見てなお、ムキになって戦闘を継続するなら好都合、撃破する最大のチャンスだ――そんな風に考えてしまったことへの罪悪感だ。

 それでも、俺はその罪悪感を押し殺さなければならない。


 五行の水のエレメントストーンをポプレが持っているということは、《組織》はこれで俺たちと並ぶ五つのエレメントストーンを手にしたことになる。エレメントストーンを集めることは、すなわちシスターを撃破することに置き換わりつつある。

 ポプレをここで撃破できれば、それは俺たちにとって大きな一歩だ。


「ポプレ、これ以上の戦いは無意味だよ」

「黙れッ! お前たちが憎悪に勝る愛で戦うのなら、あたしはその愛すらも憎悪で飲み込んでやる!」


 ポプレが五行の水のエレメントストーンをかざす。

 それを中心に、大気中の水分が吸い寄せられて超圧縮の水球を形作る。三度目のダークスプラッシュだ。


 もはやポプレはまともな判断力を失っていると見て間違いなかった。

 恐らく今のポプレの攻撃はフィオーレ一人でも十分に防げる。真っ向勝負でフェアリズムが負ける要因はもう無い。


――勝った。


 俺は半ばそう確信した。

 だが、その時だった。


「喰らえ、ミラージュ・ダークスプラ――ッ!?」


 技を放とうとしたポプレが突然硬直する。

 ばしゅっと湿った音を立てて、水球が呆気無く弾けた。


「な……んで……?」


 呆然と呟くその口許から、一筋の赤色が顎に伝い落ちる。

 ポプレの胸元からは、先の尖った薄べったい金属片が生えていた。それは背中側から貫かれた短剣の先端だ。

 真っ赤な雫が刃を伝って滴る。


「くそった……れ……」


 ポプレの身体が力なく崩折れ、その背後に立つ存在――たった今ポプレを背後から刺した犯人の姿が露わになる。

 血に染まった短剣を手に立っていたそいつの姿は、ポプレと同じ黒いフード付きのローブ、ポプレよりも頭一つ分は高い身長、そして顔を覆う仮面。見間違えようがない。シスター・キャンサーだった。


「なっ……?」


 フェアリズムたちに動揺が走った。いや、それだけではない。螢もまた唖然とキャンサーを見つめている。


「我告げる。ポプレ、汝がここで負けてエレメントストーンを失うのは、我々にとって損失である」


 キャンサーは自らの手で刺したポプレを見下ろし、老婆のようなしわがれ声で淡々と宣告する。


「――もっとも、聞こえていないようだがな」


 まるで感情のない機械人形のように、キャンサーの声からは何の抑揚も感じられない。


「我告げる。そういうわけでポプレは連れ帰らせてもらうぞ、フェアリズムよ」


 キャンサーは懐から小さな革袋を取り出す。ちょうど女性用の小物巾着くらいの大きさだ。

 だが次の瞬間、俺は目を疑った。

 小さな革袋にキャンサーが手を突っ込むと、そのまま肘辺りまでがすっぽりと革袋の中に隠れた。明らかに見た目の容積よりも広い空間が、革袋の中に存在するとしか思えない。


 キャンサーが革袋の中から取り出したのは、緑青(ろくしょう)を思わせる色味の、丸い金属鏡だった。目算でも直径が五十センチは軽く超えている。明らかに小さな革袋の中に収容できるとは思えない代物だ。

 国民的アニメに登場するロボットが、不思議なポケットから未来の道具を取り出す――まるでそんなシーンを思わせる光景だったのに、俺にもフェアリズムたちにも緊張が走る。それはひとえに、キャンサーの得体の知れなさがもたらす警戒心だ。


「あれはまさか、フェルマーの革袋と、クラインの扉!?」


 俺の頭上でアリエルが叫んだ。どちらも聞き覚えのない言葉だが、それがキャンサーの持つ革袋と鏡――恐らくはフェアリエンの至宝なのだろう――の名であることは理解できた。


「どうして――クラインの扉は妖精の王族しか触れることができないはずよ、どうしてシスターなんかが!?」


 信じられない、とアリエルが騒ぎ立てる。


「馬鹿な、あれは動かせないはずじゃあ――」


 螢もまた驚きを隠せない声で呟いた。少し離れた位置にいるフィオーレには聞こえる心配が無い。でもアリエルには聞かれてしまっただろう。

 そんな迂闊なことをしてしまうほどに、螢もまたキャンサーの取り出した鏡に動揺を示していた。


「……待ちなさい!」


 マーレが叫ぶ。


「このまま行かせるわけにいかない……!」

「ちょうどきみにリベンジしたかったところだよ、キャンサー!」


 マーレの声で我に返り、フィオーレとチェーロも続く。

 三人は散開して三方向からキャンサーを取り囲むと、じりじりとその距離を詰めていく。キャンサーを攻略する糸口はまだ掴めていないが、こちらはフィオーレが劇的にパワーアップしている。もしそれによってキャンサーの無効化能力を突破できれば、ポプレだけではなくキャンサーもまとめて撃破するチャンスだ。


 しかしキャンサーは少しも焦る素振りを見せなかった。

 自分ににじり寄る三人のフェアリズムを順番に眺める。それから俺・螢・アリエルにも舐めるような視線を送ってきて、


「……これ以上は危険、か」


 抑揚の無い声で言った。


「もう手遅れさ! チェーロ・エリアルソードッ!」


 痺れを切らしたチェーロが風の剣を生成して握り締める。

 だがキャンサーは興味なさげにそれを一瞥した。


「いくよ、天空剣キュリオシティ!」

「勘違いするな、フェアチェーロ。――ストーミー・ダークガスト」


 五大の空のエレメントストーンを天に向かって掲げ、淡々と技の名を唱えるキャンサー。

 するとその頭上に真っ黒い竜巻状の風の渦が生じる。


「我はダイアをこれ以上汝らの元に置いておけぬと言ったのだ」

「――っ!?」


 緑色に輝く風の剣をチェーロが振り抜く。しかしキャンサーはそれを相手にせず、軽くひと睨みするとともに、天に掲げた手を振り下ろした。

 チェーロの風の剣が音もなく消滅する。

 そしてキャンサーの放った漆黒の突風は、呆気にとられるチェーロでもなく、マーレでもなく、フィオーレでもなく――俺に襲いかかった。


「しまっ――!?」


 咄嗟の攻撃に、避けようとしても身体がついてこない。

 突風が三十メートル近い距離を進んで来るまで、ほんの一、二秒だったのだろう。

 しかし俺にはそれが何十秒にも感じられた。


 咄嗟に庇おうとした俺の腕を振り払って、逆に螢が飛び出す。

 ほんの一瞬目が合うと、螢はそれを振り切るように顔を逸し、突風の前に立ちはだかる。

 螢が両手を前に突き出す。その右手には陰陽の闇のエレメントストーンのペンダントがぶら下がっている。


 螢の前に漆黒の防御壁が展開された。

 防御壁が突風と衝突。両方が同時に消し飛ぶ。


 助かった――そう思った次の瞬間には、俺の視線はフィオーレを追っていた。

 悔しそうに歯噛みするチェーロ、俺と同じようにフィオーレの顔を伺うマーレ。

 そしてフィオーレは、信じられないものを見たとばかり、ぽかんと口を開いていた。


 ほんの一瞬と言ってもいい時間の中、俺はそこまでの流れをまるでコマ送りのように眺めていた。


 しくじった。そんな後悔と、脳が揺さぶられるような衝撃とともに、限界まで加速した体感時間が急激に元に戻る。


「ほ……たる……ちゃん……?」


 フィオーレの声は震えていた。


「それは、ダイアのエレメントストーン……? なんで、まさか、どうして……?」


 すぐ隣に敵であるシスター・キャンサーがいることすら忘れ、フィオーレは螢を見つめていた。

 いや、見つめるという表現は相応しくない。眉尻は下がり、その下の目は大きく見開かれ、焦点が上手く定まらないようにも見えた。


 そんなフィオーレの様子に、螢は肩をすくめて俺に横顔を向ける。


「……ごめんなさい。合宿が終わるまでは――って約束、守れなくなってしまったわ」


 螢は笑っていた。

 少なくとも口元は笑みを形作っていた。

 しかし、その琥珀色の瞳には、深い悲痛と、激しい怒りを同時に宿している。


「螢……」

「まあ、遅かれ早かれこうなることは決まっていたものね」


 冷静を装った口調で言い放ち、螢は顔を背けた。


「我は問う。目は覚めたか、ダイア」


 キャンサーは相変わらず抑揚のない声で尋ねた。「ダイア」の部分に、フィオーレがびくりと肩を震わせる。

 螢は僅かにフィオーレの方に顔を向け、すぐにキャンサーに向き直る。


「ええ、おかげさまで。不愉快な早起きをさせてくれて、どうもありがとう」

「……礼には及ばない。クラインの扉を繋ぐ、汝はポプレを連れて先に撤退せよ」


 螢の皮肉が通じないのか、あるいは敢えて取り合わなかったのか、キャンサーは淡々と言葉を紡ぐ。


「――そうね。正直このまま野垂れ死んで欲しいイカレ女だけど、滑稽な一面を見せてくれたご褒美に連れ帰ってあげようかしらね」


 ポプレを口汚く罵りながら、螢は静かに砂浜を歩いていく。

 フィオーレは呆然とそれを目で追う。マーレとチェーロも、阻もうとはしない。今の螢を「黒沢螢」と「シスター・ダイア」のどちらで扱うべきか、決めかねているようだ。


「それで――わたしを先に帰して、あなたはどうするつもり?」

「我はフェアリズムどもを仕留め、ヴィジュニャーナとエレメントストーンを回収する」

「あら、そう。それなら――」


 螢は陰陽の闇のエレメントストーンを握り締め、岩場を登る。そうしてキャンサーの目前まで近づいた時、


「サイレント・ダークスピア!」


 唐突に螢がキャンサーに向かって攻撃を放った。ポプレのフアンダーとの戦いの最中に見せた漆黒の槍を放つ技だが、槍の本数はたった一本しかない。

 キャンサーはその攻撃を予測していたのか、スッと手をかざす。螢の放った闇の槍は、大気に溶けるように呆気無く消え失せてしまった。キャンサーの持つ五大の空のエレメントストーンの力だ。

 だが、


「サイレント・ダークスピア!」

「サイレント・ダークスピア!」

「サイレント・ダークスピア!」

「サイレント・ダークスピア!」


 打ち消されても打ち消されても、螢は次々と漆黒の槍を放つ。

 何度も繰り返し、マーレとチェーロが困惑で眉を顰めた頃、ようやく螢は攻撃を止め、ガクッと膝を衝いた。


 シスターはどうやら、エレメントストーンの力を使う度に相当消耗するらしい。

 ポプレと戦っている最中、既に螢は限界近くまで力を使ってしまっていた。にもかかわらず、さっきは残った力を振り絞って俺を守ってくれたのだ。

 今キャンサーに向けて放った攻撃など、恐らくはその絞りかすに過ぎない。初めから通用する筈が無かった。

 螢が一体なぜそんなことをしたのか、俺にも見当がつかない。


 螢はふらふらとよろめきながら、もう一度立ち上がる。


「……さっきの一撃のお礼よ。文句ある?」

「否。だが我も随分消耗した。汝の望み通り、これではフェアリズムどもと戦うのは困難と予測される」

「何のことかしらね。――単なる腹いせよ」

「クラインの扉を開こう」


 少しも動じることなく、キャンサーは青銅鏡――クラインの扉を起動する。鏡から放たれた不思議な光が空間に投影され、いかにも重厚そうな金属扉を映し出した。初めは立体映像のように見えたそれは、あっという間に質感を伴う実体へと変化する。

 その起動の仕方は、どこかエヴェレットの鏡と似ているように思えた。


 鏡と同じ緑青色をした扉が、ぎぎぎ、と金属の擦れる音を立てながら勝手に開いた。開かれた扉の中は真っ黒な空間になっていて、向こう側が見えない。


 螢は横たわるポプレを抱きかかえると、首だけでフィオーレの方を向く。


「フェアフィオーレ――いえ、桃」


 螢に呼ばれ、フィオーレはビクッと震え上がった。言葉が上手く出てこないのか、口をパクパクと動かす。

 そんなフィオーレに、


「次に会う時は敵同士よ。あなたがお風呂で言ったこと、嘘にしないでね」


 螢は一方的に言い放ち、扉をくぐる。

 その後を、クラインの扉の本体――あるいは容器――を持ったキャンサーも無言で追う。

 シスターたちが暗闇の向こうに消えると、扉は最初と同じように重い摩擦音を立てて、ひとりでに閉じた。それからあっという間に実体感が薄れ、掻き消えてしまう。


 俺たちは言葉を発することすらできず、扉が消えたその場所を呆然と眺めていた。

 辺りはもうすっかり明るくなって、遠くからは海鳥の鳴き声が聞こえる。


 フェアリズムの新たな力――《世界を繋ぐもの》。それをようやく手にしたというのに。

 エレメントストーンを持つシスターを相手に、互角以上の戦いができたというのに。

 それを上回るどうしようもない喪失感が、俺たちを支配していた。

誤字修正(15/09/19)

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