第二三話 間違いの悲劇 -Tragedy of Errors-
オリガとタチアナ、二歳違いの美しい姉妹は、貧しい農村で生まれ育った。
父親はタチアナが生まれてすぐに事故で亡くなった。
高貴な家柄の出で、父親とは駆け落ちで結ばれたという母親は、仕事らしい仕事は何一つまともにできなかった。
それでも三人家族が細々と食べていけるだけの収入はあった。
母親は親切な人がお金をくれるのだと言っていたが、その「親切な人」とは、美しい母親のもとを時折訪ねてくる、不特定多数の男たちなのだということをオリガはぼんやり理解していた。
オリガが十二歳、タチアナが十歳になったある日、母親は再婚をした。
二人の新しい父親は大きな街で商会を営む裕福な男性で、二人は母親に連れられて街に移り住んだ。
綺麗な服、温かい食べ物、どれも嬉しいものばかりだったが、中でもオリガにとって一番嬉しいのは母親が辛い仕事をしなくて済むことだった。
しかし幸せは長続きしなかった。
それからすぐ、継父の事業は世界的な恐慌の煽りを受けて経営状況が悪化したのだった。
継父は富を失い、部下を失い、そしてやがて地位までも失った。
四人家族は逃げ出すように豪邸を後にし、農村のみすぼらしい家に戻った。
手元に残った僅かな金で、切り詰めた生活が始まった。
オリガもタチアナもそんな生活には慣れっこだったが、両親は違った。母親は日に日に無口になっていき、継父は逆に頻繁に声を荒げ、時には酒に酔って家族に暴力を振るうようになった。
辛いことばかりの毎日だったが、オリガとタチアナは姉妹で励まし合い、笑顔を失うことなく過ごした。タチアナは生まれつき身体の弱い子だったが、それでもオリガにとっては何よりも強靭な心の支えだった。
それから二年が経ち、継父の金も底をついたある日。オリガは、両親が姉妹のどちらかを手放す相談をしているのを立ち聞きしてしまった。
継父の商会時代の知人が若い娘を養女に欲しがっており、姉妹のどちらかを手渡せば高額の謝礼が貰えるのだという。
どちらが養女に出されることになっても、タチアナとは離れ離れになってしまう。それを恐れたオリガは、働きに出ることにした。
近所の家の畑の手伝い、店の配達、それからかつての母親と同じ「親切な人」を相手にした仕事まで。オリガはなりふり構わず、がむしゃらに働いた。
自分が金を稼いで一家の暮らしが少しでも楽になれば、愛しいタチアナと離れ離れにならなくて済む。役立つ子になって両親に愛されれば、タチアナと離れ離れになりたくないという願いを聞き入れてもらえる――そう思ったのだ。
だがある日、仕事で心身ともに疲れ果てて帰宅したオリガは、自分の浅はかさを思い知らされた。その日オリガが仕事に出ている間に、タチアナは遠い街へ養女に出されてしまっていた。
両親からそれを聞かされ、オリガは愕然とした。
自分のせいだ。自分が働いてお金を稼いだから――両親は役立つオリガではなく、病弱なタチアナを養女に出すことを決めてしまったのだ。
何もかもが裏目に出てしまった。
愛しい妹は、別れの言葉を交わすことすらできず、遠くに行ってしまった。
せめてタチアナが貰われた先で幸せに暮らしていますように――そう祈りながらオリガは日々を過ごした。
とうとう物言わぬ人形のようになってしまった母親、ますます粗暴さを増していく継父。地獄のような日々だったが、いつかタチアナと再開する日を夢見て、オリガは耐え続けた。
そうして五年が経ち、オリガは十九歳になっていた。
仕事から戻り、母親の世話をして、飲んだくれの継父が帰宅する前に家の中の片付け。そんないつもの日課を淡々とこなしている最中、オリガは継父の机の引き出しから封筒が飛び出しているのを見つけた。
何の気なしにその封筒を手に取り、ハッとした。
消印の日付は三年も前。
宛先はオリガ。
そして差出人は――タチアナだった。
慌てて手紙を開くと、そこにはタチアナの引き取られた先での苦しい生活がつらつらと書かれていた。
養女という名目で引き取られたタチアナが、どれだけ過酷な――そして屈辱的な扱いを受けているか。それが何十行にも渡って続き、最後は「さようなら、オリガ」で結ばれていた。それはタチアナからの最後の手紙だったのだ。
その時、オリガの中で何かが音を立てて壊れてしまった。
タチアナはその手紙を出した直後――十四歳の若さで自ら命を絶っていた。
その手紙の前にもタチアナからオリガに宛てた手紙は何通も届いていたが、それは全て継父が捨ててしまっていた。
帰宅した継父からそれだけ聞き出すと、オリガは顔色一つ変えず――薄笑いすら浮かべたまま継父を包丁で刺殺した。母親が取り乱して屍に縋り付いたので、母親も殺した。
念入りに灯油を撒いてから家に火を付け、その騒ぎに人目が集中している隙に近くの家から馬を奪うと、オリガは手紙に書かれた住所を頼りにタチアナを引き取った家へと向かった。
それから数日後、オリガの姿は農村からほど近い湖の畔にあった。
タチアナはもういない。
継父、母、薄汚い男たち――タチアナを地獄に突き落とした憎むべき人間は、たった一人を除いて全て皆殺しにした。
残るは最後の一人――オリガ自身を残すだけだった。
「ごめんね、タチアナ」
そう呟いて、オリガは湖に身を投げた――。
-†-
「…………っ!」
ビクッと身体を震わせ、その拍子に俺は目を覚ました。
猛烈な暑苦しさを感じて掛け布団を跳ね除け、上半身を起こす。
呼吸が荒い。全身が汗でじっとりと湿っている。嫌な夢を見たせいだ。
夢の中で俺はオリガという女性の半生を目撃した。愛情深く生きた少女が、皮肉にもそれによって絶望の底に突き落とされ、憎悪に染まってしまう――思い出すだけでも胸糞が悪くなるような夢だった。
果たしてあれは本当にただの夢なのだろうか。舞台は欧州のどこかに思えたが、夢にしては妙な生々しさを持っていた。それに、あのオリガの顔にはどこかで見覚えがあるような気がした。
ひょっとすると例によって、ヴィジュニャーナが見せた過去の出来事だったのではないだろうか?
そう思ったところで、左隣の布団に目をやる。毛布越しに聞こえてきたじゃんけん大会の結果、確かそこは螢が寝ることになっていた。
もしさっきの夢がヴィジュニャーナの見せた夢なのだとしたら、螢の陰陽の闇のエレメントストーンが関与したのではないかと思ったのだ。
だが、布団はもぬけの殻だった。
「螢……?」
訝しく思いながら周囲を見渡す。
窓の外からは彼は誰時のまどろむような青暗い光が差し込んでいた。
桃、光、麻美、それにエミちゃん――リビングには静かに眠るその四人の姿しか見当たらない。螢だけじゃなく、渚と優の姿が無い。
時計はまだ午前四時を回ったところだ。こんな早くに、一体三人はどこに消えたのか。
胸騒ぎを感じながら立ち上がり、寝ている四人を起こさないように気をつけながら、荷物のある部屋へと向かう。
ベッドの上で眠りこけている梶を横目に、身体を軽く拭いてバッグから取り出した服に着替えた。忘れないように携帯を掴んでポケットに突っ込む。
それから玄関へ向かう。
そこで、俺の胸騒ぎは半ば確信へと変わった。玄関前の廊下には、寄り添うように眠る渚と優の姿があった。二人には毛布が掛けられている。
この二人、ずいぶん寝相が悪いな……なんて、呑気な勘違いをしてしまえればよかったのだが。間違いなくこれは螢の仕業だ。
「渚、優、起きてくれ」
二人を揺り起こす。妙に熟睡していて骨が折れたが、やがてなんとか渚が、そして優も目を覚ました。
まだ少し放心状態の二人に話を聞くと、螢はどうやら一人でポプレを迎撃しようとしているらしかった。渚と優が螢の正体に気づいていたのには驚かされたが、今はその話をしている場合ではない。
「ぼくたちも着替えたらすぐに向かうから」
「ダイア――いえ螢さんを見つけたら、すぐに携帯で連絡してください。決して無茶はなさらないよう」
「わかった!」
二人に見送られて外に出る。向かう先は海岸――三体のスズメバチフアンダーに襲われた地点だ。
急げ……急げ! アスファルトを全力で蹴って走り、防砂林にもそのスピードのまま突っ込む。
道を選んでいたら遠回りになる。そんな暇なんか無い。薄暗い中、荒れた地面を直線で突っ切る。枝葉が頬に当たって痛い。でも構うもんか。
途中で思い切りつんのめって転倒し、そのまま転がるように防砂林を抜ける。
視界が一気に開けた。目の前には砂浜が広がり、そのすぐ先には海、そして岩場がある。昨夜フアンダーに襲われた地点だ。
そこには予想通り螢の姿があった。
そして予想を遥かに上回る、絶望的な光景も。
「くっ……」
螢は砂浜に倒れ伏し、それでも起き上がろうとしていた。
螢の周囲には、戦闘不能となったスズメバチフアンダーが何体も転がっている。どうやら陰陽の闇のエレメントストーンの力で眠らせたらしい。
だがそれでもなお、状況は絶望的だった。
螢を取り囲むのは、夥しい数の影。空中でけたたましい羽音を立てるスズメバチフアンダーが少なくとも二十、そして砂地には大きさこそ普通の人間と大差ないが、全身を真っ黒なボディスーツで覆ったような不気味な連中――恐らく人間のフアンダーだろう――が四人。数体を欠いてなお、圧倒的な戦力だ。
そしてそこから少し離れた岩の上には、黒いローブに身を包んだシスター・ポプレの姿があった。
「いい気味ねぇ、ダイア。さぁ――さっさとフェアリズムたちの居場所を教えなさい?」
「…………断るわ」
フラフラとよろけながらも螢は立ち上がる。
悠然とした態度のポプレに対し、螢の方には余裕が感じられない。この絶望的な戦力差を考えれば、それも当然だ。
「あらぁ、あなた《組織》を裏切る気なのかしらぁ?」
「フッ、忠誠心なんかこれっぽっちも無いあなたが『裏切る』なんて口にするのは滑稽ね、ポプレ。……わたしはシスター・ダイア、フェアリズムの敵。この人間界に絶望をもたらす者。それに変わりはないわ」
「だったらどうしてフェアリズムを庇うのかしらぁ? あたしと協力してフェアリズムを倒せばいいじゃなぁい?」
「生憎だけど、あなたと手を組むなんてゴメンよ。あなただってそんな気は毛頭無いでしょう。わざわざこの場所を探りだしてまでやって来たのは、フェアリズムへのリベンジだけが目的じゃない。わたしへの嫌がらせなのは分かっているわ」
「ふぅん……」
どうしようもない劣勢の中、螢は毅然とした態度を貫く。
フアンダーたちはそんな螢をジッと注視し、主からの攻撃命令を待っていた。
「その時が来れば、フェアリズムはわたしの手で倒す。あなたのイカレた嫌がらせのとばっちりで、あの子たちの合宿を邪魔させはしないわ!」
先に動いたのは螢だった。
「サイレント・ダークスピア!」
宙に手をかざして螢が叫ぶと、その手を中心に突如として何本もの棘状の物体が生成された。
鋭く尖った真っ黒な四角錐の底面同士を貼り付けたような形状のそれは、全長にして五、六十センチ。それが螢の右手の周りに浮かんでいる。
「はあっ!」
螢が手を振り下ろすと、漆黒の槍は一斉にポプレに向かって飛んでいく。大量のフアンダーたちを無視して、一気に親玉を片付ける作戦だ。
だが、それを見てもポプレは動じない。薄暗くてよく見えないが、その口の端がニヤリと歪んだ気がした。
「ミラージュ・ダークウォール!」
今度はポプレが叫ぶ。するとその身体の前に真っ黒な霧のようなものが生じる。螢の放った闇の槍は、霧に捕らわれてその中で溶けるように消滅した。
「なっ――!?」
「あはははは! いいわぁ、ダイア。その驚いた顔ぉ。エレメントストーンを手に入れて、あたしより強くなったつもりだったんでしょうけどぉ……残念でしたぁ!」
高笑いとともにポプレはローブの中からペンダントを取り出した。
ここからではそれが何なのかはっきりと判別できない。だが、想像することは容易かった。
「まさか、五行の水のエレメントストーン! どうしてあなたがそんなものを?」
「どうしてでもいいじゃないのぉ。それよりダイア、これであたしとあなたは互角よぉ? つまりここにいるフアンダー二十八体分、あなたが圧倒的に不利なわけだけどぉ、どうするぅ?」
「答えのわかってる問いをするな! わたしは考えを曲げるつもりはない!」
おちょくるように問うポプレに、ダイアは激昂する。
しかしそれは愚直――あるいは蛮勇にも見えた。あまりに螢の勝ち目は薄い。意地だけではこの窮地は乗り切れないはずだ。
渚と優には既にこの場所をメールで伝えた。しかしこのままでは二人が到着する前に決着がついてしまう。
考えろ、この状況を切り抜ける方法を考えろ、使える材料を探せ、両太郎……!
「そう、だったら死になさい」
わざとらしい口調が消え、ゾッとするほど冷たい声で言い放つと同時に、ポプレは右手を高らかに掲げた。それを合図に、螢を取り囲んでいたフアンダーたちが一斉に攻撃の姿勢に入る。
そのポプレの冷たい表情に、俺の脳神経は稲妻のように反応した。
これだ――これしかない!
「待て!」
腹の底から声を振り絞って叫ぶ。同時に俺は砂浜を駆け、ポプレの視線から遮るように螢のすぐ前に立つ。もちろん、それで螢を守れるなんて思ってはいない。周囲全方向、頭上まで囲まれている状況では、たった一方向だけ庇っても気休めにしかならない。
それでも俺は、唯一見つけられたこの状況を切り抜ける材料――それに賭ける。
「…………あらぁ、いいところに来たわねぇ?」
ポプレは甘ったるい口調に戻って、愉悦に表情を歪めた。
螢に襲いかかろうとしていたフアンダーたちが動きを止め、一斉に俺に照準を移したのが伝わってくる。
二十八体のフアンダーの視線を浴び、背中がチリチリと疼く。怖い、はっきり言って思いっきり怖い。
だが、シスターたちは俺を殺さずに生け捕るように命令されているらしい。少なくとも殺されることは無いわけだ。それを逆手にとれば、時間稼ぎくらいならできるはずだ。
「両太郎、どうして……せっかく眠らせたのに……」
背後で螢が呟く。
なるほど、俺はやっぱり陰陽の闇のエレメントストーンで眠らされていたのか。それが分かったおかげで、さっきの夢がヴィジュニャーナの見せたものである確信が持てた。
そして即ち、陰陽の闇のエレメントストーンがヴィジュニャーナに作用するという仮説もまた同時に証明されたと言える。
できれば螢に協力して貰って色々実験したいところだ。
だがそのためにはまず、このポプレとの戦いを切り抜けなければならない。
「花澤両太郎、だったわねぇ。まさかダイアを助けに来たのぉ?」
「ダイアを助けに来たんじゃない、螢を助けに来たんだ」
「ぷっ……あはは!」
俺の言葉にポプレは厭らしく笑った。
「螢、ねぇ。人間をやめた化け物のくせに、随分上手に人間に取り行ったものだわぁ。でも戦う力の無いあなたが、どうやって助けるつもりなのかしらぁ?」
「こうするんだよ!」
「ちょ――何を、きゃあ!」
俺は振り向き、螢に覆いかぶさるように抱き寄せた。少しは抵抗されるかと思ったが、驚きの方が勝ったのか、螢は身を強張らせて動かない。もちろんそのほうが都合がいい。
「りょ、両太郎……?」
「悪いけど大人しくしててくれ」
腕の中の螢に言い聞かせてから、ポプレに向き直る。
「ポプレ、攻撃をやめろ。螢を攻撃すれば俺も巻き込むことになるぞ」
おかしな脅しなのは承知の上だ。だがそれでも、シスターたちが俺を殺せないのであれば効果はあるはず。そう考えながらポプレを睨みつける。
だがポプレは、キョトンと目を見開く。
「……あなた、またその手なのぉ?」
そう言われてみれば、図書館棟の屋上でポプレと戦った時にも、俺は自分を盾にすることで戦況をひっくり返そうとしたんだったな。
だがあの時と今とでは、戦況も俺という存在の意味も、大きく異なっている。
「ああ、またこの手だ。ワンパターンで悪いが、お前たちが俺を――ヴィジュニャーナを必要としているなら、利用させてもらう」
するとポプレは不愉快そうに眉を顰めた。
「ヴィジュニャーナ……何のことかよく分からないけど、キャンサーがあなたを殺すなって言ってたのはそういうことねぇ?」
どうやらポプレも螢と同じように、ヴィジュニャーナについて詳しくは知らないようだった。
そしてポプレはもう一度妖艶な笑みを浮かべ、
「まあ、あたしには関係ないわぁ。あなたも一緒に死んじゃいなさぁい?」
俺の想定外の一言を楽しそうに漏らした。
くそ、マジかよこいつ! 《組織》の目的なんかお構い無しか!
「……人間をやめた化け物はどっちよ。わたしはあなたのように心まで化け物になった覚えは無いわ」
俺の腕の中で、螢が忌々しげに吐き捨てる。その言葉に、ポプレの表情は一層の愉悦に染まる。
「あははは! そうねぇ、あたしはあんたみたいな甘ちゃんとは違うわぁ。……で、捨て台詞はもう満足かしらぁ?」
「このイカレ女っ……!」
目を爛々と輝かせ、ルージュを差した唇を半月形に歪め、ポプレは俺たちを見下ろしている。
くそっ――最悪だ。ここまで理屈無視の相手だと、理屈で組み立てた作戦なんて何の意味も為さない。そうなってしまえば俺なんて、戦えもしないただの人間に過ぎない。
――いや、まだだ。諦めるな。
俺がただの人間と異なる部分――この状況を切り抜ける唯一の材料は、まだ使っちゃいない!
「良かったわねぇダイア――そうやって人間の腕に抱かれて、人間みたいに死ねるんだからねぇ?」
ポプレが右手を振り上げる。フアンダーたちに命令を下し、俺たちを殺すつもりだ。
絶体絶命のピンチ。――でもここが、今この瞬間が、唯一のチャンスだ!
「それはお前自身の願いか、ポプレ!」
スズメバチフアンダーの羽音にかき消されないよう、大声で叫ぶ。
その問いかけに、ポプレは僅かに目を細めた。
「…………どういう意味かしらぁ?」
「人間をやめた化け物になる前に、人間として死ぬ。それがお前の叶えられなかった願いなのかと聞いているんだ、シスター・ポプレ。――いや、オリガ!」
「――――!」
今度こそポプレの顔色が変わった。余裕ぶった尊大な態度は全て消し飛び、顔色は青ざめ、瞳には激情を――激しい怒りを灯す。
どうやら賭けに勝ったらしかった。ヴィジュニャーナが俺に見せた夢、それはポプレの過去の姿だったのだ。
人間界で湖に身を投げたはずのオリガが、どういう経緯でフェアリエンに辿り着き、シスターとなってしまったのかはわからない。だが彼女もまた、螢と同じように深い絶望に囚われた人間なのだ。
「その名前をどこで知った!」
口調が一変した。以前戦った時にも感じたが、この憎悪を剥き出しにした姿こそが本来のシスター・ポプレなのだろう。甘ったるい喋り方も、厭らしい笑みも、その上に塗り固めた仮面のようなものに過ぎない。
「ヴィジュニャーナが俺に見せてくれたよ、オリガ。お前の身に起きた悲劇のことをな」
俺は少しでも時間を稼ぐため、できるだけゆっくりと答えた。
「……黙れ、その名であたしを呼ぶな」
「お前は悪くない。全てはボタンの掛け違いだ。お前が自分を責め――憎む必要は無い」
「黙れと言っているのよ!」
「俺は見た、お前がどれだけタチアナを愛し、心の支えにしたのかを」
「黙れ、黙れ黙れ黙れ! タチアナの名をお前が気安く呼ぶなあッ!」
全身が粟立つほどの感情を迸らせ、ポプレは絶叫する。その姿を困惑したように見つめる螢が、ゴクリと生唾を飲み込むのが聞こえた。
螢もまたポプレと同じように、人に触れられたくない過去を持つ。それをいともたやすく抉るヴィジュニャーナの力に、恐怖を感じているのかもしれない。
「お前はフアンダーじゃなくあたしの手で殺す! 五行の水のエレメントストーン、あたしに従いなさいッ!」
逆十字のペンダントを握りしめて咆哮するポプレ。その右手の先に、大気中から水分が凝固するように集まっていく。水は重力を無視して生き物のようにうねり、渦巻き、まるでそこにあった栓が抜けてしまったかのように空間のある一点に凝縮された。見た目はバスケットボールかそれより少し大きい程度の水の球――しかしその容積の中には、間違いなく尋常じゃない物量が圧縮されている。
本来は非圧縮性流体――圧力をかけても体積がほとんど減らないはずの水が、エレメントストーンの不思議な力によって不自然なまでに圧縮された状態。それがどれだけの攻撃性能を持つかは想像に難くない。水流は科学技術で可能な範囲の加圧をしただけでも、至近距離ならば人間を容易く殺傷できる凶器に変貌するのだ。
どうやら時間稼ぎはこれが限界らしい。
「……螢、アレってどうにかできたりするか?」
「悔しいけど無理ね。フアンダーとの戦いで消耗しすぎたわ」
「そうか……じゃあ、間に合わなかったらごめんな」
何が、とは言わなかった。変に期待を持たせるようなことを言っても仕方ない。
それに、今のこの状況は螢が一人で戦おうとしたこと、そして俺が一人で助けに入ったこと、その行動の結果でしかない。決して誰かの助けが遅れたからだなんて、責任転嫁をしたくない。
だが、俺が敢えて口にしなかったそれを、螢は察したらしい。
「そういう時に限って、腹が立つくらいタイミング良く現れる気がするのよね――わたしの宿敵たちは」
そう言って螢が笑う。それは敵としての憎まれ口なのか、それとも友達としての信頼なのか――きっとその両方なのだろう。釣られて俺も笑った。
それが神経を逆撫でたのか、
「消し飛びなさい! ミラージュ・ダークスプラッシュ!」
ポプレが右手を振り下ろした。
同時に水球が弾け、無数の水流が放たれる。それはさながらギリシャ神話の多頭竜の如く、俺たちに襲いかかる。
だが、果たして螢の言う通り、その攻撃は俺たちに届くことはなかった。
「マーレ・グレイシアウォール!」
「チェーロ・エリアルシールドっ!」
高らかな叫び声と同時に、俺たちの眼前に青と緑――二枚の防御壁が発生した。
鋭いカーブを描いて猛烈な勢いで青の防御壁に衝突した水流は、砕け散るようにその勢いを失ってシャワーのように降り注ぐ。それを緑の防御壁が全て受け止め、弾き返した。
「おまたせ、リョウくん!」
「遅くなってすみません!」
チェーロが、続いてマーレが、俺たちの両脇に颯爽と着地する。
まったく、カッコいいじゃないか!
「グッドタイミングだ、助かった!」
「下がっていてください、桃さん――フィオーレもすぐに来てくれます!」
「フィオーレが――? 分かった、二人も気をつけてくれ。ポプレは五行の水のエレメントストーンを持っている!」
それだけ言い残し、螢の手を引いてフアンダーたちの合間を突っ切る。
フィオーレまで駆けつけてくれるのは戦力的には非常に頼もしい。しかしそうなると、螢にエレメントストーンを使わせるわけにはいかない。戦えない俺たちは前線にいては足手まといになる。
「逃げられると思うな! フアンダー、両太郎を殺しなさい!」
ポプレの金切り声に、フアンダーは一斉に俺たちに襲いかかる。
だが、
「おっと、キミたちの相手はぼくだ! チェーロ・エリアルバウンダリー!」
チェーロの放った風がフアンダーたちを巻き取り、壁となって動きを阻害する。そしてその壁は図書館棟での戦いの時と同じで、俺たちをあっさり素通りさせてくれた。
一瞬シスターである螢も風に阻まれてしまうのではないかと危惧したが、杞憂に終わった。繊細なコントロールをしてくれているらしい。
岩場にポプレ、少し離れてマーレとチェーロとそれを囲むフアンダー。そこから風の壁を挟んで俺と螢という構図だ。
「両太郎さんを傷つけるというなら、先に私たちを倒すことですね」
「そういうこと! ……ま、こんなにフアンダーがいるなんて、ちょっちビックリしたけどね!」
大量の敵に囲まれてなお、マーレとチェーロは力強く見得を切る。
それを忌々しげに見下ろし、ポプレは再度フアンダーに命を下す。二十八体のフアンダーは一斉に二人へと狙いを変えた。
「無茶よ、あの数を二人で相手にするなんて……」
螢が唇を噛みながら呟く。
その無茶に今すぐ自分も加勢してしまいたい――そんな顔をしているのは、指摘しないでおく。
「無茶だとしても、戦うべき時がある。お前だってさっき、そう思ったんだろう?」
「…………そうね」
螢は繋ぎっぱなしになっていた手を振りほどいて、真っ直ぐ戦場に向き直る。
「あなたたちのバカが伝染ったんだわ」
そう言った螢の整った横顔は、笑っているようでもあり、怒っているようにも見えた。




