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愛と元素のフェアリズム  作者: みなもとさとり
Element.2 世界を繋ぐもの
61/93

第二一話 夜は更けゆく 3 -Nessun Dorma 3-

 洗い場で軽く身体を流して湯船に向かう。

 螢は石でできた湯船の端に腰掛けて足だけを湯に浸し、空を見上げていた。いつの間にか長い髪を束ねて頭の上でまとめている。

 その螢から近すぎもせず遠過ぎもせず、微妙な位置を選んで湯船に浸る。バスタオルを巻いたまま入浴するのはちょっとマナー的にどうかと思うが、混浴の温泉なんかじゃそういうルールの場所もあるらしいし、気にしないことにした。何より今この状況では、バスタオルを外す事のほうがマズい。決定的に、そして徹底的にマズい。


 湯船のお湯は天然の温泉を引いていると麻美が言っていたが、確かに少し硫化水素臭がある。上がる時に軽くシャワーを浴びなきゃな、なんて思いながら、俺も螢に倣って星空を見上げる。


 天の川を挟んで、ヴェガにアルタイル、デネブ。そこから少し離れた西の空には、春の大三角の端――アークトゥルスとスピカが見える。それから、南にはアンタレス――。どれもさっき(ひかる)(ゆう)と一緒に見た星だ。たとえ詳しく知らなくても、名前くらいなら誰だって聞いたことがある有名な一等星たち。

 しかし螢にとってこの人間界は異世界。この星空は、知らない星々に彩られた夜空なのだ。


 そんな風に思っていたら、


「……懐かしい」


 不意に螢が呟いた。

 横目で確認しても、螢は相変わらず空を見上げている。「懐かしい」という言葉の指し示す先は、星空で間違い無さそうだった。


「フェアリエンの星空を思い出しているのか?」


 尋ねてみると、螢は首を振って否定した。


「……まだわたしが小さかった頃、兄さんが星の本を読んでくれたことがあった。その本に書かれている沢山の星座を二人で一生懸命探してみたけれど、どこにも見つからなかった……」

「その本って、ひょっとして――」

「ええ、人間界の本。だから、そこに描かれている星座がフェアリエンで見つからないのは当たり前よね。あの頃は兄さんもわたしも、そんなことすら思い至らなかった」


 視界の端で、螢が自嘲気味に笑うのが見えた。それは他愛もない子供の頃の出来事かもしれない。しかし螢にとっては、永遠に失ってしまったと思い込んでいる、大切な兄との思い出だ。


「まさかあの時見つけられなかった星座を、こんな風に見上げることになるなんてね。――兄さんにも見せてあげたかったわ」

「螢……」


 一瞬、「刹那は生きている」という言葉が喉まで出かかった。それを必死に飲み込む。


 刹那は生きている――もしかしたらここまでだけであれば、螢に伝えてしまっても良いのかもしれない。しかしそうなれば必然的に、螢の記憶に焼き付いている絶望の記憶――メトシェラが刹那を剣で貫いているあの光景についても、説明が必要になってしまう。

 二人は自らの命を差し出して螢を救った。その事実は、絶望に心を囚われている今の螢にとって、何の救いにもならない。それどころか螢を更なる絶望に――自己否定に追い込むことにすらなりかねない。

 ダメだ、やはり今は話すべきじゃない。


「刹那は小さい頃から読書家だったんだな」


 かわりに無難な相槌を打とう。

 そう思って発した言葉に、しかし螢は表情を一変させた。


――しまった。

 そう思った時には、もう既に遅かった。


「やっぱり夕方のは聞き間違いじゃなかったのね」


 螢は怪訝そうに眉を顰め、俺を睨むようにジッと目を合わせてくる。


「わたしはあなたに兄さんの名前を教えた覚えは無い」

「そ、それは……」

「さっきはまんまと誤魔化されたけれど、今度はきちんと話してもらうわ。両太郎、あなたはどうして兄さんの名前を知っているの?」


 螢の声は静かで、それでいて鋭かった。軽く細めた琥珀色の瞳には、強い意志の光が灯っている。とても誤魔化せるような空気じゃない。


「……わかった、話すよ」


 観念するしかなかった。


「刹那の名前はヴィジュニャーナのおかげで知ったんだ」

「ヴィジュニャーナ――確かキャンサーが言っていた、あなたの中にあるという存在ね」


 螢の顔の真剣味が増す。それは暗に、螢がまだ《組織》からヴィジュニャーナについての情報を下ろされていないことを示している。その一方、キャンサーは明らかにヴィジュニャーナがどういう存在か知っている素振りだった。あれは一体どういうことだろう。螢――ダイアが《組織》の中で軽んじられているのか、あるいはシスターの中でもキャンサーは何か特別な存在なのだろうか。


 色々と気になる点はあるが、ともあれ今は螢に対してきちんと話をするのが先だ。気を緩めて、余計な口を滑らせてしまってはいけない。


「ヴィジュニャーナの全貌は俺にもよくわかっていない。ただ、時間も空間も超越してあらゆることを知ることができる力――俺はそう思っている」

「あらゆることを、知る……?」

「コントロールできればの話だけどな。残念ながら今のところ、俺はヴィジュニャーナの化身が夢の中で気まぐれに見せてくる光景を、ただ眺めることしかできない」

「そう……」


 螢の声色には僅かな落胆が含まれていた。そして螢はそれを気取られたくないのか、視線を逸らす。

 恐らく、刹那が生きているか――それを知りたかったのだろう。

 胸がチクリと痛む。

 螢が求めた答えを、俺は知っている。しかしそれを伝えるわけにはいかない。


「ヴィジュニャーナは今まで俺の夢の中に二度現れた。一度目はこの間の八々木公園での戦いの後。二度目は今日、海に落ちた後だ。その時に見た光景はフェアリエンの森で子供の頃のお前と刹那とメトシェラが遊んでいるところだったんだ」

「そう――」


 螢はそれだけ答えて俯く。

 マズい、機嫌を損ねたか?

 そりゃ、自分や兄弟の過去の姿を一方的に他人に覗かれたら、いい気はしないだろうけど……。


「――二回とも、わたしの攻撃を受けた後なのね」

「え?」

「八々木公園の時も今日も、どちらも両太郎はわたしの――というより、陰陽の闇のエレメントストーンでの攻撃を受けたでしょう?」


 そう言われてみればその通りだ。

 螢が俯いた理由は不機嫌になったからではなく、そのことに気づいたからだったのだ。

 くそ、どうして俺は今まで気づかなかったんだ。ヴィジュニャーナのことをより理解する手がかりが、ひょっとすると螢の持つ陰陽の闇のエレメントストーンにあるかもしれない。本当にそうだったなら、大きな前進だ。


「螢、陰陽の闇のエレメントストーンはどういう力を持っているんだ?」

「あなたは毎度毎度どうして敵に向かって、そんな堂々と手の内を聞き出そうとするのよ……」

「合宿の間は敵のシスター・ダイアじゃなくて、友達の黒沢螢だろ。頼む、教えてくれ」

「だめよ。陰陽の闇のエレメントストーンは黒沢螢じゃなく、シスター・ダイアのものだもの」


 螢があまりにツンと澄ました態度を取るものだから、俺は思わず立ち上がって詰め寄り、露わになっている肩を掴んで揺さぶる。


「頼む、俺がヴィジュニャーナを理解することは、フェアリズムのパワーアップにも繋がるらしいんだ。協力してくれ」

「だからそれを言われたら、なおさらわたしが協力する理由が無くなるでしょう!」

「ぐっ……」


 螢の主張はもっともだ。道理が通っていないのは俺の方。

 しかし、


「もう少し上手に頼みなさい」


 螢は呆れ笑いを浮かべて、そう続けた。


「螢、それじゃあ……!」

「ヴィジュニャーナのことを教えてくれたお返しよ。陰陽の闇のエレメントストーンの力は文字通りの闇と、そして眠り。相手を眠らせたり、事実とは違うことを認識させることができるわ」

「なるほど、睡眠と催眠ってとこか。――そうか、人間界に戸籍がない螢が朝陽学園の学籍を取得できたのは、学校関係者を陰陽のエレメントストーンで催眠術にかけたのか」

「そういうこと。ま、わたしの編入手続きに必要なこと以外、危害は加えていないから心配しなくていいわ」

「その心配はしてないよ。螢は意味もなく人間を傷つけたりしないってわかってるから」

「――少しは疑いなさい、バカ」


 螢は気まずそうに顔を逸らした。そのせいで、上気した頬が目に入ってくる。

 きっと螢の頬を赤く染めているものは照れだけじゃない。温泉の熱気だけでもない。困惑と、そして怒り――。

 中等部花壇で『黒沢螢』として初めて会った時からそうだった。螢は自分の言葉があっさり信用されてしまうことを恐れ、むしろ疑われることに安心するかのような態度を見せる。

 しかしヴィジュニャーナが見せてくれた昔の螢には、そんな様子は見られなかった。


 螢を変貌させたもの。俺はそれを深い絶望だと思っていた。絶望のあまり、どこか捻くれてしまったのだと。

 だが、果たして本当にそうなのだろうか?

 螢の腹部に救う黒い石――《死に至る病》。螢はあれが自身を人ならざる者にし、人ならざる力を与えていると言った。でも、それだけだろうか?

 螢の意識、心の在り方にまで干渉している可能性はないのだろうか?


 以前戦ったシスター・ポプレ。あいつもまるで、他人からの憎悪を自ら望んでいるようだった。

 猜疑を求めるダイア、憎悪を望むポプレ。その姿はまるで自らを絶望に駆り立てるようにすら見える。

 それが彼女たちの自由意志によるものなら、まあ仕方ない。

 でも、もし何者かが彼女たちの心を操ってそうさせているのだとしたら――俺はそいつを絶対に許さない。


「……肩、痛いんだけど」


 螢の声でハッと我に返る。知らず知らずのうち、手に強く力を込めてしまっていたらしい。


「何を考えてたのか知らないけど、急に思考モードに入らないで欲しいわね……」

「す、すまん」


 さっき(ひかる)(ゆう)にも同じようなことを言われたばかりなのに、またやってしまった。

 急いで手を離し、もう一度螢から距離をとろうと後退りする。

 しかし慌てたものだから、その拍子に底石の段差に躓いて、前のめりに倒れこんでしまう。


「うわっ!」

「ちょ、ちょっと――きゃっ!」


 慌てて両手を突き出し、浴槽の縁を作っている大きな岩に腕立て伏せ(プッシュアップ)の姿勢で軟着陸。

 危なかった。なんとか岩場での転倒は避けられた。


 が、物理的な危険を上回る危険が俺を待ち受けていた。

 倒れこんだ時、当然俺の前には螢がいた。その螢は俺を避けようとして仰け反り、岩に寝そべるような態勢になっている。俺の両手は、その螢の肩のすぐ側。

 つまるところ、現在俺は螢を思い切り押し倒すような姿勢になってしまっている。


 バスタオル一枚の女の子を、バスタオル一枚の男が押し倒している。密閉された露天風呂で。


「………………」

「………………」


 岩べりに倒れこんだまま、お互いに目を合わせ、身体を強張らせたまま沈黙する。

 これはアクシデントだ。そしてこの絵面のマズさはお互いに認識している。無言のまま、そんな意思疎通を交わす。

 少しでも肌が触れたら、倫理的にレッドカード発動が免れないこの状況。螢が冷静でいてくれることが唯一の救いだ。


 だが、困ったことに身動きが取れない。身体を起こそうにも、多少なりとも一度腕を曲げて反動をつける必要がある。だがそんなことをしたら、螢と身体が触れてしまうかもしれない。それは確実にアウト、大アウトだ。


「えっと……ごめん、本当にごめん。悪気はない」

「そ、そうね。わかってるわ」

「頭とか、打ってないよな?」

「え、ええ、大丈夫よ」

「すぐ起き上がるから。本当にすぐ起き上がるから。ちょっとだけじっとしててくれるか。少しだけ、その……腕を曲げないと」

「だ、大丈夫よ。何を焦ってるの。ただの事故でしょ、焦るほうがおかしいわ」

「そうだな、事故だ事故。不幸な――あ、いやごめん。不幸ってのは言葉のアヤで……っていうか俺にとって不幸ってことじゃなくて、えっと――」

「ぷっ」


 麻美の忠告が頭を過って、思わず訂正してしまった。それに対して、螢は思い切り吹き出す。


「ちょ……笑うなよ!」

「笑うわよ、こんな態勢でまで両太郎は両太郎なんだもの……ぷふっ、あはは!」


 おかしくてたまらないといった様子で、螢は声を押さえずに屈託なく笑った。

 身をよじって馬鹿笑いするものだから、俺はそれに触れないように両手を思い切り伸ばすしかない。腕立て伏せの体勢から、生まれたての子鹿にシフトだ。くそ、これじゃ一向に起き上がれないじゃないか。

 でも、螢が心からの笑顔を見せてくれたのは初めてだ。まるで今まで忘れていた笑いが堰を切って溢れ始めたみたいにも見える。

 まあ、俺が笑われてるわけだから気分は良くないけどな。


「ああおかしかった。さ、早くどいて」


 螢はようやく笑い止んだかと思えば、そんな台詞を素っ気なくぶつけてきた。


「お前なあ……。まあいいや、今度こそ動くなよ」

「わかってるわ、あなたこそ余計なこと言って笑わせないで」


 いえ螢さん。僕は「あなたを笑わせた」のではなく、「あなたに笑われた」んですよ。これ結構な心の傷ですよ。ほんとマジで。

 そんな反論をしそうになったが、余計に笑われそうな気がしたのでやめておく。今はこの姿勢をなんとかするのが先決だ。いくら誰も見ていないとは言っても、螢を押し倒してるようにしか見えないこの状況はマズい。

 まずは限界まで伸ばした四肢を緩め、生まれたての子鹿から再び腕立て伏せに戻る。

 そこから起き上がる反動をつけようと、さらに腕を曲げた。


――その時だった。


 ガラガラという聞き覚えのある音が俺の動きを中断させた。

 それが何の音かを俺が理解したのと同時に、螢の顔が引き攣る。きっと、俺も同じ表情をしているだろう。


「お兄ちゃん、螢ちゃん、湯加減は――えええええええぇぇっ!?」


 顔を向けたその先、脱衣所に続く引き戸のところに、何故か水着を着た桃が立っていた。

 俺たちの方を見て、桃もまた顔を引き攣らせている。それどころか全身を強張らせ、リアクションに詰まっている様子だ。

 うん。確認するまでもなく、完全に状況を誤解されている。


 なぜ桃がここに? どうして水着なんだ? なんてツッコミどころは沢山あるのだが、それどころではない。


「そ、その――麻美ちゃんから、お兄ちゃんと螢ちゃんをお風呂に閉じ込めたから、わたしも入って来いって言われて……。でも、邪魔だったかな……邪魔だったよね……」


 ツッコミを入れる前に俺の疑問の方は解決してしまった。なるほどこれも麻美の企てか。丁寧な説明ありがとう。

 しかし桃の誤解の方は、手遅れなレベルで進行してしまっている。この状況を見て誤解するなという方が無理なのかもしれないが。


「違う、違うんだ桃! これはそういうアレじゃなくて、転びそうになっただけだから!」

「そ、そうよ! ただの不幸な事故だもの!」


 慌てて起き上がり、螢と二人で必死に桃に弁明する。

 っていうかお前が不幸な事故って言うのかよ。まあいいけど。


「本当に……?」

「ああ、本当だ。俺はお前に嘘はつかない」


 と言ってみてから、ついさっきの渚に問い詰められたことを思い出し、


「――まあ、隠し事はするけどさ」


 と付け加えた。螢は「バカじゃないの」とでも言いたげに冷たい視線を送ってきたが、桃はクスリと笑う。


「よかったあ、とんでもないところを目撃しちゃったかと思って、びっくりしたよ……」


 どうにか納得してくれたらしく、桃はへにゃりと脱力した。

 物分かりのいい子で良かった。これが(ひかる)(ゆう)だったら、もっと悲惨なことになっていた気がする。


「大丈夫よ、桃」


 螢はそう言って、桃の隣まで歩いて行く。


「桃の大事なお兄ちゃんを取ったりしないわ」

「ほ、螢ちゃん!?」


 螢に肩をポンポン叩かれながら、今度は桃が狼狽える番だった。


「ななな何をいきなり――」

「あら、何かおかしいことを言った?」

「うう……螢ちゃんの意地悪」


 湯船に入る前から桃の顔は見る見る真っ赤になっていく。中学二年生にもなってお兄ちゃんっ子だと思われるのは流石に恥ずかしいらしい。

 それにしても今のやりとりからして、桃も螢にかなり気を許しているらしい。行きの車の中でも螢にベッタリだったけど、あれは気を使っているというか、親しくなろうと頑張っているような雰囲気だった。しかし今はそんなぎこちなさが消え、仲の良い友達として接しているように見える。これならもしかすると、螢がシスター・ダイアであるという事実を伝えても、乗り越えてくれるんじゃないだろうか?


 なるほど、そうか。ようやく麻美の企みが見えてきたぞ。

 状況ベースで見れば「俺と螢を閉じ込めたところに桃を送り込んだ」という流れだけど、実際の狙いベースで言えば「桃と螢を閉じ込めて、俺に二人の様子を観察させる」だ。

 流石は麻美様、良い仕事をなさる。まあ倫理的な側面では一言申し上げたい気持ちで一杯だが。


 それじゃあ麻美の作戦に乗っかるとしようか。


「さあ、誤解も解けたことだし、一緒に風呂入ろうぜ!」


 親指で湯船を指しながら、爽やかに桃と螢に伝える。

 しかし二人から返ってきたのは、汚物を見るような蔑みの視線だった。


「なんか今の言い方、ちょっと嫌かも……」

「奇遇ね桃、わたしもよ」

「変態さんっぽかったよね……」

「そうね、間違いないわ」

「そ、そういうんじゃないって! さっき浜辺でみんなと話して回ってたんだけど、お前たちだけフアンダーが襲ってきたせいでろくに話せなかったから――」


 冷たい視線に心を折られそうになりながらも説明する。

 すると二人は一度顔を見合わせてから、ニィッとチェシャ猫みたいに笑った。


「バカね、最初からそう言いなさい」

「あはは、冗談だから泣かないで、お兄ちゃん」


 そう言って、湯船に入ってくる。

 なんだよお前ら、息ぴったりじゃないか。ちくしょう。喜べばいいのか悔しがればいいのかわからない。

 あと、別に泣いてなんかいないからな。



             -†-



 麻美に取り上げられていた俺たちの着替えは、桃が来る時に籠に戻しておいたとのことだった。螢の着替えの中にあったであろう陰陽の闇のエレメントストーンも、見つからずに済んだらしい。螢と目を合わせて安堵の息をつき、それから三人で色々な話をした。他愛もない日常の話が中心だ。


 桃が桃が大好き――大分ややこしいなコレ――という話に対しては、螢は笑わずにうんうんと頷いた。理由を尋ねると、螢も自分の名前の由来になった昆虫のことが好きだからとのことだった。

 お前の《地元》にもホタルがいたのかとボカしながら尋ねたところ、首肯が返ってきた。どうやらフェアリエンにもホタルは生息しているらしい。尻が光る妖精とかだったりしないだろうか。


 話題は学校の話にも及んだ。二学期から朝陽学園に通うことになっている螢に、校内のオススメスポットや学食の人気メニューのレクチャーをする流れだ。

 桃が薦めたのはツインハンバーグカレー。カレーライスの上に、煮込みハンバーグとチーズ入りの焼きハンバーグを乗せたゴージャスな一品で、俺が入学した頃から不動の人気を誇っている学食の名物メニューだ。流石は我が妹、良いセンスをしている。

 だが所詮は二年目のひよっ子。朝陽の学食の「デザートが非常に充実している」という特筆すべき点を見落とすとは、まだまだ未熟じゃて。


「フッ……俺が螢に自信を持って薦めるのは『気まぐれ旬のパルフェ』だ!」

「はっ! お兄ちゃん、それは……!」

「そう、旬を迎えて最高の味とお手頃な値段を兼ね備えたフルーツを贅沢に使用したパフェ――もう一つの名物メニューだ!」

「季節どころか月単位、ううん――時には週単位で全く別の内容に変わってしまうあのパフェね!」

「ああ。まさにその瞬間にしか味わえない瑞々しさの結晶、一期一会の味と言える!」

「お兄ちゃんずるい……学食のおすすめメニューって言ったら普通は食事でしょう!」

「一体いつから――パフェが食事ではないと錯覚していた?」

「そ、そんな!?」

「甘党の螢にとって、食事代わりにパフェを食うことなど容易い。なあ、そうだろう螢!」

「え? ま、まあ無理とは言わないけど……」


 夢中になって熱弁しすぎたらしく、螢は少し引いていた。



             -†-



 とまあ、戦いのことを忘れた穏やかな時間がしばし訪れた。

 しかし、そこに終止符が打たれる。


 それは螢の言葉だった。


「ねえ、桃はどうして《組織》と戦うの?」


 その問いかけに、桃は少し驚いた顔を見せた。口を半分開けたところで、答えを思案するように、あるいは言葉を選択するように、詰まってしまう。

 そんな桃の様子に目を細めて、答えを待たずに螢は続ける。


「前にスズメバチフアンダーから助けてくれた時より、今日のあなたの方がずっと強く見えた。そして今以上の力を手にするためにこんな合宿までしてる。それはどうして? 力を持ってしまった責任を果たすために戦うとか、仲間のために戦うとか、敵が強いから自分も強くなりたいとか、そういう『仕方ない理由』は全部抜きで。たとえばフェアリズムの力を別の誰かに渡すことができるとして。それでもあなた自身が戦って、あなた自身が強くなりたい、そんな理由があなたには存在するの?」


 螢の口調は鋭く、責めているような印象すらある。

 螢にはフェアリズムと戦う理由、確固たる意志がある。しかしフェアリズムの側はどうなのか。成り行きや義務感ではなく、本心からの戦う意志を持っているのか。自分の前に敵として立ちはだかるならば、その矜恃を語ってみせろ。そう言いたいのだろう。

 それは裏を返せば、螢自身が可能ならば戦いを避けたいと願っているからなのかもしれない。


 だが螢の厳しい追及に、桃はキッと口を結んで頷く。


「――守りたい人がいるから」

「それは、両太郎のこと?」


 螢の問いに、桃はもう一度頷いた。

 それは俺に少なからず衝撃をもたらした。桃が戦う理由が俺を守るためだというのなら、つまり桃は俺のせいで危険な目に遭ってるってことじゃないか――!


 そんな内心の動揺を察したのか、桃はチラリと俺を一瞥し、薄っすら優しげな笑みを浮かべる。


「わたし、最初は『守る』ってことをきちんと考えてなかったんだ。お兄ちゃんを守る、周りの人たちみんなを守る、世界を守る、そのために戦う――そう思ってたのは本当。でも螢ちゃんが言う通り、どこかで『わたしが守らなきゃ』っていう気持ちもあったと思う」

「――今は違うと?」

「《組織》との戦いの最中に、お兄ちゃんが殺されそうになったことがあるの」


 桃の声のトーンは明らかに一段階落ちた。心なしか凄みも増している。

 俺は心臓を直に掴まれたような感覚を覚えた。そっと螢の方を見ると、螢もまた顔を強張らせているのがはっきり見える。

 俺が「死にそうになった」ではなく「殺されそうになった」。その言葉からだけでも、暗に桃の中にあるシスター・ダイアへの敵意が伝わってくる。ましてやこのひしひしと伝わってくる怒気。想像していた以上に状況は深刻かもしれない。


「も、桃がヒーリングブルームで治療してくれたんだよな! あの時は本当に助かったよ!」


 強引に話を進めようと試みる。少しでもこの空気を変えてしまいたい。

 桃がふうっと息を吐き、再び穏やかな笑みを見せてくれたので、俺も内心で胸を撫で下ろす。


「うん――その時、わたしはフェアリズムになって良かったって心の底から思ったんだ。大切な人たちを守って、大丈夫だよって笑いかけられる――その力が自分にあることが、とても幸せだと思った。他の誰でもない、わたし自身の手でわたしの大切な人たちを守りたいの。だから今は『わたしが守らなきゃ』じゃなくて、『わたしが守りたい』――それが戦う理由」


 桃は凛とした瞳で螢を見据え、そう言い切った。

 気負いもなく、戸惑いもなく、飾りもない真っ直ぐな言葉。


 フェアリズムになってからの桃には何度も驚かされてきたけれど、今が一番大きな衝撃を受けている。

 フェアフィオーレが見せる、普段の桃からは想像できないような強靭な意志と、包み込むような優しさ――心の強さ。それはきっと桃の中にずっと存在していたものだ。いや、それだけじゃない。俺が気がつけなかっただけで、六年前のあの日からずっとその心が俺を守ってくれていた。


 そして今、フェアリズムという使命が、エレメントストーンという力が、その心に歩む道を与えた。この戦いは桃自身の選んだ道なのだ。「俺のせいで桃が辛い戦いを強いられている」なんて、とんだ勘違い、桃への侮辱でしかない。


「そう――それがあなたの戦う理由なのね」


 螢はどこか寂しさを纏った、儚げな微笑みを浮かべた。


「危ないから戦うのをやめて――なんて言っても、聞いてくれそうにないわね」

「うん。螢ちゃんが心配してくれるのは嬉しいけど、わたしは大丈夫」

「――よくわかったわ。変なことを聞いてごめん。わたしはあなたが進むその道で、あなたが傷つかないことを祈ってる」


 それだけ言うと、螢は立ち上がって洗い場の方に歩いて行く。その背中からは覚悟が伝わってくる。シスター・ダイアとして、フェアフィオーレと戦うことは決して避けられないのだと、螢は悟ったのだ。


「お、おい、螢――」

「先に上がるわ」

「あ、じゃあわたしも螢ちゃんと一緒に」


 螢は後を追おうとした桃を振り返る。


「桃は両太郎の背中でも流してあげて」

「えっ?」

「兄妹水入らずで露天風呂なんて、なかなか無い機会でしょう」

「そ、そうだけど……」


 凛々しい顔で戦う理由を説いた女戦士はどこへやら。桃は頬を少し赤く染め、モジモジとしながら俺と螢を交互に見る。

 まあそりゃいきなり背中を流せなんて言われたら照れもするよな……。

 しかし螢と一緒に桃が上がってしまうのは確かにマズい。今はバスタオルで隠れてるけど、着替えとなれば桃も螢の胸の《死に至る病》に気がついてしまうだろう。

 どうせこの合宿中には螢のことをフェアリズム全員に話すつもりだが、とはいえ今は時期尚早だ。合宿はまだ三日もある。その三日間をフル活用して、まずはなるべくみんなと螢の親睦を深めておくべきだ。特に桃は今のままじゃどういう反応を見せるかまったく読めない。


 こうなったら仕方ない。


「それじゃあせっかくだからお願いしよう。いいかな、桃?」

「えっ、お兄ちゃんまで――うん、いいけど……」


 桃は戸惑いながらも了承してくれた。

 螢に「どうだ、褒めてもいいぞ!」という意図を込めてウィンクを送る。しかし螢が返してきた視線は冷ややかだった。


「桃、先に一つお願い。わたしが身体を流す間、両太郎の目を塞いでおいて」

「あ、うん」


 返事と同時に、桃は俺の後ろに回りこんで両手で俺の目を覆う。いわゆる「だ~れだ?」の体勢だ。


「いや、別に見たりしないから!」

「見ないなら塞ごうが塞ぐまいが一緒でしょう」

「そ、そりゃそうだけど……」

「反論するところが怪しいわ。桃、念入りにお願いね」

「うん、任せて螢ちゃん!」


 避けられない戦いを予感させた二人は、しかし息ピッタリの掛け合いを披露する。

 俺はそこに一縷の希望を見出しつつ、自分の扱いの酷さに涙ぐむのだった。



 入浴を終えてリビングに戻ると、様相が一変していた。丁寧にテーブルまでどけて、八人分の布団が所狭しと敷かれている。

 みんなもリビングにいたので何事かと問うてみれば、俺と桃と螢が一緒に入浴したことを聞きつけた(ひかる)が、それならばと雑魚寝を所望したらしい。

 それならばってなんだよ、どういう理屈だ。


 しかし一日色々なことがあった疲労も襲ってきたので、俺は(ひかる)に促されるままにど真ん中の布団に潜り込んだ。布団越しに聞こえてくる謎のじゃんけん大会は無視だ。


 そんなわけで合宿初日の夜は、俺とフェアリズムの五人、螢、エミちゃん、みんな揃ってリビングで雑魚寝と相成った。

 誰かを忘れている気もしたけれど、気づかなかったことにして、俺はそっと目を閉じた。

誤字修正(14/12/22)

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