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愛と元素のフェアリズム  作者: みなもとさとり
Element.2 世界を繋ぐもの
58/93

第一八話 夏の夜の骨折り甲斐 3 -Midsummer Night's Labour's Won 3-

 桃と螢の姿は西側の岩場にあった。

 二人は大きな岩の出っ張りに並んで座り、空を見上げながら静かに何かを話している。


 暗くて遠巻きでは表情まではよく見えないが、笑い声も聞こえてくる。その様子を見て誰も二人が戦士(フェアリズム)宿敵(シスター)であるなどとは思わないだろう。相反する宿命を背負った二人は今、同い年の友人として穏やかな時間を過ごしているのだ。


 その穏やかな時間に割って入るのは少々気が引けるが、全員と話して回ると決めたからには成し遂げねばなるまい。

 足元に気をつけながら岩場を進む。表情が見えるくらいの距離に近づいても、星を眺めている二人はまだ俺に気づいていない。絶えず繰り返される波の音が、俺の足音を消しているせいもあるだろう。


「桃、螢、ちょっといいか――」


 俺が二人の名前を呼び、気がついた二人が俺の方を振り向いた。


 その瞬間だった。


 バババババッ! と、空気を激しく叩きつける爆音が上空から鳴り響いた。まだ笑顔の余韻を残していた桃と螢の表情が、その音によって一瞬で真剣味を帯びる。

 俺たちにはこの音に心当たりがあった。忘れようにも忘れようがない。六月末の朝陽(ちょうよう)学園図書館棟での戦いの際にシスター・ポプレが用いていた、スズメバチのフアンダーの音だ。


「まさか――っ!?」


 ヘリコプターでもなんでもいい。よく似た別の音であってくれ!

 そんな微かな期待を抱きながら上空を見る。しかし期待は裏切られ――そして予想は的中していた。上空二十メートルほどの高さに、星空を遮る影があった。それも一つではなく、三つ。

 爆音をまき散らす三つの影にはそれぞれ二つずつ、星よりも強く、そして禍々しい赤い光が灯っている。それは獲物である俺たちの姿を見とめ、攻撃の意思によって爛々と輝く複眼だ。

 間違いない、シスター・ポプレのスズメバチフアンダーだ。ポプレ本人の姿は見受けられない。


「そんな……あれはポプレのフアンダーの残党? どうしてこんなところに?」


 螢が困惑の声をこぼした。その言葉に内包された緊迫感に、俺は心中で安堵する。この様子ならば少なくとも、螢がフアンダーたちを手引きしたというわけではなさそうだ。


「螢ちゃん、お兄ちゃん、岩陰に隠れて! 上からの攻撃は守りきれないから!」


 桃はフアンダーたちを睨みつけたまま、左手を高く掲げた。既にそこには五行の木のエレメントストーンの指輪が装着されている。


「フェアリズム・カーテンライズ!」


 叫ぶと同時に桃の体が宙に浮き上がり、宝石の色と同じピンクの閃光を放った。

 まぶしい閃光の中で着ていた服は形を失い、ほとんど裸同然のシルエットになる。かわりに閃光の束が織り合わさって、桃の華奢な体を包んでいく。やがてそれは白地にピンクの花のモチーフをあしらったトップスに、ピンクのフレアスカートに、アームカバーに、ブーツに姿を変えた。肩までしか無かった髪は閃光と交じり合いながら、まるで蔓植物が伸びるかのように長さとボリュームを増していく。後ろ髪が後頭部でポニーテールに括られると同時に、五枚花弁のライラックを象った髪留めが現れた。


「咲き誇る愛の華、フェアフィオーレ!」


 閃光が収まり、変身を終えた桃――フェアフィオーレが高らかに名乗りを上げた。

 上空から様子をうかがっていたフアンダーたちの複眼が、それに呼応するかのように灼熱色の輝きを強める。


『フアンダァァァァァ!!』


 三体のフアンダーが一斉に野太い雄叫びを上げた。あちらも完全に臨戦態勢だ。


「お兄ちゃん、螢ちゃん、早く岩陰に!」


 フィオーレは俺たちに再度の避難を促す。しかし俺と螢は戸惑いながら顔を見合わせた。


「敵は三体だぞ、お前一人で戦う気か!」

「だからって二人に戦わせるわけにいかないよ。わたしは大丈夫、下がってて!」

「せめて他の皆を呼びに――」

「ダメ、それこそ敵は三体いるんだよ! バラバラになったところを襲われたら守れない!」


 フィオーレは頑として譲らない。そして確かにそれは理に適っている。皆を呼びに行く最中に俺が襲われたら、フィオーレだって手が回らなくなってしまう。

 くそ、こんなことなら携帯を置いてくるんじゃなかった。


 フィオーレも含めて全員で皆の方に走るという手もあるが、それはそれでリスクが非常に大きい。こちらは砂浜を走らなきゃならないのに対し、敵は空を自在に飛んでいる。何より、砂浜は岩場と比べて周囲がずっと開けていて、空を飛んでいるフアンダーたちにとって有利な地形だ。とてもじゃないが逃げきれるとは思えない。いつぞやビーハンで裂空の巨鳥イオアンと戦った時の状況にそっくりだ。

 あの時と違うのは、今ここに戦えるのがフィオーレしかいないということ。そして、これはゲームではなく現実だということだ。


「……わかった、でも絶対に無理はするな。皆がきっと駆けつけてくれる、それまで持ちこたえるんだ!」

「うん、任せて!」


 瞳に意志の輝きを宿し、口許には微笑を浮かべ、フィオーレが頷く。

 その力強い姿に、心中の不安や心配が薄れるのを感じた。


 俺は螢の手を取り、近くにあった大きな岩の陰まで走った。螢は黙ってついて来ながらも、どこか上の空だ。神妙な顔をして、何かを迷っているように見える。

 その理由はすぐに分かった。なぜなら螢は、懐から陰陽の闇のエレメントストーンを取り出して握り締めていたからだ。


「螢……?」

「両太郎、わたしは……」


 俺の顔、フィオーレの背中、そして握り閉めたエレメントストーン。視線を何度も行ったり来たりしながら、螢は逡巡している。

 それは自分も戦うべきなのではないかという思いと、正体が知られることを避けたい気持ちの葛藤だ。あるいは、もっと根本的に「今の自分の立場は一体何なのか」という戸惑いがあるのかもしれない。


「わたしは……」

「ああ、その通りだ。お前は戦う力を持っている」

「――!」


 戸惑いの表情が驚愕のそれに変わった。心中を見透かされたことに驚いたのだろう。

 だって、バレバレじゃないか。


「でもその戦う力は、シスターとしての力。フィオーレの敵としての力だ。だから迷ってるんだろ?」

「……まったく、あなたは鈍いのか鋭いのかわからないわね」


 螢は自嘲気味に笑った。

 フェアリズムとフアンダー、一体自分はどちらの味方なのか。螢の中で、その答えはとっくに出ている。螢――シスター・ダイアにとって、フアンダーは仲間であり、フェアリズムは敵だ。昼間もこいつははっきりとそう言い切った。

 だが今、その(フィオーレ)仲間(フアンダー)の手から(ダイア)を守るために戦っている。まるであべこべの状態だ。だからこそ螢は行動を決めかねているのだ。

 この状況で、俺が螢にかけるべき言葉は決まっている。


「守られておけ」

「え?」

「この合宿にいる間のお前はシスター・ダイアじゃない、黒沢螢だ。だから今は守られておけ。大丈夫、フィオーレは負けない。それを見届けろ」

「………………」


 返事は無い。螢は俯いて、俺の言葉を噛みしめるように押し黙った。

 息を吸って、吐いて、まるで呼吸を整えるようにそれを何度か繰り返した後、螢は握りしめていた逆十字のペンダント――陰陽の闇のエレメントストーンを、再び首から下げてブラウスの中に隠した。

 それから、フアンダーと対峙するフィオーレの背を真剣な目で見つめる。

 その横顔に、もう迷いは無かった。


「フアンダァァァ!」


 そうこうしている間にフアンダーの一体が先制攻撃を仕掛けてきた。

 毒針の先端からの毒液噴射だ。フィオーレはそれを危なげなく避け、


「フィオーレ・ヴァイン!」


 反撃とばかり、深緑色の植物の蔦を掌から放つ。敵を捕縛して動きを封じるフィオーレの得意技だ。

 だが、


「フアンダァァ!」


 別の一体――最初のをフアンダーAとするなら今度はBだ――が、雄叫びとともに追撃の毒液を放った。毒液は強酸のごとく蔦を腐食させながらフィオーレに襲いかかる。

 フィオーレが慌てて飛び退いた。同時に蔦は実体感を失って消滅する。

 敵の攻勢は終わっていない。フィオーレが跳躍するのを待ち受けていたかのように、最後の一体――フアンダーCが空中のフィオーレに向かって鋭い顎を向けて猛突進をかけた。


「くっ!」


 空中で回避のしようがないフィオーレは、右腕でフアンダーCの噛み付きを受け止めた。人の頭くらい軽々と砕いてしまいそうな一撃を受けても、フィオーレのアームカバーは傷一つついていない。

 だが突進の勢いまでは殺しきれず、フィオーレは岩壁に叩きつけられる。さらにフアンダーCは、そこから間髪入れずに体をくの字に曲げた。同時に尻の先から毒針が伸びる。


「この……っ!」


 フィオーレは左手で毒針の一撃を薙ぎ払う。さらに背後の壁を蹴って、フアンダーCの頭を支点にして身を捻りながら倒立回転。瞬時に自分とフアンダーCの位置関係を入れ替えた。


「フアッ……!?」


 フィオーレに背中を押さえられ、羽ばたくことすらできなくなったフアンダーCは、背中にフィオーレを乗せたまま呻き声を上げて墜落していく。


 フィオーレの戦いぶりは、スズメバチフアンダーの特徴を知り尽くした者のそれだ。

 六月末の戦いでポプレを撃退した後、主を失ったスズメバチフアンダーが暴れだす事件が度々起きた。そして、その度にフェアリズムたちはそれらと戦って浄化してきた。幾度と無く起きた戦いは、結果としてフェアリズムに大きな経験値をもたらしてくれた。生天目道場での日々の特訓の成果も相まって、この一ヶ月の間にフェアリズムたちは相当強くなっている。

 エレメントストーンを手にしたシスターならまだしも、フアンダー相手ならば負ける心配は不要だ。


 ……というのは、あくまでフアンダーが一体の場合の話だ。

 これまでの戦いでは、一体のフアンダーに対して一人、あるいはそれ以上のフェアリズムで相手をする戦いばかりだった。連携して襲ってくる敵に対する経験値が絶対的に足りていない。

 螢にはああ言ったものの、フィオーレがこの場を凌ぎきれるか、正直言って俺も心配している。


「フアンダァァァ!」

「――っ!」


 あと少しでフアンダーCを地面に激突させられるというところで、フアンダーBが毒針をフィオーレに向けて襲いかかる。フィオーレはフアンダーCの背を蹴って僅かに跳び上がると、空中で身を翻して毒針を回避した。

 着地するフィオーレ。だが息をつく暇もなく、今度は上空のフアンダーAが毒液を小刻みに噴射してきた。フィオーレもまた小刻みに横っ跳びをすることでそれを避ける。

 三体相手でも十分に戦えてはいる。しかし、やはり敵の連携を前になかなか攻勢に出れずにいる。このままではジワジワとダメージの蓄積や体力の消耗を強いられてしまう。


 と、思いきや。


「たっ! やっ!」


 掛け声とともにフアンダーAの毒液を回避し続けるフィオーレは、上空に注意を払いつつも時折視線を横に振っている。その向かう先は、地面への激突を免れたフアンダーCだ。フィオーレは毒液を避けながら、いつの間にかフアンダーCににじり寄っていたのだ。

 岩壁の前でそれを待ち構えるフアンダーCは、その全身から怒りを滾らせ、威嚇するように顎をガチガチと打ち鳴らす。

 だが、そんなものでフィオーレが怯むはずがない。


「はあっ!」


 フィオーレは低く這うような跳躍で頭上からの毒液噴射を躱し、その跳躍の勢いをそのまま乗せてフアンダーCに奇襲した。横から撃ちぬくような拳打がフアンダーCの顎の付け根を捉える。フアンダーCは「グッ!」とくぐもった悲鳴を上げ、その全身を弛緩させた。無防備になった胴に、フィオーレはさらに追撃の拳打を放つ。


「グオォォッ!」


 野太い悲鳴をまき散らしながらフアンダーCが吹っ飛ぶ。

 その先にはさっきフィオーレが叩きつけられた、切り立った岩壁がある。フアンダーCは「ドガッ」と、およそ昆虫とは思えない音を立てて岩肌に叩きつけられた。そのまま力なく地面に落ち、岩場に転がってピクピクと足を震えさせている。いくら不死身のフアンダーといえど、今のダメージを瞬時に消し去ることはできないらしい。


「ごめんね、すぐに浄化してあげるから待ってて!」


 横たわるフアンダーCをいたわるように言い残し、フィオーレは向き直る。

 その視線の先にはフアンダーB、そしてそのはるか上空にフアンダーA。残る敵は二体だ。


「……強いのね」


 フィオーレの戦いぶりをジッと見守っていた螢が静かに口を開いた。俺の方を振り向きはせず、その視線はまだフィオーレを追っている。


 確かにフィオーレは強くなった。その奮闘ぶりは俺の予想をはるかに上回っている。

 だが、不可解でもある。つい先日の八々木公園での戦いの際、キャンサーとダイアの二人のシスターはフェアリズムたちを終始圧倒した。いくらフェアリズムが強くなったといっても、その強さはまだエレメントストーンを持つシスターには届いていない。そもそもこの合宿だって、シスターと戦うための新たな力――《世界を繋ぐもの》を得るために開かれたくらいだ。

 だから俺には、螢がフィオーレの強さに今更のように驚く理由がわからなかった。


「単純な戦闘力という意味ではないわ」


 俺の困惑を感じ取ったのか、螢は相変わらずフィオーレの方を見たまま言う。


「フェアフィオーレは……桃は、一対三という状況で、わたしたちが一番安全な――つまり自分が一番危険な戦いを迷わず選んだ」

「ああ、そうだな」

「そしてそんな不利な戦いの最中だというのに、当たり前のように戦っている相手のことを気遣っている。それは戦闘力の強さだけじゃない、心の強さだわ」


 螢の口調からは、フィオーレに対する畏敬の念のようなものがありありと伝わってきた。俺が期待した以上に、フィオーレの戦う姿は螢の胸を打ったのだ。

 そして、その言葉は俺の頭にも引っかかる。

 フェアリズムのパワーアップの鍵となる《世界を繋ぐもの》――。数日前、俺と渚はそれを「心の在り方」ではないかと言った。その時は抽象的で漠然とした発想だと思ったが、今こうして螢の口から似たことを聞いて、その発想が実感へと急激に変わりつつある。


「フェアリズムの強さは、心の強さ……」


 思わず反芻するように呟いてしまった。螢はチラと俺の方に視線を送ってきて、すぐにまたフィオーレの方を見つめる。


「あの子、わたしがあなたの幼馴染だったっていうあなたの嘘、見抜いてたわ」

「え?」


 そういえば桃の誕生会を開いた時、成り行きで飛び入り参加することになった螢のことを、皆にはそう説明したんだった。

 完全にそれを忘れていたから、「俺、そんなこと言ったっけ?」という意味の「え?」だったのだが、螢は先を促されたと解釈したらしい。俺の方をもう一度一瞥してから口を開く。


「わたしが兄さんのことを話す時の目が、あなたが亡くなった家族の話をする時と似ているそうよ。それで、わたしの『兄さん』があなたのことじゃないと気づいたと言っていたわ」


 なんだそりゃ。桃のヤツ、実はエスパーか何かだったのか。

 確かに俺も螢も家族を失ったし、それがきっかけで強い絶望感を抱いたのも一緒だ。しかしそんなこと、相手の目を見ただけで見抜けるものなのだろうか。


「あの子は他人の抱えた不安や絶望に敏感なのかもしれないわね。――フェアリズムにはもってこいの資質だわ」


 螢は言葉を選ぶように、少しゆっくりと言った。

 だが、いくら回りくどい言い方で気遣ってくれても、流石に俺だってわかる。本当に螢の言う通りなのだとしたら、桃をそうさせたのは俺だ。絶望のどん底にいた俺を救うため、桃はそんな資質を身につけざるを得なかったのだ。

 俺は一体、桃にどれだけの精神的負担をかけてきたのだろう。今までどこか目を背けていた罪悪感が、胃袋の下のあたりから吐瀉物のように湧き上がってくる。


「……情けない顔をしないで前を向いて。フィオーレの戦いを見届けろと言ったのはあなたでしょう」


 螢の口調は少し苛立ったものに変わった。しかし言い分は至極もっともだ。


「――ああ、そうだな」


 胸に迫り上がってくる罪悪感を押し殺し、螢の隣に並ぶ。螢は少し目を丸くして、それから微かに笑う。


「それでいいわ。あなたが気に病んでも、きっと桃はかえって傷つくだけだから」


 その物言いは、まるで桃の良き理解者のそれだった。少なくとも桃と敵対しようという、シスター・ダイアの言葉とは思えない。この合宿を通じて、螢は桃に対して親しみや敬意を抱いてくれたようだった。

 それは、螢を絶望から救い出すという俺の目標にとって、大きな前進に思えた。


 でも――そう思えただけに過ぎなかった。


「他者の痛みを理解できてしまうこと、そしてそれを救おうと思ってしまうこと。それは桃にとって大きな力であると同時に、危険な諸刃の剣よ。いつかどうすることもできない絶望と出会った時、このままじゃきっとあの子は壊れてしまう。絶望に勝る希望なんて存在しないのだから」


 淡々と言い放つ螢の声は、深く静かな、そして強い感情が篭っていた。


「この合宿は思いのほか楽しかったわ。もしわたしがシスターになっていなかったなら。絶望を知らない黒沢螢のままだったなら、桃とは――いいえ、フェアリズムのみんなとは、きっと良い友だちになれたでしょうね」


 それはとても甘く、優しく、そして絶対的な拒絶。

 決してそのような未来は訪れないのだという意志。

 それが悲しいほどに伝わってくる。


「それは、やはりお前にとってフェアリズムは戦うべき相手だと言う意味か?」

「ええ。わたしはシスター、絶望をもたらす者。仲良くなれたかもしれないあの子たちのためにわたしができることは、少しでも早くこの世界を絶望の底に沈めること。傷が浅いうちに、あの子たちに希望を諦めさせること」

「螢、それは――!」


 それは、間違っている。

 そう言おうとした俺の口を、螢の人差し指がそっと制した。その指はあまりに冷たくて、とても生きている人間のものとは思えなかった。

 ヴィジュニャーナが俺に見せた過去の風景、炎に包まれる村の片隅で横たわる螢の姿がつい脳裏に浮かんでしまって、ゾッと背筋が凍りつく。


「――口論はやめましょう。決着がつくわ」


 俺の動揺など意に介さず、螢はそう言って人差し指を離した。

 戸惑いながらも、螢に目線で促された方向を見る。ちょうど身動きの取れなくなった三体のスズメバチフアンダーに向かって、フィオーレが浄化技フローラルエンヴェロープを放つところだった。

 結局フィオーレは一対三の状況を覆し、一人で戦い切ってしまったのだ。


 浄化され、元の姿に戻って飛び去っていく三匹のスズメバチを、螢は目を細めて見つめる。


「あのスズメバチたちはこれからどうなるのかしら」


 問いかけるような物言い。だが、それは俺に投げかけられたものではない。それどころか、螢自身も答えを良くわかっているはずだ。

 巣から遠く離れたこんな場所で元の姿に戻って、あのスズメバチたちは本当に救われたのだろうか。

 帰るべき場所も見つけられないまま野垂れ死ぬだけの運命ではないのか。あるいはあのスズメバチが、どこかで誰かを刺してしまうことは無いだろうか。


 不幸は不幸を連鎖的に招く。だが、その逆に幸福が幸福を招くとは限らない。それどころか、何者かにとっての幸福が、別の何者かに不幸をもたらすことなんていくらだってある。不安や絶望から解放されたフアンダーは、単に新たな不幸の連鎖の中に投げ込まれたに過ぎないのではないか。

 螢はそう言いたいのだろう。


 螢の中で桃に対して芽生えた友情や敬意。それは絶望に向かおうとする螢を救ってくれるものではなかった。

 むしろ螢にとって――いやシスター・ダイアにとって、その決意をより強固なものにするきっかけになってしまったのだ。


「お兄ちゃん、螢ちゃん!」


 変身を解いた桃が、俺達の方に駆け寄ってくる。

 それを笑顔で迎えながら、螢は俺にだけ聞こえる小さな声で告げてきた。


「この合宿が終わったら、『黒沢螢』とはお別れよ」


 それは俺に対する決意表明であると同時に、彼女自身に言い聞かせるためのものに違いなかった。

 螢はもう、決めてしまった。

 黒沢螢であることをやめ、シスター・ダイアとして宿願を果たすことを。そのために、フェアリズムと戦うことを。


 この先に待ち受けている避けられない戦い。その存在を感じながら、俺は精一杯の笑顔で桃にねぎらいの言葉をかけた。

 あれだけ美しく思えた満天の星空が、今はなんだかとても遠くて虚しい存在に感じられた。

微修正(14/12/17)

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