第一五話 夏の夜の骨折り損 -Midsummer Night's Labour's Lost-
夕食はカレーではなかった。
俺が下ごしらえした大量の野菜は、麻美シェフによって絶品のビーフシチューの付け合せに化けてテーブルに並び、全員に舌鼓を打たせた。
螢は桃になだめられて戻ってきたものの、俺に対しては夕食が終わるまで終始不機嫌な態度をとり続けた。そんな螢でも、シチューを口にした瞬間は目を丸くして顔を綻ばせた。点心に続いて洋食でも、麻美の見事な料理の腕が発揮されたわけだ。
麻美はそれに気を良くしたのか、空になった螢の皿を取り上げると大盛りのおかわりを盛って返した。螢はたじろぎながらもそれを受け取り、汗を垂らしながら涼しい顔を取り繕って綺麗に完食した。きっとそれは麻美と螢の間での、「ひとまず戦いはお預け」という意志を伝え合う儀式のようなものだったのだろう。
そんな背後の事情を知らない桃は、虚ろな目でシチューを頬張る螢に無邪気なエールを送り、完食と同時に拍手した。むごい……。
「ごちそうさま、美味しかったわ」と笑顔で言った螢が、その直後に「もう何も食べられない……」と呟いたのを俺は聞き逃さなかった。
その後は一時間ほど、食休みを兼ねてダラダラと各自が好きなことをして過ごした。女性陣はルームウェアに着替えてくつろぎムードだ。
俺と梶と優の三人は持ち込んだゲーム機でいつものようにビーハン。他の皆には合宿に来てまでゲームかと呆れられたが、いつもと違う環境で遊ぶビーハンもまた格別なのだ。――余計に呆れられそうだから言わなかったけどな。
優等生の渚は揺り椅子で読書をしていた。海の見える窓に大人びた横顔を映し、物静かに本に視線を落とす姿は非常に様になっていた。俺はいつか美術館で見たフェルメールの絵画を連想した。
麻美はキッチンで何かしていた。夕食の後片付けか朝食の準備なら手伝おうと思ったが、「いいからあっち行ってて」と追い払われてしまった。
エミちゃんはビールを片手にテレビだ。エミちゃんが酒を飲む姿は初めて見たが、御歳二十八歳と知ってはいてもハラハラしてしまう。外見的には中学生が酒を飲んでいるようにしか見えないのだ。まあ見た目は中学生みたいでも、生徒の前とは思えないくつろぎっぷりは完全にオッサンのそれなのだが。
そして桃と光と螢は、パックとアリエルを交えてボードゲームで遊んでいた。最初は急に仲良くなった桃と螢に驚いていた光だったが、あっという間に一緒になって盛り上がっていた。距離感を掴みかねている様子だった螢も、なんだかんだ楽しそうに遊んでいた。
ずっとこんな時間が続けばいい。俺はそう思った。
桃と光は、俺を殺しかけたシスター・ダイアに対して強い敵意を持っている。ダイア――螢もまた、フェアリズムとは異なる未来図を描き、その実現のためにフェアリズムと戦う道を選んでいる。
このままでは互いの道は交わらない。でも、フェアリズムとシスターとしてではなく、同じ歳の女の子同士としてならば、こんな風に笑い合える。
そんな時間が続けばいい。いつまでも続けばいい――。
それがどれだけ叶い難い願いかわかっているからこそ、俺はなおさらそう願った。
-†-
「さ、それじゃ皆で海に行こうか!」
食休みの後、急に梶がそんなことを言い出した。時計に目をやれば、既に二十一時を回っている。これから中学生込みで出歩くには少し遅い時間だ。
たとえ保護者同伴でも、正当な理由が無ければ深夜の徘徊は補導対象となる。海で遊ぶのを正当な理由と認めてもらうのは難しいし、何より保護者であるところのエミちゃんが一見するとまるで成人に見えないちんちくりんだ。
……というようなことを一通り言ってみたところ、
「え、お兄ちゃん行かないの?」
「そんなこと言わないで行こうよ、両兄!」
「リョウくんがそんな真面目なこと言うなんて、ぼくビックリだよ……」
一部の中学生組から抗議の声が上がった上に、
「そうそう、せっかくだし行きましょうよ。で、ちんちくりんって誰のことかな――?」
殺気を迸らせた笑顔を浮かべたエミちゃんに、ローキックを入れられた。
どうやら思ったより梶の賛同者が多かったらしい。
しかし何かあったら、別荘の持ち主である麻美――というか金元家に迷惑がかかるんじゃないだろうか。そう思って麻美に視線を送る。キッチンから戻ってきたばかりの麻美は、何か黄色いものが乗った皿を持っていた。
麻美は皿を傍らのテーブルに置き、いつもの感情の読みにくい表情のまま、
「……まあ、あの浜は庭みたいなものだから、大丈夫」
と、スケールの大きい太鼓判を返してきた。いいのかよ、それで。
さらにそこに追い打ちをかけたのは、ちょうどその時リビングに入ってきた渚だ。
「ふふ、これがあれば『正当な理由』の方も心配要りませんよ」
いつの間に話を聞いていたのか、一番こういうことに厳しそうな渚がそんな言葉と共にテーブルの上にそっと置いたのは、ゴルフバッグを一回りか二回り小さくしたような筒状のキャリングバッグだ。
「今年もこれ、借りても良いかしら、麻美?」
「……うん」
頷きながら麻美は薄っすら笑う。半ば予想はついていたが、許可をとってバッグの中を見せてもらうと、やはり天体望遠鏡と三脚が入っていた。なるほど、『夏休みの自由研究です』ってわけだ。
それにしてもこの望遠鏡、ジュニア用の簡素なものではなく、デジタル制御の経緯台や撮影ユニットがついた値の張りそうなシロモノだ。取り扱うのがちょっと怖い。
「もちろん、口実だけに使うつもりはありませんよ。浜辺からは星が沢山見えますから、星空を眺めて気になった星を望遠鏡で覗いてみる――なんてのも素敵な体験です」
渚はそう言ってにっこり笑った。流石は渚。言い訳一つとっても知的な優等生っぽさが滲み出ている。
まあ実際「今年も借りる」って言ってたし、毎年この別荘に来て、そうやって星を見るのが定番になっていたのかもしれない。
何にせよ、ここまで満場一致なら俺が反対する理由もない。
それに、いつも冷静にみんなをたしなめる側の渚や麻美まで賛成しているのが、俺にはなんだか嬉しかった。
まあ俺だって、せっかく海に来たんだから夜の浜辺に行ってみたいって気持ちはあるしな。
「それじゃあ皆で行くか。今が七分だから……着替えとか必要なら済ませて、二十分にここに集合にしよう」
「やった、さすが両兄!」
すかさず光が抱きついてくる。こらこら、とそれを引き剥がしていると、不意に螢と目が合った。まだ機嫌が直っていないのか、眉を顰めている。
「螢も行くよな?」
当然イエスが返ってくると思って尋ねてみる。しかし螢は目を細めて首を横に振った。
「わたしはいいわ。少し、その――食べ過ぎたし、休んでいようかと」
そっけなく言う螢に、桃と光が「えーっ」とつまらなそうな反応。
ところがそれと同じか少し早く、麻美がスッと音も無く動き、さっきまで持っていた皿からつまんだ黄色くて四角い何かを螢の口に押し込んだ。
「むぐっ……! むむ……む?」
最初は驚きに目を丸くした螢だったが、次第に真剣な表情に変わってもごもごと口を動かす。それからゴクンと嚥下。
「……おいしい……」
魂の抜けるような、という表現が似つかわしい顔で、螢が感想を漏らす。
「……近くの農家の人が、野菜と一緒に、届けてくれた」
少し得意気に言いながら、麻美は俺に皿を差し出してきた。まだ黄色くて四角い物体は三つ残っている。
が、そこに横からヒョイッと光と優の手が伸びて、すかさず皿の上の物体を一つずつ掠め取っていった。二人ともそのまま流れるように物体を口に運び、螢がしたのと同じように目を丸くする。
「うわ、何これヤバい! ちょっと麻美、めっちゃ美味しいよこのマンゴー!」
「ほんとだ、凄く甘い! ……ほら、リョウくんも」
光と優まで次々絶賛するものだから、優がつまんで口の前に差し出してきたラストワン賞の黄色い物体――もとい角切りのマンゴーに、俺は思わずそのままパクリと食いついてしまった。
――あ、これちょっとマズいんじゃ。いや、マンゴーは美味しいんだけどさ。
そう思った時には、優の指先に俺の唇が軽く触れてしまっていた。軽く、ほんと軽くだけどな。
「お……おお! 確かにこれは美味いな! なんか凄く完熟って感じだ!」
慌てて首を引っ込めて、小学生並みの感想で何事も無かったかのように取り繕う。が、麻美と螢にはしっかりとその瞬間を見られていたらしい。二人とも軽蔑しきったような冷たい目で俺を見ている。うう……。
「……まったく、にーさまは」
麻美は呆れ口調で悪態をついてから、
「……残りは浜辺で食べようと思うけど、沢山切りすぎちゃって。……麻美一人じゃ運べないかも」
螢に向かって淡々と言った。
なるほど、キッチンに篭っていたのはマンゴーを切ってたのか。でも別に麻美一人で運ぶ必要なんてないよな。みんなで食べるんだからみんなで運べばいい。
そう言うために口を開こうとしたところで、
「……桃ちゃんの好きな、桃もある」
「桃っ!?」
麻美の言葉に反応し、桃のテンションが一気に最高潮に達した。我が妹は自分の名前と同じという理由で桃が大好物なのだ。そのおかげで我が家では、毎年夏になると冷蔵庫に桃が完備されるくらいだ。
それにしても、これだけ美味しいマンゴーを作る農家なら、桃の方も期待できそうだ。
「ねえ、螢ちゃんも行こうよ! 一緒に桃運ぶの手伝おう!」
螢の手をとってぶんぶんと振るう桃。おいおい、マンゴーのことも忘れてやるなよ。
その螢は桃のテンションに気圧され気味になりながら少し逡巡して、桃の顔と空になったマンゴーの皿に交互に視線を送る。
「――まあいいわ、食後の運動にもなるし」
クールな態度を装って浜辺への動向を了承した。うん、明らかに半分くらいマンゴー目当てだ。
それにしても流石は麻美様仏様、食べ物で螢を釣るとは良い仕事をなさる。なんだか桃といい麻美といい、俺よりも螢の扱いが上手い。同じ年頃の女の子だからなのだろうか。
親友のメトシェラも螢より少し年上っぽかったし、螢は今まで同年代の女の子とこんな風に遊ぶ機会が無かった可能性もある。ひょっとすると、こうやってフェアリズムたちと共に過ごすことで、螢にも心境の変化があるかもしれない。
そういう意味で、桃と麻美には内心で惜しみない賞賛を贈る。あとは螢が俺に対して機嫌を直してくれればバッチリなのだが――。
「じゃあ螢も一緒に行くってことで。良かった良かった」
「……別に、わたしが行くかどうかなんてあなたに関係ないでしょう」
螢の返事は冷たい。やっぱり俺に対しては絶賛不機嫌の継続中だ。
「いや、関係あるよ。螢が来てくれるなら俺も嬉しい」
「なっ――ど、どうしてよ」
「どうしてって、そりゃあ――」
皆で行ったほうが楽しいに決まってるじゃないか。
そう言おうとして、ふと思い立つ。螢はフェアリズムたちと「皆」という言葉で一括りにされるのを嫌がるんじゃないだろうか。
流石にこの状況でそれを大っぴらに言うことは無いだろうが、もし俺と一対一で会話している最中だったら「フェアリズムは敵よ」「馴れ合うつもりはないわ」なんて言い出してもおかしくない。
ただでさえ不機嫌な螢の態度を、これ以上硬化させてしまうわけにはいかない。何よりそれじゃ、昼間の二の舞いだ。なんとか別方向に話を逸らさなければ。
――よし。
「そりゃあ、せっかくのマンゴーや桃を食べ残したら勿体無いからな。大食いの螢がいればその心配は無――ぶげっ!」
最後まで言い終わる前に、螢の平手打ちが思い切り俺の右頬に炸裂した。ばちこーんと、そりゃもういい音を立てて。
「着替えてくるわ!」
どすどすと足音を立てて螢はリビングを出て行く。うう……これでは結局、夕方の方の二の舞いだ。
「お兄ちゃん、フォローのしようが無いよ……」
「……にーさまの、ばか」
桃と麻美も呆れ顔で言い残し、リビングを後にした。
「おー、よしよし。痛かったねー両兄。でも今のは両兄が悪い、うん」
「ふふ、流石の両太郎さんにも頭が回らない分野があるんですね」
まだひりひりする頬を軽く撫でてくれたと思いきやぎゅうっとつねってきた光。なんだか含みのある苦笑を浮かべている渚。二人とも、俺を慰めてくれてるのか貶してるのかよくわからない。
一体なんだってここまで言われなきゃならないんだ? ちょっとからかっただけじゃないか。なあ?
同意を求めて優・梶・エミちゃんたちの方に視線を向ける。しかし三人は、
「ねえ今の、梶くんと生天目さんはどう思う?」
「うーん、ぼくだったら気にしないけど一般的にはナシだよね」
「リョウは爆発すればいいんじゃないかな」
「それよりぼくは麻美が気になったかな。もしかして麻美――」
「あ、やっぱり生天目さんもそう思った?」
「リョウは爆発すればいいんじゃないかな」
わけのわからないことを話し合っていて、俺のことなんか丸っきりスルーだった。くそ、この合宿に俺の味方はいないのか。
結局そんなこんなで余計な時間を食ってしまったので、全員が準備を終えて再びリビングに集合したのはちょうど二十一時半だった。
微修正(14/12/17)




