第一三話 桃と螢と両太郎 8 -Sister and Sys-Ter 8-
キッチンに戻った俺を待っていたのは、麻美が見せた微笑みと同じくらいには予想外の光景だった。
「ああもう、アリエルったら人参の皮をそんな厚く剥いちゃダメでしょう! ほらパック、そんな調子じゃ玉ねぎが焦げてしまうわ!」
「うう、ホタルってマミより厳しい……」
「ふふ、頑張ってね二人とも。一回こっそり逃げたの、麻美ちゃんに内緒にしててあげるから」
「そんなぁ、モモまで……」
「桃、ジャガイモの下茹でするからこっちにお願い」
「はーい」
桃と螢は妖精たちを叱咤しながら、息ぴったりの連携でテキパキと野菜の下ごしらえを進めている。その姿はどう見ても仲の良い友達同士にしか見えない。
何より俺を驚かせたのは、そうやって桃と接する螢が柔和な笑顔を見せていることだった。
思わず隣の麻美と顔を見合わせると、麻美もまるで炭酸入りのコーヒーでも飲まされたみたいに面食らった顔をしている。
まあ無理もないよな。桃はいくら螢に対して妙に積極性を見せてたといっても、根が遠慮がちで人見知り気質だし。螢の方も他人と距離を置きたがってるように見えてた。この二人がこんな風に打ち解けている姿は想像もしてなかった。
「螢ちゃん、下茹でしたの冷ます氷水、こっちで準備しておくね」
「あ、お願いできる?」
「うん、ザルも出しておく」
「ありがとう、助かるわ」
螢が手際良く次々と作業をこなしていく一方、その多少の抜けを桃が丁寧にフォローしていく。そんな二人は、穏やかで自然な笑顔を浮かべている。
その光景に、さっきヴィジュニャーナが俺に見せたかつての螢の姿を思い出した。精霊界フェアリエンの小さな集落で、幸せに暮らしていた女の子。大好きな兄と親友と一緒に、楽しそうに森を駆けまわりながら見せたあの笑顔だ。
「螢!」
俺は胸が一杯になり、思わず大声を上げてしまっていた。
俺たちが戻ったのに気づいていなかった人間二人と妖精二人は、その声に驚いて振り向く。隣の麻美も眉を顰めて俺を見ている。
「螢、刹那はきっとお前にそうやって笑っていて欲しいって思ってる」
「――え?」
螢の目が見開かれた。
「両太郎……どうして兄さんの名を――」
「俺もそうだ、俺もお前に笑っていて欲しい!」
「え、ええ?」
「俺はお前の笑顔が好きだ。だからお前がどう思っていようが、俺はお前と争いたくない!」
「ちょ、ちょっと! 一体何を――」
ガシャーンと盛大な音。桃の手からプラスチックのボウルが転がり落ちて、中に入っていた大量の氷が床にぶちまけられた。何故か桃と麻美は頬を引き攣らせている。
対照的に、螢の顔は見る見る間に紅潮していく。うっかり刹那の名を出しちゃったのはマズかったか……。ここで怒らせてしまったら、色々と台無しだ。
「螢、俺はお前のことが大事なんだ!」
「何の冗談よ、だってあなた――」
螢は口をパクパクさせながら首を振って、桃と俺の顔を交互に覗っている。どうして桃の方を見るのかわからないが、その桃は顔面蒼白。ひっくり返した氷を気にする素振りすら見せず、引きつった顔で俺の方を見ている。真っ赤な螢と真っ白な桃で、まるで紅白まんじゅう状態だ。
桃の妙な反応は気になるが、今はまず螢にちゃんと俺の気持ちを伝えるのが先決だ。
「本当だ! これが俺のありのままの気持ちだ!」
「そんな、いきなり急に――」
「俺はフェアリズムのみんなと同じくらい、お前のことだって大事なんだ!」
俺は希望を信じてる――俺は岩場で螢にそう言った。それは絶望で世界を救おうとしている螢にしてみれば「お前よりフェアリズムが大事だ」と言われたに等しいだろう。
でも、そうじゃない。フェアリズムと螢のどちらが大事とかそんなんじゃない。俺が信じてる希望、それはフェアリズムのみんなと螢が一緒に笑ってる未来なんだ!
そんな思いを込め、俺は力一杯言い放った。
――ところが。
『……は?』
返ってきたのは「お前、何言ってんの?」と言わんばかりの、やたら威圧感のある声だった。
桃・螢・麻美、それから妖精二人までほぼ同時に声が揃っていた。
ん? 一体どうしたんだ、この反応は……?
誰も「……は?」から先の言葉を発してくれない。十個の瞳から放たれる、呆れたような怒ったような刺々しい視線を浴びて、気まずい時間だけが過ぎていく。
なんだか急にキッチンの温度が十度くらい下がった気すらしてくる。
「……つまり、にーさまは何が言いたいの」
最初に口を開いたのは麻美だ。いつも通りのアンニュイさを感じさせるトーンの低さだが、心なしかそこに凄みが加わっている。まるで詰問されている気分だ。
「え? だから、えっと――フェアリズムのみんなと同じくらい、螢のことが大事だって……」
たじろぎながら返答する。
すると、麻美は「はぁ……」っと深くため息をついて、
「……だ、そうだけど」
桃と螢に向かって、何故か疲れた声で言った。
え、今の確認って何か意味があったか? 同じことを言い直しただけなんだけど……。
「お兄ちゃん……今のはちょっと酷いよ……」
今度は桃が蔑みの視線を俺に浴びせながら呟く。
なんだなんだ、どうして俺は責められてるんだ。
「あ、あれ? 俺何か変なこと言っちゃったかな――なあ、螢?」
助けを求めるつもりで螢に振る。
すると一度は引いていた螢の紅潮がまたもぶり返し、サーッと頬が赤く染まっていく。
あ、マズい。そう思った時にはもはや時遅し。
「知らないわよ!」
大噴火を起こした螢は、ドスドスと足音で怒りを表現しながらキッチンを出て行ってしまう。
原因はさっぱり自覚できていないが、どうやら俺はまたも螢を怒らせてしまったらしい。これじゃ浜辺の時の二の舞いだ。
慌ててその後を追おうとすると、麻美にシャツの裾を引っ張られて制止された。
「……にーさまは、あっち」
麻美が指さしたのはジャガイモが茹でられている大鍋だ。
そういえば俺のせいで、茹で始めてから結構な時間が経過してしまった。そろそろ火からおろして冷水で粗熱を取って――ってそんな場合じゃない。
「いや、でも螢が……」
螢を放っておく訳にはいかない。今はジャガイモを気にしている時ではないのだ。
そう訴えようとした俺に、
「ねえ、お兄ちゃん?」
桃が小首を傾げながら言った。
その壮絶な表情を前に、俺の背筋に戦慄が走る。
目元も口許も笑顔のパーツを形作っているのに、全体としてはちっとも笑顔に見えない。もしかして桃さん、怒ってらっしゃいますか。
「お兄ちゃんはひょっとして、火に油を注ぎに行くつもりなのかな?」
「う、あ、いえ……そのようなことは決してございません……」
思わず妹相手に敬語になってしまう。それくらい本気で怒った桃は怖いのだ。
恐る恐る返答すると、桃はフッと軽くため息をついて表情を和らげた。
「螢ちゃんの方はわたしが行くから、お兄ちゃんは料理してて。麻美ちゃん、お兄ちゃんのことお願いね」
「……了解、三人分働かせとく」
「うん!」
麻美の酷い発言にとびっきりの笑顔で答えて、桃は軽い足取りで螢を追っていく。
怒っているのかと思いきや、案外機嫌がいいのか……?
とりあえずこの状況では、螢のことは桃に任せるしかない。
さっきから一体何がどうなっているのだろう。俺はそんなにマズいことを言ってしまったのだろうか。
うーむ……さっぱりわからない。
などと首を傾げていると、
「……さて、にーさま。覚悟はできてる?」
薄っすらと笑みを浮かべた麻美に脇腹を小突かれた。
なんだか麻美も少し楽しそうだ。
「お手柔らかにお願いします」
「……それは、にーさまの態度次第。……とりあえず、まずはジャガイモから」
麻美はテーブルの上からシェフ帽子を取り上げてかぶり、威厳たっぷりに胸を張った。
元々の背が低いせいで、高い帽子をかぶってもまだ俺の身長に届かない。その様子が可愛らしくて思わず笑ってしまうと、ジロリと上目遣いで睨まれた。
マズい、早速態度に減点を食らってしまったらしい。
「ウ、ウィ、シェフ!」
マンガの受け売りで答えて、俺はそそくさとコンロへと向かう。麻美の指示を受けながら出来る限り素早く丁寧に作業をこなしていく。しかし結局、麻美シェフからはご慈悲を賜ることはなかった。
このあと滅茶苦茶料理した。




