第一〇話 桃と螢と両太郎 5 -Sister and Sys-Ter 5-
先に意識が戻った。
それから少しだけ遅れて、すぐに体の感覚も取り戻す。仰向けに横たわっていて、背中に当たる感触からしてベッドの上だ。
幽体離脱なんてものを俺は信じていないが、しかし肉体から離れていた霊魂が元に戻る時というのはこんな気分なのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、目蓋をゆっくり持ち上げる。
真っ白な壁材で覆われた天井には、音もなく回るシーリングファン。その中央から鈴蘭の花みたいに、上品な形のルームライトが垂れ下がっている。すぐに自分が麻美の別荘の一室にいるのだと気づいた。
「あ、お兄ちゃん!」
不意にすぐ近くで上がった叫び声が、目覚めたばかりの少し呆けた意識を一気に覚醒させる。その声には喜びと安堵が入り交じっていた。
「……耳元で叫ぶなよ、桃」
「えへへ、ごめんごめん」
首だけを声のした右側に向けると、目の前にへにゃっと情けなく歪んだ桃の笑顔があった。どうやらだいぶ心配をさせていたらしい。
――そういや、螢と揃って溺れたのを、桃がフェアフィオーレに変身して治療してくれたんだっけ。
「心配かけて悪かったな。それから、ヒーリングブルームも助かったよ」
「うん、どういたしまして! ……あれ、どうしてそれ知ってるの?」
「ん、なんかそんな気がしたんだよ」
不思議そうな桃の視線を受けながら上半身を起こし、辺りを見回した。天井と同じ白い壁材で囲まれた部屋には、中央と窓際にベッドが二つ置かれている。まるでホテルのツインルームみたいな配置だ。
俺が寝かされていたのは窓際のベッドだ。脇には見覚えのある旅行かばんが二つ置いてある。それを見て、ここは到着してすぐに俺と梶が着替えに使わせてもらった部屋だと気づいた。
レースのカーテン越しに見える窓の外はまだ明るいが、壁にかけられた時計は十七時前。もう夕方だ。俺はかれこれ三時間近く意識を失っていた計算になる。
などと状況の確認をしていると、
「え、えっと……」
桃が、なにやらモゴモゴいいながら顔を赤らめていた。チラチラ俺の方を見たり、目を逸らしたり、挙動不審だ。
理由はすぐにわかった。俺は上半身に何も身につけていなかった。浜辺にいた時はTシャツを着ていたのだが、海に落ちて濡れたために脱がされたのだろう。たった今までは薄手のガーゼケットが掛けられていたが、それも上半身を起こした拍子に肩から滑り落ちていた。
しかしそんな風に恥ずかしがられると、急に俺の方も恥ずかしくなる。
念の為に下半身を確認して水着を着ていることを確かめると、からかい半分に桃の頭をわしゃわしゃ撫でてやる。桃は「うえっ!?」と踏まれた猫みたいな声を出して硬直。それを横目に立ち上がって、俺は旅行かばんの中からハーフパンツと替えのTシャツを取り出した。いくら兄妹といっても桃の前で水着まで脱いで着替えるのは憚られるし、既に水着はすっかり乾いていたので、気にせずその上からシャツとパンツを身につける。
桃に退室してもらって着替えるというのも考えたが、それより俺は状況確認を優先したかった。
「それで、みんなは?」
俺が尋ねると、桃はようやく硬直が解けてハッとしたように振り向く。
正直を言えば俺が気にしているのは「みんな」というよりも「あれから螢がどうなったか」の方だ。螢も俺と一緒に溺れたようだが、果たして同じように助けられたのだろうか。麻美は螢がシスター・ダイアであることを皆に話したのだろうか。その辺りの状況を急いで確認しなければならない。
「晩御飯の準備してるよ。飲み物とかお肉とかの買い出し班と、野菜の下ごしらえする料理班に分かれてるんだ。みんなお兄ちゃんのこと心配して食事どころじゃないって言ってたんだけど、梶先輩と香月先生が『すぐ目を覚ますから、予定通り合宿を続けよう』って」
なるほど。それは梶とエミちゃんには感謝せねばなるまい。みんなをいたずらに心配させても、こっちが申し訳ないしな。
「じゃあ、俺もさっさと起きてみんなを手伝わないとな」
「わたしたちはお兄ちゃんが起きたら料理班に入ることになってるの。料理班は麻美ちゃんと螢ちゃん、それからパックとアリエルだよ」
「へえ、麻美が料理班は適材適所だな、お嬢様の割に炊事大得意だし。……でも、螢のヤツは料理なんかできるのか?」
軽口を叩きつつ、内心で少しホッとする。螢がまだ合宿に参加しているということは、恐らくシスター・ダイアであることがバレてはいない。麻美が黙っていてくれているのだろう。
麻美と螢が一緒に料理班というのも好都合だ。その二人が別々の班になったら、麻美が誰かに螢の正体を話していたかもしれない。
と、そこまで考えたとこで、はてこれは偶然なのだろうかという疑問が湧く。
チビの妖精二人はそこまで戦力にならないことを考えると、料理班は実質的に麻美と螢の二人だけ。買い出し班のメンバーは梶にエミちゃんに、渚・優・光の総勢五人ということになる。俺と桃が戦線参加する前提とはいえ、いくらなんでもアンバランスだ。
「もしかして班分けは梶が取り仕切ったのか?」
「うん、そうだけど――さっきから凄いね、お兄ちゃん。意識が無かった間のこと全部知ってるみたい」
「それもまあ、そんな気がしただけだよ」
キラキラと尊敬の眼差しを向けてくる桃に少し申し訳なくなりつつ、梶に心中で重ね重ねの礼を言う。梶はいい加減でふざけたヤツだが、ここぞという時には必ず俺が一番して欲しい形でフォローをしてくれる。ビーハンの高難度ボスをペアで撃破なんていう俺たちの無茶なプレイスタイルが成り立っているのも、梶の的確なアシストがあってこそ。梶は俺にとって、実に頼もしい相棒なのだ。
さあて、その相棒が作ってくれた好都合な状況をさっさと利用させてもらうとしよう。
「それじゃ料理班に合流するか。買い出し班にはメール打っといてくれるか?」
「うん!」
安心して気が緩んだのか、すっかり上機嫌になった桃に案内され、俺はキッチンへと向かった。
-†-
「リョウ! 目が覚めたんだね!」
「起きたのね!」
桃に続いてキッチンに入るなり、パックとアリエルが心底嬉しそうに飛びついてきた。
「のわっ、な、なんだお前ら! こら、顔に張り付くな!」
「よかった、リョウの目が覚めて本当によかった……!」
「もうダメかと思ったんだから!」
普段は生意気と性悪を足して二を掛けたかのようなとんでもない奴らだというのに、今は生き別れた家族と再会でもしたのかというほど、喜びと安堵を満面に浮かべている。まさかこの性悪妖精どもにまで心配をかけてしまっていたとは。ヴィジュニャーナの用意した過去世界で割と呑気に過ごしていたことに、少し罪悪感が湧いてくる。
が、その罪悪感は次の瞬間にはガラガラと音を立てて崩壊した。
「キミがいつまでも呑気に寝てるせいでボクたちがジャガイモの皮剥きをさせられてたんだからな!」
「さっさと働きなさいよね!」
妖精二匹は見事にシンクロした動きで、ビシッとキッチンテーブルの上のジャガイモの山を指さす。
「……そんなことだろうと思ったよ」
呆れつつもいつも通りの空気に少しホッとしながら、俺はテーブルの上に置かれたエプロンに袖を通した。ジャガイモの山の隣では、なぜか本格的なフレンチコックコートを身につけた麻美が、真剣な表情で人参やトマト、ナスの下ごしらえをしている。今夜のメニューはきっと、夏野菜のカレーだな。
その背後には、ジュウジュウと音を立てる大鍋と睨めっこをしている螢の後ろ姿が。どういう経緯があったかはわからないが、やはり麻美と螢の戦いは一旦収束したらしい。
「それじゃあキビキビ働くとするか。麻美、螢、お前たちにも心配をかけたな」
ジャガイモの山に手を伸ばしながら二人に声をかける。だが二人ともチラリと俺に視線を送ってきただけで、何も返事をしてくれない。表立って争っているわけではないが、二人の間に異様な空気が漂っている。――まあ無理も無いのだが。
「え、えっと――そうそう! 海に落ちたお兄ちゃんを螢ちゃんが助けようとしてくれたんだよ! お礼言わないと!」
気まずい空気を察したのか、桃が沈黙を掻き消すように慌てて言った。流石に白々し過ぎはしたが、それでもありがたい助け舟だ。ここは桃の気遣いに乗っておくべきだろう。
「そうなのか、ありがとう螢!」
「……別に、わたしは何もしていないわ」
螢は気まずそうに答えた。俺が頑張って構築しようとした明るい雰囲気が、一瞬で崩れ去る。
「わたしは結局一緒に溺れそうになって、水樹さんと花澤さんに助けられただけだから……」
消え入りそうな声でそれだけ言って、螢は再び鍋に向き合う。まるで怪しい薬を調合する魔女のように、大量のスライスタマネギを木べらでかき混ぜながら炒めているのだった。
「それでも助けようとしてくれたんだろ? ありがとうな」
「うんうん。先に目を覚ました後、螢ちゃん、お兄ちゃんのこと凄く心配してたんだよ」
「なっ――べ、別にそんなことっ――!」
桃の追い打ちに、螢の顔はテーブルの上のトマトと同じくらい赤く染まる。元が色白な分だけ非常にわかりやすい。
こいつ、素直に感謝されたりするの嫌がるもんなあ。ま、ある意味平常運行か。となると――
「麻美も色々心配かけたな。大丈夫だったか?」
今度は黙々と野菜の山に向き合っている麻美シェフに話しかけてみる。身長の低い麻美はテーブルの高さに合わせるために木製の踏み台を使っている。一見すると小さな子供がフレンチシェフのコスプレをしてるみたいだ。しかし着ているコックコートはしっかりとした厚手の生地であつらえられていて、本格的なものだと素人目にもわかる。
きっと俺の持ってる一番高い私服よりよっぽど高いんだろな……なんて呑気なことを考えながら、麻美の反応を伺う。しかし麻美は調理に没頭していて反応がない。皮剥きの終わった人参を手に取って、少し大きめに四つ割りにしてから黙々と器用に面取りしていく。確かシャトー切りっていうんだっけか。
「麻美、おーい麻美? 麻美さーん……?」
立て続けに何度か呼んでみる。すると麻美はようやく観念したのか、手にしていた包丁と人参をまな板の上に置き、踏み台から降りて俺の前に立った。その表情はいつにも増して内面が読みにくい。眉間に皺を寄せて俺を睨んでるようにも見えるし、その瞳に困惑の色が浮かんでいるようにも見える。「いつも通りのアンニュイさ」だけでは説明のつかない、複雑な面持ちだ。
「に……両太郎さん。……ちょっと、こっちに」
麻美はなんとも言えない表情を崩さないまま、キッチンを出て行く。
今、いつもみたいに「にーさま」って呼びかけてから訂正したのか?
麻美の心中がどういう状態なのかわからないが、その余所余所しさにショックを受ける。やっぱり螢の件で、俺は麻美の信頼を損ねてしまったのだろうか。
様子のおかしい麻美を見て、桃は「はやく行ってあげて」とでも言いたそうに俺に視線を送ってきた。桃も薄々、俺と螢と麻美の間で何かがあったことを感じ取っているのだろう。
桃は不安そうな顔をしてはいるものの、口出しをする気はなさそうだ。それは俺がこの状況に収拾をつけると信頼してくれているのか、それとも麻美の方を信頼しているのか。桃と麻美はクラスメイトだし、俺にも理解しきれていない部分での絆みたいなものがきっとあるのだろう。
「お前はジャガイモを頼む。それから螢がボーっとしてそうだから、玉ねぎが焦げないように気にしておいてくれ」
「なっ――誰がボーっとしてるのよ!」
桃にジャガイモを頼むついでに、わざと螢をからかってやる。螢はせっかく赤みが引いてきていた頬をまたも蒸気させ、怒りの形相と共に抗議してきた。しかしその怒りのニュアンスは、数時間前に浜辺で見せた、氷のような冷たく静かな怒りとは異なっている。どうやら俺が死にかけたことで、あの敵対宣言は螢の中でも有耶無耶になってしまったらしい。刹那の姿をしたヴィジュニャーナの化身が言っていたとおり、結局のところ螢は揺れ続けているのだろう。
俺にとってはその方がありがたい。刹那とメトシェラの幻影から託された――そして俺自身が願っている――螢を救う使命のためには、この敵か味方か曖昧な状態を継続しておく方が好都合なのだ。
螢は大丈夫。そうなると、差し当たって目下の問題になるのは、螢がシスター・ダイアであることを知ってしまった麻美だ。麻美とのコンセンサスが得られなければ、そもそも今後の作戦を立てることすらできない。麻美にはある程度事情を話し、協力してもらうしかないだろう。
だが、損ねてしまった麻美からの信頼を取り戻し、さらに俺の狙いに協力してもらう――そんなことが果たして可能なのだろうか。
理知的なリーダータイプの渚と、快活で臨機応変な優。この二人の陰に隠れて目立たないものの、麻美は決して主体性の無い子ではない。率先して強く何かを主張することは滅多にないが、それは麻美自身に意見がないということではなく、「表立って動くのは渚と優に任せる」という考えで自ら一歩引いている印象すらある。幼い外見とは裏腹に、案外フェアリズム五人の中で最も達観と老成の境地に達しているのが麻美なのかもしれない。
きっと一筋縄ではいかない。それでも、ちゃんと話して分かってもらうしかない。
そんな覚悟を決めて、俺は麻美を追った。
誤字修正・表現微調整(14/09/30)




