第九話 永遠と一瞬と -at the Heart of the World-
気がついた時、俺はどういうわけか鬱蒼とした森の中を歩いていた。
辺りには名も知れない背の低い草がカーペットのように生い茂り、また無数の太い幹を持つ樹木が上空を覆い尽くす勢いで枝を広げている。
どうして俺はこんな場所にいるのか。記憶を辿ってみても、理由や経緯が思い当たらない。
螢とフェアステラの戦いに割り込んで、吹っ飛ばされて海に落ちた。そこから先が思い出せないのだ。
そうだ、どこか怪我とかはしなかっただろうか。
そんなことを思いながら自分の身体を見下ろして、初めて自分が何も着ていないことに気がついた。全裸で森を彷徨っているという、悲惨な状況だ。
ただ、それが逆に俺に安心感をもたらしている。
先日、女王タイタニアの虚像――俺の無意識の中にあるというヴィジュニャーナが作り出した幻影と会った空間と同じだ。ここはどこかに存在する風景を、俺の心の中に写し取ったものに過ぎないのだ。
タイタニアの時と同じように、すぐにヴィジュニャーナの化身が現れるだろう。俺はそう思い、立ち止まってジッと待った。
だが、一向にヴィジュニャーナは姿を現さない。
やがて木々に囲まれた狭い空がコバルト色にかわり、そこに星明かりが灯った。枝葉の隙間から月光がスポットライトのように草の絨毯に降り注ぎ、辺りは幻想的な空気に包まれる。
だが、それでもヴィジュニャーナは姿を現さない。
それからまたしばらくして空が茜色に染まり、やがて青みを増し、昼が訪れた。
ヴィジュニャーナは姿を現さない。
待ち続ける間にまた夕暮れが到来し、夜になり、朝を挟んで三度目の昼を迎えた。
不思議と退屈だとは感じなかったし、実際に経過している時間が長いのか短いのかもよくわからなかった。この空間はあまりに現実感が希薄なのだ。
こうしてヴィジュニャーナが現れないまま昼と夜とを何度か交互に繰り返したある日、ようやくそこに俺以外の存在が現れた。
それは森を駆けまわる、小さな男の子と女の子。男の子は十歳くらい、女の子は六歳くらいといったところか。よく見ればその二人に付かず離れず飛び回る、小さな妖精の姿もあった。
三人は両手で必死に局部を隠している全裸の男のことなどお構いなしで、追いかけっこをしたり木登りをしたり楽しそうに遊んでいる。しばらくその様子を見守ってから、そっと手を離す。
どうやら俺の姿が見えていないらしい。この三人はヴィジュニャーナではないのだろうか。
一見すると三人の中のリーダー格は、快活そうな黒髪の少女だ。次はあの木に登ろう、今度は鬼ごっこをしよう、そんな風に三人の行動を決めていく。
けれど本当のリーダーは、少女から兄さんと呼ばれている年長の少年の方だとすぐに分かった。少女の提案があまりに危険なものだったりすると、少年がそれをたしなめる。突っ走りがちな少女をブレーキ役としてコントロールしているようだ。
螢の話を聞いていたから、すんなり理解できた。
この光景は過去のもの。女の子は幼いころの螢だ。やんちゃで無鉄砲な目の前の少女と、どこか儚げな螢――受ける印象は全く逆だが、よく見れば目鼻立ちに面影がある。
必然的に、一緒に飛び回っている妖精が螢の親友だったメトシェラ、兄さんと呼ばれている少年はそのメトシェラに殺されてしまったという、螢の兄だろう。
ということは、ここは精霊界フェアリエンの森なのだろうか。それも螢の外見からすると何年か過去の風景ということになる。
「ヴィジュニャーナ、なのか?」
戸惑いながらも一応三人に声をかけてみる。
だが三人には俺の姿が見えないのと同様、俺も聞こえていないらしい。
ここは本当にヴィジュニャーナが作り出した無意識空間なのだろうか。
それとも、俺はただ単に夢を見ているだけなのだろうか?
三人の姿を眺めながらそんなことを考えているうち、再び夕暮れが訪れる。三人は遊び疲れた様子でどこかへ帰っていった。
また何日か経って、再び三人が森を訪れた。最初の時と同じように、一日中森を楽しそうに駆けまわり、夕暮れの頃に帰る。
そんな風に、穏やかな日々が過ぎて行く。
昼と夜を繰り返し、人間界とよく似た四季が何度も移り変わった。
ひょろりと伸びた棒のようだった螢の手足は、ふっくらと丸みを帯び始めた。少年のようだったざんばらのショートカットは、清楚に整えられたセミロングに変わった。現在の年齢は十二、三歳くらいだろうか。
いつの間にか俺の知っている螢の姿に近づいていた。それはすなわち、運命の急変する日が近づいていることを意味している。
この空間の中で、一体何年が経ったのだろう。やはり長い時間をここで過ごしたという意識は無い。それどころか、ほんの一瞬のことだったのではないかとすら思える。
現実世界の海辺で螢とステラの衝突の間に割って入って海に落ちたのが、不思議なことに今も俺の中ではついさっきの出来事に感じられるままだ。
春から初夏に移り変わろうとしている日差しの強い日のこと。いつものように三人が森を訪れた。
何故だか分からないが、俺は今日が「その日」なのだということを直感的に理解した。
三人はいつの間にか木登りや駆けっこをしなくなっていた。年齢を考えれば当然かもしれない。
かわりに、集落から持ってきた本を熱心に読み耽るのが三人の最近の過ごし方だ。
もう今の俺とほとんど違わないくらいの年齢になった螢の兄は、やたら分厚い本を手に切り株に腰掛ける。勤勉な少年はもう何ヶ月もかけてこの本を読んでいた。中身は近代の日本で出版された、物理学に関する書籍を写したものだ。俺から見れば正直言って内容は少し古いが、それは仕方がない。恐らく精霊界フェアリエンでは、この手の書籍は人間界から迷い込んでしまった人間がたまたま所持していたという経緯でもたらされるものなのだろう。
そんな勉強熱心な少年の肩を椅子代わりにして妖精メトシェラがちょこんと座り、開かれたページに二人で一緒に視線を落とす。少年とメトシェラが特別な関係であることは、少し見ただけで伝わってきた。
螢は二人から少しだけ離れたところで倒れた樹の幹に腰掛け、やはり本を読んでいる。ハードカバーくらいの厚さの本だ。後ろから覗きこんでみると、それは小説のようだった。現代の日本語とは少し違うものの、俺にもなんとか読める。名前といい使用している文字といい、螢たちの集落はもともと日本人だった人々の子孫で構成されていたのだろう。
螢は兄たちの様子が気になるようで、少し読み進めては二人をちらちらと横目で見て、また少し読み進めて……といった具合だ。なかなか読書に身が入らない。
ただ二人を眺める瞳はとても優しげで、別に嫉妬したり疎外感を抱いているわけではなさそうだ。単純に仲の良い男女の姿が気になる年頃なのかもしれない。
微笑ましい光景に、ついつい俺も頬が緩んでしまう。
だが、これは今となっては二度と戻らない過去だ。
さっき俺が感じたものが正しければ、この幸せそうな三人の関係は、この日この後に崩れ去ってしまう。
やがて夕暮れが訪れ、読書はお開きになった。
いつものように帰り支度をして、三人は帰途につく。俺もことの成り行きを見守ろうと、三人の後を追おうとした。
すると途中で螢の兄が足を止める。その肩に腰掛けた妖精メトシェラも一緒だ。
螢はそれに気づかず、そのまま一人でどんどん歩いてってしまう。やがて螢の姿が木々に隠れて見えなくなったところで、螢の兄は俺の方を振り向いた。
「こんにちは、両太郎さん」
少年はそう言ってにっこり笑った。整った顔立ちに思慮深さを湛えた琥珀色の瞳、そして変声期は過ぎているのに、どこか透明感のある声。一見すると女の子に見間違えてしまいそうになる。そういえば現実世界の螢ともよく似ている。
「僕は黒沢刹那、黒沢螢の兄。と言っても、お察しの通りあなた自身の――ヴィジュニャーナの作り出した虚像なんだけどね」
刹那と名乗った少年は、はきはきと説明してくれた。妙に勿体ぶった話し方をしていたタイタニアの虚像とは随分印象が違う。同じヴィジュニャーナの化身でも、元になった人物の人格を模倣するためにこのような差が生まれるのだろうか。
「やっとお出ましか。……花澤両太郎だ。名乗るのも変だけど、一応な」
俺が名乗り返すと、刹那はクスクスと笑った。それから軽く咳払いをして、
「随分無茶をしてくれましたね。もう少しで命が危ないところでした」
さらりと恐ろしいことを告げてくる。一瞬三人の後をつけようとしたことを言われているのかと思ったが、すぐにそうではないと気づいた。もう何年も前――俺の感覚では相変わらずついさっきなのだが――螢とステラの攻撃を生身で食らった件だ。
「まあ無茶をさせたのは螢なので、その点は謝罪します。――あ、僕は本物の刹那じゃないんだから、僕が謝罪するのもおかしいかな?」
ニコニコと笑う刹那は、穏やかな空気を纏いながらもどこか掴みどころがなく、不思議な印象を受ける。
「もう少しで、ってことは一応俺は助かったのか?」
「ええ。螢があなたを助けようと海に飛び込んで、結局二人揃って溺れかけたところを渚さんに助けてもらいました。身体のダメージの方は桃さんが治療してくれたので心配ありません。そのうち目が覚めますよ」
「そうか……」
自らの状況を聞き、ひとまず安堵する。
気になったのは螢が俺を助けようとしたという部分だ。そういえば確かに海に落ちた瞬間、俺の名を呼ぶ螢の叫び声を聞いた。その後すぐに螢は俺を助けようとしてくれたのだろうか。
俺は螢の仲間にはなれないとはっきり告げた。螢もまた、フェアリズムの仲間にはなれないと宣言した。完全に決裂してしまったと思ったのだが……。
「あの子は揺れ動いているんですよ」
俺の思考を読んだらしく、刹那が苦笑いを浮かべて言った。
「まあ、両太郎さんもそれは気づいていますよね。だからあなたの無意識は、僕とメトシェラを今回のナビゲーターに選んだ。螢のことを知るためにね」
「そ、そういうものなのか」
無意識が選んだと言われても、自覚していないからこその無意識なので、反応に困る。
「でもまさか、過去に――その、亡くなった人までナビゲーターになるとは思わなかった」
「え?」
俺の発言に、刹那とメトシェラは顔を見合わせる。
「死んだって、私たちのこと?」
今度はメトシェラが問い返してきた。
「違うのか? 螢が言うには、その――メトシェラが刹那を、刺し殺したって――」
二人とも本物の刹那とメトシェラそのものではないとはいえ、当人たちに向かって言うのはやや心苦しい内容だ。
だが二人はまたも顔を見合わせ、今度は少し悲しそうに笑う。
「本物の私もセツナも死んではいないわ。姿形や命の在り方は変わってしまったけれど、今も生きている」
「え?」
刹那もメトシェラも生きている――?
それは螢にとっても俺にとっても、非常に大きな朗報なのではないだろうか。螢の考え方が絶望に染まってしまったのは、メトシェラが刹那を殺す光景を目撃したからだ。二人が共に生きているということは、それが螢の誤解だったということだろう。
姿形が変わってしまったという意味は分からないが、二人が生きていることを告げれば、螢はきっと考えを改めてくれるはずだ。
だが、そんな俺の楽観的な内心を呼んだかのように、
「といっても、それは螢が望む形とは違っています」
「きっと今のホタルは、本物の私たちに何があったかを知ったら心が折れてしまうわ」
「だから本物の僕たちは、まだ螢に姿を見せることができません」
「ホタルが全てを受け入れられる時まで――リョウタロウ、あなたが私たちのかわりに螢を支えて」
二人は口々に言った。その表情には痛ましいほどに切実な思いが表れている。これはヴィジュニャーナの化身としての言葉というより、その元になった人物――黒沢刹那と妖精メトシェラの願望なのだろう。
「……わかった。もともと俺だって螢を救いたいと思ってるんだ。俺に何ができるかわからないけど、全力を尽くすと誓うよ」
俺がそう答えると、沈痛な表情をしていた二人に少しだけ安堵の色が見えた。
「そのかわり、お前たちに――いや、本物の刹那とメトシェラに何があったのか教えてくれ」
「もちろん。僕たちはきっと、そのためにここにいるから」
「でも、ホタルはきっと嫌がるわね。勝手に踏み込まないで、って」
確かに螢が言いそうなことだ。メトシェラの口真似が妙に上手かったせいで、思わず三人で笑ってしまう。おかげで少し空気が和らいだところで、刹那は俺の右手を両手で握りしめた。同じように左手にはメトシェラがしがみつく。
「それじゃあ、少し時間をジャンプしようか」
「私がセツナを刺した、あの瞬間にね」
俺は黙って頷く。それを見て二人は目を閉じ、微かに微笑んだ。
それから、
『――さようなら』
声を揃えてそう言った。
その笑顔はあまりに儚く、俺は二人に声をかけようとした。だがそれより早く、二人の姿は周囲の景色と一緒にぐにゃりと歪んだ。
何が起きたのか焦る間も無く、ディストーションのかかった視界がどんどん色を失い、辺りの森も刹那もメトシェラも全てが白の中に消えていく。そして同時に、異なる映像がその歪みの中から浮き上がってきた。
それは赤黒い炎に呑まれて焼け落ちる家々の様子だった。視界の歪みが収まった時、俺はまるでゲームのシーン転換でも挟んだかのように、炎に包まれる村の片隅に立っていた。
周囲を山々に囲まれたその集落には、ざっと見て三十程度の民家が見えた。人口百人前後といったところだろうか。生活用品は電化されていないらしく、電柱の類は見えない。文明水準的には十九世紀くらいだろうか。建築物は大半が木造平屋で、それも家々を襲う炎の激化の一因になっているらしかった。
炎は容赦なく村中を飲み込み、全てを焼き尽くしていく。もし逃げ遅れた人がいたならば、生存は絶望的だろう。
俺が立っているのは民家の連なりから少し離れた位置だったが、さっきから風に乗った火の粉が無数に降り注いできている。
ただ、火の粉は俺の身を焦がすことはなかった。まるで俺などこの場に存在しないかのように、身体をすり抜けて地面に落ち、足元の草を炭に変えていく。そういえば熱さや家々の焼け焦げる臭いも感じない。この場に立ち会っているというより、音と映像の記録を視聴しているような状態なのかもしれない。
俺は辺りを見回し、螢たちの姿を探した。そしてすぐにそれを見つけた。
燃え落ちていく家々から少し距離のある、村の内と外とを区切る木の柵の傍ら。そこに、螢が横たわっていた。近くに刹那とメトシェラの姿もある。
「良かった、ちゃんと近くに移動させてくれたん――え?」
三人のそばに駆け寄り、俺は愕然とした。
「そんな……どうして……?」
思わず声が漏れる。
この空間は俺の無意識が創り出した心の中の世界。そう知っているにも関わらず、まるで自分の心臓が物理的に縮み上がってしまったんじゃないかという錯覚に襲われた。
横たわる螢の衣服は、ついさっき見たのと同じ白いワンピースだ。しかしその面影は殆ど残っていない。
左側半分近くが燃え落ちて真っ黒い炭のようにり、焼けただれた皮膚にへばり付いている。なんとか服としての体裁を保っているもう半分も、茶褐色に焦げていた。
ぬばたまの、なんて枕詞が似合いそうなほど艷やかだったセミロングの黒髪は、今は灰をかぶって煤けた印象を受ける。
――そして、ついさっきまで穏やかな笑顔を見せていたその整った顔には、生気が感じられなかった。
顔には火傷や怪我は見られない。色白の頬には仄かに赤みが差し、普段より血色が良いくらいだ。まるで穏やかに眠っているようにすら見える。しかしその瞳は虚ろに空を見上げ、その胸は呼吸による上下を刻むことは無い。
――死。
どうしようもなくシンプルで、どうしようもなく絶望的な言葉が脳裏に浮かぶ。
そんなバカな。だって、これは過去の出来事じゃないのか?
俺の知っている世界で、螢は生きている。ここで死ぬはずがないんだ。どうして……?
頭が必死に答えを探す。しかし納得の行く答えは見つからない。
俺は動かない螢の体に覆いかぶさり、人工呼吸をしようとした。だが右手が螢の方をすり抜けて地面に触れ、それが無駄なことだと悟る。
俺にできることは何もない。ただこの光景を目に刻むことしか許されていない。
そして、この光景を俺の知る現在に繋ぐ役割――それを負っているキーパーソンは他にいる。
「螢……お前を死なせはしない……絶対に!」
刹那は螢の亡骸を見下ろし、強い口調で言った。優しげだった瞳には、ゾッとするほど強い意志の光が浮かび、そこから絶え間なく涙が溢れて頬を伝う。
刹那は最初に森で遊んでいた時と同じで、俺の姿が目に入っている様子がない。この刹那は過去の黒沢刹那の姿を一方的に再生しただけの幻影なのだろう。
「メトシェラ、本当にその剣で螢を救えるんだね?」
刹那は震えた声で、もう一人のキーパーソンであるメトシェラに問うた。その言葉の通り、メトシェラは華美な鞘に収まった一振りの西洋剣を手にしていた。
妖精にとってちょうどいいサイズということは、すなわち人間にとっては鉛筆ほどの大きさもない。まるで人形の玩具だ。
だがメトシェラはそれを宝物のように大事に抱えたまま、
「ええ。この《シュレディンガーの剣》は生と死を反転させる力を持つの。でもさっき言った通り、それは二人の対象の間で生命力を移し替えるだけ。ホタルの命が戻るかわりにセツナ、あなたは――」
泣き出しそうな顔で答えた。
刹那はメトシェラの様子に眉を顰めながら首を振る。
「ごめん、メトシェラ。君にどれだけ辛い役目を負わせるかはわかってる。でも、僕は螢に生きていて欲しい。そしてメトシェラ、君にもだ」
刹那の声は震えが止まっていた。どれだけ強い意志を込めた言葉なのか、俺にも伝わってくる。
メトシェラは目を瞑って大きく息を吐いた。それからカッと目を開き、剣を抜く。その刀身は鏡のように赤黒く燃え盛る炎を映しながら、それでもどこか青白い光を放っていた。
人形の玩具だなんてとんでもない、エレメントストーンやあの《エヴェレットの鏡》にも匹敵する不思議な品なのだということは俺にも分かった。
「フェアリエンの至宝に名を連ねし《シュレディンガーの剣》よ、老帝エイジングの娘・メトシェラの名において命じる……」
メトシェラの言葉に呼応するように刀身は一層青白い輝きを増し、光に包まれた。同時にメトシェラの体が脈打ちながらその体積を増していく。
あっという間に、メトシェラは人間の少女と同じくらいの体格に変貌していた。着ていた服は体が大きくなる際に破れてしまって、その眩いばかりの肢体があらわになっている。しかし不思議なことに手にした剣――《シュレディンガーの剣》だけは、メトシェラの肉体と共に大きさを変え、四、五〇センチ程度の刀身を持つ一振りの剣へと変貌していた。
メトシェラが口にした老帝エイジング――それはパックや螢が言っていた、かつての精霊界フェアリエンの守護者・三諸侯とやらの一人だ。確か、エイジングは暴走した人間たちによって最初に攻撃を受けた三諸侯でもある。
つまりメトシェラは単なる妖精ではなく、フェアリエンの要人の娘だったということだ。
刹那はメトシェラの方に向き直り、両手を広げた。
メトシェラは僅かに目を見開き、それから迷いを断ち切るように瞳を閉じて呪文のようなものの詠唱を続けた。その拍子に二つの目の端から涙が零れ落ちる。
「其の者の生は彼の者の生、彼の者の死は其の者の死、綺麗は汚い、汚いは綺麗、正は負にして負は正、生きるべきか死すべきか、その問いに答えよ!」
唱え終わるのと同時に、メトシェラは《シュレディンガーの剣》で刹那の左胸を貫いた。その衝撃で刹那の双眸が見開かれ、そして苦痛に歪む。
血は一滴も出ていなかったが、かわりに刹那の顔から見る見る間に生気が抜けていった。同時に《シュレディンガーの剣》は一層輝きを増す。その輝きは刹那の胸を貫いて背中側から覗く先端に、まるで凝縮されるように集まっていく。きっとこの輝きは刹那の生命力なのだろう。
刹那が振り絞った命の輝きは刀身の先端から零れ落ち、螢の体へと吸い込まれていく。
螢の左半身の火傷はみるみるうちに修復され、頬に差した不自然な赤みも引く。
胸が僅かに上下運動を始めた。それからすぐにこほこほとむせ込む。それを聞いた刹那とメトシェラの表情には、強い安堵が見えた。
螢はひとしきりむせ込んだ後、薄く開かれたままになっていた瞼を何度かぱちぱちと開閉して、それからもう一度ゆっくり開いた。
「う……?」
かすれてくぐもった声。意識がはっきりとしていないらしく、目は焦点が上手く定まらない様子だ。
だが、その目が突然何かを捉えてカッと見開かれた。
俺はその時、全てを理解した。
螢が見開いた目で呆然と見ていたのは、青白く輝く剣で胸を貫かれた兄・刹那の姿。そしてその剣を手にした親友・メトシェラの姿。
そうだ、これが螢の見た光景の真実だったのだ。
「兄さん、メトシェラ、どうし……て……」
それだけを言い残し、螢は再び意識を失った。
その様子を横目で見届け、刹那は喜びと悲しみの入り混じった複雑な笑みを浮かべた。
「さあ、メトシェラ。このままでは僕も螢も死んでしまうだけだ。早く僕の残りの命を螢に――メトシェラ?」
刹那の瞳に疑念が宿る。
メトシェラは刹那の言葉に返事せず、ジッとその目を見返していた。――強い決意の眼差しで。
「メトシェラ? 一体きみは――ッ!?」
刹那が問いただそうとしたのより一瞬早く、メトシェラが《シュレディンガーの剣》を刹那の胸から引き抜いた。そして刹那が驚愕で動けずにいる隙に、剣を逆手に持ち直して自らの胸に突き立てた。
「メトシェラ! 何をするんだ!」
「あなたを死なせないわ、セツナ!」
苦痛に顔を歪めながらも、メトシェラは力強く言った。
「ホタルには私の命も半分あげる。セツナの半分と私の半分、これでホタルはもう大丈夫」
メトシェラの言葉の通り、剣の先端から今度はメトシェラの生命力が銀色の輝きとなって螢へと降り注がれていく。だがその光景に、刹那は一層顔色を変えた。
「確かにそれで螢は助かる。でも、君は――!」
「ええ、その通り。私もセツナも、残った半分だけの命で生き続けることはできないわ」
力無く笑うメトシェラ。俺は――そして恐らく刹那も――メトシェラは刹那と心中しようとしているのだと、そう思った。
「ダメだメトシェラ、僕は君にも生きていて欲しいんだ! すぐに僕の残りの命を君に――!」
「嫌よ! 私はセツナに生きていて欲しいもの!」
メトシェラはゆっくりと、自らの胸から《シュレディンガーの剣》を引き抜いた。
それから、まるで愛おしむように両手でぎゅっと抱きかかえる。
「だから、セツナ。私たちは二人で生きましょう。二人で一つになって――」
「え……?」
「この《シュレディンガーの剣》のもう一つの力は《生命の重なり合わせ》。私とセツナの残りの命を重ね合わせて、一つの存在になるの」
「メトシェラ……」
生命の重なり合わせ。つまり半分だけの命が残った刹那とメトシェラが融合することで、完全な命を持った新しい存在に生まれ変わるということだろうか?
最初は驚いた顔を見せた刹那だったが、すぐに戸惑いは消えたようだった。
メトシェラと同じ決意の表情に変わり、頷く。それを見てメトシェラは、どこか安心したように見えた。
もしかすると刹那が拒否していたら、メトシェラは残りの命を刹那に捧げて自分だけ死のうとしていたのではないだろうか。きっと刹那もまたそれを察し、メトシェラとともに生きることを選んだのだろう。
刹那は剣を抱えたままのメトシェラを、そっと抱き寄せる。
「僕たちは、僕でも君でもない存在になるんだね」
「ええ。そしてそれは同時に、私でもセツナでもあるのよ」
「ずっと一緒だ」
「ええ。ずっと、一緒――」
そうして二言三言を交わすと、メトシェラは再び呪文のようなものを唱え始めた。
それが終わると同時に、二人の肉体は形を失い、キラキラとした銀色の光に変わる。その光は宙に浮いた《シュレディンガーの剣》を中心に一つにまとまり、人の形を象る。
瞬間の名を持つ人間の少年と、長命の名を持つ妖精の少女。まるで対のような二人は、融け合い、混じりあい、重なり合って一つの存在に変わっていく。
やがて二人――いや二人だったものが放つ光は一際強くなり、俺の視界は完全にホワイトアウトした。
-†-
視界はいつまでも真っ白なままだった。
初めは刹那とメトシェラの放った光が一向に収まらないのかと思ったが、いつの間にか自分の体――相変わらず裸のままだ――は見えるようになっていた。
つまりここはもう螢たちの集落ではなく、真っ白な空間なのだ。
どこまでも続く現実感の希薄な真っ白な世界は、数日前に見たタイタニアを囚えている精神の地平線を彷彿とさせる。
だがあの時とはどこかが違う。あの精神の地平線の白は、不安や孤独感を湧き上がらせる、あらゆるものが抜け落ちた白。無――世界の終わりをイメージせずにはいられなかった。
しかし今俺がいるこの空間の白さはそれとは違う。何も無いようでありながら、そこには不思議な充実感が漂っている。まるで全てを内包しているかのような白。例えるなら、様々な色の光を重ねあわせることで出来上がる白だ。
「とまあ、こういうわけです」
不意に背後から声がした。
振り返ると、そこには一人の女が立っていた。細身の長身に、よく整った理知的で中性的な顔。短く刈られた髪がその中性的な印象をより強めている。片方の瞳は琥珀色、もう片方はターコイズブルーで、どこか遠くまで見通すような不思議な雰囲気を漂わせている。
初めて見る顔だったが、同時についさっき見たばかりの二人の面影も残している。俺は、それが刹那とメトシェラの融合した姿なのだと直感的に理解した。
「わかってもらえましたか?」
刹那ともメトシェラとも違う彼女は、穏やかな声で問いかけてくる。
「ああ、よく分かった。螢は自分の命をまるで支払い損ねた負債のように考えているが、そうじゃなかった。今の螢の命は大切な人たちから与えられたものだ。本当はアイツは、とっくに救われていたんだな」
俺の答えに、彼女は満足そうに微笑んだ。
「それで刹那――いや、メトシェラ? えっと……なんて呼べばいいんだ?」
「私の今の名前はそのうちわかります。ま、今のところは刹那でもメトシェラでもいいですよ」
刹那――ひとまずそう呼ぶことにした――は、含みのある笑顔を見せた。その口調や笑顔は、刹那でもメトシェラでもあるようでいて、そのどちらとも違う。人格面でも本来の刹那とメトシェラのものが重なり合っているのだろうか。
「それじゃあ刹那。元の刹那とメトシェラが一つになって、それから一体どうなったんだ? 俺が聞いた話では螢は目覚めた時、森の中を一人で彷徨っていたはずだ。どうしてあんたは螢の近くにいてやらなかったんだ? そのせいで螢は《組織》に――」
「それもそのうちわかりますよ。あなたや螢と同じように私もまた、精霊界フェアリエンと人間界を巻き込んだ戦いの輪から逃れることはできないのですから」
刹那ははぐらかすように言う。ヴィジュニャーナの化身がこうやって話を濁す時は、無理に問い質しても労力の無駄だ。ったく、思わせぶりなのも大概にして欲しい。
「それより両太郎さん、あなたはヴィジュニャーナが何なのか見当がつきましたか? 今回自分の知るはずのない過去の出来事を見たことで、少し答えに近づけたのでは?」
「……そうだな。いわゆる《アカシック・レコード》なんて概念と近いものなんじゃないのか?」
「へえ?」
刹那は感心したように目を丸くする。
「ヴィジュニャーナをキーワードにネットなんかで検索して《識》と訳される言葉だということはわかってた。ただその《識》がそもそも何を意味しているのか俺にはわからなかった。でもヒントはタイタニアの――タイタニアの姿を模したヴィジュニャーナの化身の言葉にあった。彼女は俺に言ったんだ。『ヴィジュニャーナを自らの知識・認識・意識に変えろ』ってな。その知識・認識・意識こそが答えそのものだったんだ」
「……それはつまりどういうことですか?」
「『知識』というのは過去の出来事、知ることはできても変えることはできない。俺があんたや螢の身に起きた過去の出来事を知ることができたが、そこに干渉することはできなかったようにね。それから、『認識』は現在起きている事象を情報として取り込む作用のことだ」
刹那は黙って頷いていた。ここまでの俺の解釈と推測は間違っていないということだ。
俺は更に言葉を続ける。
「そして三つ目の『意識』とは知識と認識を何かを動かす力に変えるもの。自らの肉体を動かし、その及ぶ範囲を動かし、世界を動かしていく意志だ。そしてそれらこそがヴィジュニャーナの本質。ヴィジュニャーナとは知識・認識・意識をアシストするいわば外部モジュールみたいなもの。過去を知り、現在を受け入れ、未来を選ぶ力だ。違うか?」
だが、期待していた肯定の言葉は返ってこなかった。刹那は腕を組んで右手で顎をいじりながら、考え込むように俯く。
「そこまでだと……五十点、かな」
「五十点? 半分しか正解じゃないってことか?」
「ええ。今あなたが言った内容は全部間違っていない。でもそれだけじゃ足りないんです。その先にあなたが本当に理解しなきゃならないことがある。それは今あなたやフェアリズムたちが頭を悩ませている、《世界を繋ぐもの》とも関連している」
「それは俺がヴィジュニャーナを理解することと、フェアリズムがパワーアップすることには繋がりがあるってことか?」
「ええ。そしてきっと――螢の心を救うためにもそれは必要です。全ては環のように繋がり合っているのですから――」
そう言った刹那の眼差しは、俺と同じくらいの外見年齢とは裏腹にどこか老成していて、世を悟った賢者のようにも見える。それが本来の彼女のものなのか、それともヴィジュニャーナの化身ゆえのものなのか、俺には判断がつかない。
それにしても刹那の話を総合すると、俺が抱えている課題の殆ど全てが密接に関連するということか。
それは一つをクリアすれば全てに繋がるというメリットであり、逆に見れば一つ目をクリアできなければほかもクリアできないというデメリットでもある。
「さて、そろそろ目覚める時間です」
考えこんでいると、刹那が急に急かすように言った。そう言われて急に自分の今の状況が気になりだす。渚や桃に助けられ、命に別状は無いと言ってたが……。
「俺は一体何日寝てたんだ? たっぷり数年分は過去を見せてもらったが」
「大丈夫、現実世界での経過時間はまだ二時間少々ってところですから。でも早く起きてあげてください。フェアリズムの皆さんが心配そうにしていますから。――もちろん、螢もね」
刹那は悪戯っぽく笑った。笑うと浮かぶえくぼはメトシェラを、優しく細められた目は元の刹那を思わせた。
「螢をよろしく頼みます」
「わかってる。螢と――それから、本物のあんたが、笑って再会できるようにしてみせるさ」
サムズアップと一緒に宣言してやる。
正直まだわからないことは沢山ある。しかし答えに近づけたものも同じくらい沢山ある。
何より、螢を絶望の世界から引っ張りだす糸口が見つかったのは大きな収穫だ。
いつか必ず螢を助けてみせる。
俺は自分の意識が現実に引き戻されていくのを感じながら、そんなことを決意していた。
表現微調整(14/09/29)
誤字修正(15/12/30)




