第八話 桃と螢と両太郎 4 -Sister and Sys-Ter 4-
俺たちは岩べりに並んで座って話をした。と言っても、俺が一方的に螢の話を聞くだけだ。
螢はかつて精霊界フェアリエンで起きたこと――人間と妖精の争いや、螢を襲った悲しい出来事を話してくれた。
螢はまるで他人の日記帳を読み上げるように淡々と語った。しかし恐らく本人も気づかなかっただろうが、時々その声が震え、眉根に皺が寄り、頬が強張るのを俺は見逃さなかった。
螢にとって、まだその出来事は過去になっていない。未だに深い悲しみ、そして苦しみの只中にいるのだろう。それを俺の前で曝け出すまいと努めているだけなのだ。
俺はといえば、螢の話に少なからず衝撃を受けていた。
今まで俺が聞いていた話は、《組織》が精霊界フェアリエンを征服したという部分だけだった。フェアリエンの人間と妖精は平和に暮らしていて、《組織》がその平和を破ったのだと、そう思い込んでいた。
だが螢の話を聞く限り、最初に争いの火蓋を切ったのは人間たちだ。そして人間と妖精の間で命を奪い合うほどの戦いが起きた。組織は上手くその隙を突いたに過ぎない。
背筋に寒いものが走る。
パックやアリエルはどうしようもなく口が悪くて生意気な奴らだが、外見は童話に出てくる妖精そのもの。いたずら好きで、牧歌的で、か弱い生き物――人間が主役の世界の片隅でひっそり生きる不思議な存在たちなのだと、勝手にそう思い込んでいた。
だが実際は、人間と妖精は争うこともある。時には種の存亡を賭けて殺し合うかもしれない。単なる異種族同士の間柄に過ぎないのだ。
もちろん妖精たちがいたずらに人に危害を加えようとする存在だとは思わない。
実際に人と妖精の共存は成り立っていたわけだし、何よりあの女王タイタニアが意味もなく人間を虐げようとするわけもない。
ただ、その共存は永遠でもなければ絶対でもない。どこかで歯車が狂えば崩壊してしまう類のものだったということだ。
俺やフェアリズムたちはこれまで、「人間界を守る」「精霊界フェアリエンを救う」という二つの目的を持って《組織》と戦ってきた。そのうち一つ目は、当然今後も揺るがない。
だが二つ目はどうだろう。果たして『フェアリエンを救う』とはどのような状態なのだろうか。
フェアリエンから《組織》を追い払って女王タイタニアや三諸侯とやらを助け出す。これは妖精の国を復興させるために最低限の必須事項だ。ではその次は?
螢の家族も含む、フェアリエンに住んでいた人間たち――彼らが現在どのような状態に置かれているのかはわからない。螢の言うようにみんな死んでしまったのかもしれない。
だがもし生きているなら助けたい。自ら争いを望んだ人間ばかりではなく、螢たちのように戦いの渦に否応無しに巻き込まれてしまった人たちだっているはずだ。その人たちも助けてこそ、本当の意味でフェアリエンを救ったことになる。
だが妖精と人間の両方を救った先に何が待ち受けているのだろうか。
侵略者であった《組織》がいなくなっても、妖精と人間と間に一度出来上がってしまった溝は消えないだろう。場合によってはもう一度、妖精と人間とが殺し合いを再開するだけなのかもしれない。
俺たちの――フェアリズムの戦いが、もしそんな未来を招いてしまうのだとしたら。フェアリズムはこのまま人間界を守ることだけに徹し、精霊界フェアリエンには関わらない方がいいんじゃないだろうか?
そんな疑問が頭の片隅から沸き上がってきて、思考に絡みついてくる。俺はそれを振りほどこうと、首を振った。
「……両太郎」
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、しばらく黙りこんでいた螢がゆっくりと口を開いた。
「絶望で世界を救うというわたしの考えを、あなたは理解できると言ったわね?」
いつも俺に対して高圧的な螢らしくない。どこか探るような、縋るような口調だ。
「ああ、理解できる。賛同できるかは別としてな」
「そう。だったら……」
螢はそこで言い澱んだ。ジッと俺の方を見て眉を顰める。その先を口にするのを戸惑っているようにも見えた。
俺は敢えて先を促さない。「だったら」の続きは見当がつかないが、螢の方から言い出すまで待ってみようと思った。
数十秒、あるいはもう少し。波の音だけが続いていた。
やがて、螢は再び口を開く。
「だったら両太郎。あなたはわたしと共に《組織》に来なさい」
「……へ?」
あまりに予想外な言葉に、思わず間抜けな声を返してしまった。だが螢はそれを意に介した風もなく、話を続ける。
「わたしは《組織》の力を使って、この人間界を絶望で染める。希望のせいで起こる傷つけ合いの連鎖から、人間を救ってみせる。あなたはそれを手伝いなさい」
「な、何言ってるんだよ! 俺にフェアリズムを――桃たちを裏切れって言うのか?」
「あなたはあの子たちに信頼されているわ。あなたが説得すれば、戦わずに済む道もあるはずよ」
もともと冗談を言うヤツだとは思っていないが、それにしても螢の顔は真剣そのものだ。それどころか、悲壮さすら感じられる。ジョークでもなければ罠でもない、コイツは本気で俺に《組織》に加担しろと言っているのだ。
だが当然、俺はこんな話を受けるわけにはいかない。
「たとえそうだとしても、俺はあの子たちを絶望のどん底に突き落とす手助けなんて御免だ。第一、お前の一存で俺を仲間に引き入れるなんてことが可能か? 確か《組織》は俺の――俺の中にあるヴィジュニャーナとやらを狙ってるんじゃなかったか?」
俺の言葉に、螢は少し苛立った様子を見せた。
「司祭イルネス様はあなたを殺さずに連れて来いと言った。あなたの命は保証されているわ」
「そんなの、連れ帰るまでかもしれないだろう? その後の身の安全なんてどこにも保証は無い。お前はヴィジュニャーナが何なのか知っているのか?」
「いいえ、それは……」
グッと下唇を噛み締め、俯く螢。だがこればかりは俺も手を緩めるわけにはいかない。全力で反論させてもらう。
「生きたまま祭壇に貼り付けて生贄にするのが目的、なんて可能性だってあるんじゃないのか?」
「だったら!」
螢は溜め込んだ苛立ちををぶちまけるように、あるいは喉の奥から絞りだすように叫んだ。
「だったら、その時はわたしがあなたを守る。他のシスターにもイルネス様にも、あなたに指一本触れさせない」
そう言って螢は俺の眼前に掌を差し出した。すると暗い紫色の靄のようなものが空中から現れて螢の掌に吸い込まれていく。
次の瞬間、そこには逆十字に貫かれた陰陽の闇のエレメントストーンがあった。
不思議と、螢がそれを使って俺をどうこうしようとしているとは全然思わなかった。
ただコイツは、状況次第で《組織》を敵に回したっていいという覚悟を、俺に示したいだけなのだ。
一体どうして螢はそこまで俺を仲間に引き入れようとするのだろうか。
螢はかつての俺と同じような傷を心に抱えている。俺が螢に対してどこか共感してしまっているように、ひょっとすると螢もまたそうなのかもしれない。
だがそれならば、なおさら螢がしようとしていることを、俺は認めるわけにいかない。
全てを諦めてしまえば、絶望してしまえば世界は優しい。俺も六年前の事故の直後はそう思っていた。
実際にそれで俺はどうにか平静を保つことができていた。
でも、決して救われていたわけじゃない。毎晩のように悪夢にうなされ、体重は落ち、体力は衰えていった。そう、あの時の俺は苦しかったんだ。
その苦しみから俺を救ってくれたのは、身近な人たちとの繋がりだ。
誰かと繋がっているから人間は生きていける。
そして繋がれば、その誰かの幸せを願わずにはいられない。
それが希望だ。
確かに、希望のせいで傷つけ合ってしまうことはある。
それでも、希望が無ければ人間は生きていけないんだ。
だから俺は――
「ごめん、螢。俺は希望を信じている」
「――そう」
螢の声はゾッとするほどに冷たく、暗かった。
希望を信じるという俺の言葉が、まるで螢に絶望を与えてしまったかのように感じられた。
「でも、俺はやっぱりお前と戦いたくない。これも本心だ」
「――それで?」
「《組織》と戦うほどの覚悟があるっていうなら、お前が俺たちの仲間になるのは無理なのか? 考え方を変えろとか、信念を曲げろとかっていうんじゃない。ただお前も――」
「無理よ」
それは完全な拒絶だった。
続きを聞くつもりなど無いとでも言うかのように、螢は俺の言葉を遮って立ち上がり、
「かつてフェアリエンで暮らしていた黒沢螢だったら、きっとそれもできたでしょうね。でも今のわたしは――このシスター・ダイアは、希望を信じられない。希望を許すことはできない」
俺に背を向けたまま、まるで演劇のセリフのように腹声で高らかに宣言した。
それから長い髪を揺らしながら振り返ると、
「交渉決裂ね」
自嘲気味な微笑を浮かべてそう言った。
その笑顔はまるで薄氷のように冷たく、そして脆く見えて、俺はなんだか螢がこのまま消えてしまうんじゃないかと思った。
何か言葉をかけなければならない。でも、何も言うべき言葉が見つからない。俺はたった今、この子が命がけで成し遂げようとしていることを真っ向から否定したのだ。それを一体どんな言葉で取り繕える?
言葉にならない声が喉元まで出かかって、でもその先の形にすることができない。
そんなもどかしさと焦りがどんどん膨らんでいって――
「……もう、話、終わった?」
背後から聞こえてきた麻美の声によって、一瞬で消し飛んでしまった。
-†-
「麻美、お前……」
「……にーさま、下がって」
いつもよりウェーブを増した髪に、白と山吹色のコスチューム。俺と螢の間に割り込むように立ちはだかった麻美は、既に電磁気力を操る地の戦士・フェアステラへと変身を終えていた。その手には、五大の地のエレメントストーンの指輪が燦然と輝いている。
完全に臨戦態勢だ。どうやら俺たちの会話はすっかり聞かれていたらしい。
周囲に他のフェアリズムたちの姿が無いところを見ると、結局麻美だけ光たちに合流せず俺の後をつけてきたのだろう。時々妙に鋭いところがある子なのだ。
「麻美、待ってくれ。そいつは……」
「……にーさまにも、考えがあるのはわかる。でも」
ステラは小さい子供に言い聞かせるような目で俺を一瞥した。
そうだ。今はステラの態度の方が正しい。螢はたった今、希望を許さないと宣言した。それに加えて自分は黒沢螢ではなくシスター・ダイアなのだと名乗った。
それは 自分はお前たちの敵だ、戦わなければならない相手だ、そう主張したのと同じだ。
いわば俺たちに対する敵対宣言だ。
それを受けて迅速に対処しようとしているステラが正しくて、今なお躊躇している俺は間違っている。それは分かっている。
「盗み聞きとは趣味が悪いわね、金元さん――いえ、フェアステラ」
「……あなたに、言われたくない」
嗜虐的な笑みを浮かべる螢――シスター・ダイアと、それを睨み返す麻美――フェアステラ。二人の少女の間に生じた、一触即発の空気が周囲を包んでいく。
「やめろ、やめてくれ……」
たとえ間違っているとしても、やっぱり俺はフェアリズムと螢が戦う展開は避けたい。
だが、二人とも俺の言葉に耳を傾けてはくれない。
ステラが腰を低く落とし、両拳を顔の高さで構えた。その拳からはパリパリと音を立てて火花が散る。
対する螢も、片手を塞いでいた陰陽の闇のエレメントストーンを首にかけ、両手を手刀の形にして半身を引いた。
どうすればいい?
どうすれば止められる?
頭の中で思考が着地点を見つけられないままぐるぐると回る。
だが二人にかけるべき言葉は一向に出てこない。
「……いくよ」
先に動いたのはステラだ。螢はそれに反応して一瞬体を強張らせ、それからすぐに手刀を振りかぶる。
「返り討ちにしてあげるわ!」
『たああぁぁぁぁっ!』
俺には二人を止めることが出来なかった。少女たちの気迫に満ちた叫びが交錯する。
その声が、俺の頭の中を真っ白にした。
「くそおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
次の瞬間、俺は叫び声を上げ、二人の間に身を躍り込ませていた。
「…………!」
「なっ――!?」
ステラと螢、二人が息を呑むのが分かった。
それほどまでに二人の距離は、そしてその間に割って入った俺との距離は、肉薄していた。
当然、振り下ろされた拳が止まるはずもない――。
「――――がぁっ!」
意識が刈り取られそうな衝撃と共に、俺の体は思い切り吹っ飛ばされた。
身体が宙を舞っていたのはほんの二、三秒だっただろうか。
それが俺にはまるで数十秒もの長さに感じられた。
「……にーさま!」
「両太郎!?」
戸惑う二人の叫び声を耳にしながら、俺は「ちくしょう、痛え」「シスターとフェアリズムの同時攻撃なんて、生身でまともに食らうもんじゃないな」なんて呑気なことを考えていた。
あれ、案外余裕があるんだな俺。……違うか、まともな思考ができないほどのダメージを受けたんだ。
そう自覚したのとほぼ同時に、俺は受け身すら取れないまま海面に叩きつけられた。
「両太郎ぉぉぉぉぉぉぉ!」
身体も意識も暗い底に沈んでいく中、遠くで螢が俺の名を呼んだ気がした。
まるで悲鳴にも慟哭にも聞こえて、俺は声の方に手を伸ばそうとした。
しかし思うように身体を動かせず、そこで俺の意識は途絶えた――。




