第七話 桃と螢と両太郎 3 -Sister and Sys-Ter 3-
わたしは一体どうしてしまったのだろう。
絶え間なく岩壁に打ちつけては消えていく波を見つめながら、自問自答を重ねる。
花澤両太郎――あの呑気な男は、何を考えているのか知らないが、わたしが制服を着ている間は敵対しないなどと約束した。そして実際にわたしの正体をフェアリズムたちに隠し続けている。その状況を利用しない手は無い。
それでわたしは、陰陽の闇のエレメントストーンの催眠の力を使って、黒沢螢として朝陽学園の学籍を得た。それは来るべきフェアリズムとの戦いに備え、間近で情報収集するためだ。
そう思っていたはずだったのに。
どうしてわたしはこんな合宿に参加してしまったのだろう。
大勢の生徒の中に紛れられる学校ならともかく、こんな少人数での合宿では情報収集なんてやりにくい。参加するメリットなんかどこにも無い。
何故もっと本気で断らなかったのだろう。
それどころか、さっき両太郎に指摘されるまで、わたしは――。
わたしは、自分が《組織》のシスターであること、フェアリズムが戦うべき敵であることを、忘れてしまっていたのではなかったか。
シスターとなって以来ずっと聞こえていた、陰鬱な不安の声。
糖分を摂取することでそれを一時的に遮蔽することができると気付いて以来、わたしはキャンディを持ち歩いて定期的に糖分を補給している。
だがその頃からだろうか。自分がシスターであるということが、時々意識からフッと消えてしまうようになった。
そんな時、わたしは昔のことを思い出している。
昔と言っても、実際はほんの一年前のことに過ぎない。なのにまるで、遠い昔のことのように感じられる。あの日感じた――そしてつい最近までずっとわたし自身を苛んでいたはずの、怒りや嘆き、恐怖や憎悪までもが、まるではるか遠くにかすれて消えていく。
怒り、嘆き、恐怖、憎悪……シスターの力の源である、絶望に至る負の感情。
まるでそれらが、不安の声とともに薄れてしまったかのような感覚。
わたしは一体どうしてしまったのだろう――もう一度自問する。
陰陽の闇のエレメントストーンを手に入れ、フェアリズムとの戦いは優位に立った。
だがフェアリズムたちは諦めず、新たな力を手にしようと足掻いている。
このままではいずれ戦況が覆ってしまうかもしれない。
腑抜けている場合ではない。わたしもさらなる力を手にしなければならない。
わたしは希望を認めない。人を惑わせ傷つける希望という存在を、わたしは絶対に許さない。
だからわたしは、フェアリズムに負けるわけにはいかないのだ。
-†-
精霊界フェアリエンには、人間界から迷い込んだ者たちの子孫が暮らす集落がいくつもあった。多くの集落は近隣の妖精たちと友好的な関係を保ち、共存していた。
わたしが生まれ育ったのもそんな集落の一つだ。
わたしは小さい頃からいつも三歳年上の兄さんと親友メトシェラの三人で一緒に遊んでいた。兄さんは少し大人しい性格だけれど勉強も運動も大得意で、両親にとってもわたしにとっても自慢の種。メトシェラは近くに住んでいた妖精で、笑うとえくぼが浮かぶ可愛らしい女の子。そしてわたしは、勉強も運動も兄さんほどではないけれどしっかりやれた方。でも、それよりも外で泥んこになって遊ぶのが大好きで、やんちゃな男の子みたいだった。
三人で野原を駆けまわり、花畑で昼寝をして、川べりを探検して――。毎日がとても楽しく、幸福だった。
そんな幸せな日々を重ね、わたしの身体の端々がようやく女の子であることを自覚し始めたある日、わたしはメトシェラの外見がここ数年ちっとも変化していないことに気づいた。
もともとわたしより何歳か上だったのに、いつの間にか外見年齢の差はほとんど無くなっていた。メトシェラは人間で言えば十代半ばくらいの見た目に達すると、それより成長することも、老いることもなかった。
その理由を何気なく尋ね、わたしは初めて精霊界フェアリエンという世界のシステムを知った。
フェアリエンには、女王タイタニアに仕える三諸侯と呼ばれる守護者が存在する。
全ての病を遠ざける障皇シックネス、全ての老いを遠ざける老帝エイジング、全ての怪我を遠ざける傷王インジュアリー。その偉大なる三妖精の加護によって、フェアリエンの妖精たちは病むことも老いることも怪我することもなく、永遠の幸福を謳歌するのだ。
だが、人間であるわたしたちはその恩恵を受けることは無い。
その話を聞いた時、私は羨ましいと思った。
そして同時に寂しいとも思った。
わたしはやがて老いておばあちゃんになり、そしていつか死んでしまう。あるいはそれより前に病や怪我で死んでしまうのかもしれない。永遠に生き続けるメトシェラの前から、わたしは居なくなってしまうのだ。
当時のわたしはまだ、生きるとか死ぬとかいうことをきちんと理解していなかった。ただ、自分が居なくなってしまうということがとても怖いことに感じられた。
「どうしたんだい。聞かせてごらん、螢」
わんわん泣きだしたわたしに向かって、兄さんは穏やかな声でそう言った。
泣きじゃくる私を、メトシェラと二人で慰めてくれた。わたしの話を聞いてくれ、泣き止むまでずっと手を握っていてくれた。
それから、わたしたちは三人で約束をした。
『いつか離れ離れになるとしても、それはまだまだ先の話。それまで三人ずっと一緒にいよう――』
それが、わたしがまだ希望を信じ、幸福に暮らしていたころのこと。
――そして、それから半年も経たずに約束は無残に破られてしまった。
妖精たちが独占している三諸侯の恩寵を、人間の手に。そんな野心に突き動かされた人々が結託して、三諸侯の一人である老帝エイジングの城を攻撃したのだ。
当然、妖精たちはそれを許さなかった。
一部の人間の暴走から始まった戦いは多くの人間と妖精を巻き込み、あっという間にフェアリエン全土に広がり、やがてわたしの暮らす集落も否応無しにその渦に飲まれた。
わたしはその日何が起こったのか、はっきりとは憶えていない。
ただ、絶対に忘れられないある光景だけは、鮮明に脳裏に焼き付いている。
それは焼け落ちていく集落の片隅で、わたしを庇うように立ちはだかった兄さんが、銀色の剣で胸を貫かれているというもの。そしてその剣を手にしているのは、何故か人間と同じ大きさの身体になった、わたしの大切な親友――メトシェラ。
大切な人の手で大切な人が命を奪われ、わたしはそれを恐怖とともに眺めていた。
一体どうしてそんなことになってしまったのか、わたしがそれからどうなったのかはわからない。次に意識を取り戻した時、わたしは森を彷徨っていた。
意識があってもなくてもやることは変わらない。行く当ても目的も無い。ただ死を待つように、飲まず食わずで歩き続けた。
胸を一突きにされた兄さんはもう生きてはいないだろう。メトシェラは生きているかもしれないが、会いたいとは思わない。三人ずっと一緒にいよう。そんな夢は最悪の形で踏みにじられ、悪夢へと変わった。
そしてその悪夢を招いたのは、過ぎたる幸福を手にしようとした人間たちの希望だ。
わたしは夢や希望というものを激しく憎むようになっていた。そんなものに縋って生きるくらいなら、このまま死んでしまえばいいと思った。やがて歩く体力も尽き、わたしは地面に伏して最期の時を待った。
これで悪夢が終わる。希望を捨てることができる。そう思った時、わたしの前に黒いローブを纏ったしわがれ声の女――シスター・キャンサーが現れた。
「我思う。汝は生きるべきだ」
今思えば何の気まぐれだったのか、そう呟いたキャンサーはわたしを介抱し、司祭イルネス様のもとへ連れて行った。
そしてわたしは黒沢螢であることをやめ、シスター・ダイアとなった。
死にそびれてしまった命は、夢や希望に傷つけられる人々を守るため、絶望によって人々を救うために使う。それがわたし――シスター・ダイアの宿命。
だから、だからわたしは揺らいではいけな――
「ったく、探したぞ。こんなとこにいたのか、螢」
過去の世界に浸っていたわたしの意識は、背後から響いた声によって呼び戻された。
その時、ひときわ大きな波が私の足元の岩壁にぶつかって、バシャッという音を立てて砕け散った。さらけ出した肌に、水着に、頬に、髪に、目元に、細かい飛沫が降り注ぐ。その冷たさによって、意識が完全に現実に引き戻されてしまう。
同時にわたしは、心の中に積み上げ直していた決意が再び大きく揺らぐのを自覚した。自覚せざるを得なかった。
「……何をしに来たの」
わたしは振り向かずに尋ねた。両太郎の顔を見たら、心の揺らぎが大きくなってしまうと思った。
そう。わたしはフェアリズムたちや両太郎と戦いたくないと思い始めてしまっている。
しかしそれは叶わない。
あの日失うはずだった命に自ら課した、新たな役割。わたしが生きる意味。
それを果たす上で、フェアリズムとの戦いは避けて通れない。
フェアリズムとの戦いをやめるということは、わたしの使命を捨ててしまうということだ。
大好きだった兄さんは、同じくらい大好きだった親友の手で命を落とした。
父さんも母さんも、近所のおじさんおばさんたちも、きっとみんな死んでしまった。
もうわたしには何もない。
何もないわたしが、最後に残った命の意味まで捨ててしまったら、その先に何があるというのか。
「頭を冷やしたいと言ったはずよ。あなたの話を聞くつもりはないわ」
何も答えない両太郎に、こちらから拒絶の意を示す。早くどこかに行って欲しい。これ以上わたしを揺らがせないで欲しい。
だが、
「ああ、それでいいよ」
両太郎は穏やかな声でそう言った。昔のことを思い出していたせいで、それが一瞬まるで兄さんに言われたかのような錯覚に陥る。
慌てて首を振り、自分の中に浮かんだその感覚をかき消す。
「どういうこと? どうせわたしを連れ戻すために、何かつまらない弁解をしに来たのでしょう?」
「いいや、俺の話はどうだっていい。俺はお前の話を聞きに来たんだ」
「え?」
「お前の過去に何があったのか。どうしてお前はフェアリズムたちと――俺と戦おうとしているのか」
「なっ――!」
意表を突いた両太郎の言葉に、つい振り返ってしまった。
ふざけたことを言って。冗談半分でわたしの記憶に土足で踏み込もうというなら、絶対に許さない。そう思った。
でも、目に飛び込んできた両太郎の表情には、ふざけた様子なんて欠片もなかった。ただ穏やかに微笑を浮かべ、わたしの目をジッと見ている。
その目を直視できず、わたしは思わず視線を逸らしてしまった。
「俺はできれば螢と戦いたくない。今までもそう思ってたし、今日お前が普通の女の子みたいに笑うのを見て余計にそう思った。でもお前は、俺が思ってたよりずっと強い覚悟で戦いを決意してた。今もその決意を再確認しようとしてる。なのにそれを、何も知らずにただ『戦いたくない』という言葉で否定するのはお前に失礼だ。だから――」
「……わたしの戦う理由を話せと?」
「ああ。かつてお前に何があったのか――聞かせてくれ、螢」
――『どうしたんだい。聞かせてごらん、螢』
両太郎の言葉は、またもあの日の兄さんの言葉と重なり、わたしの心を揺さぶる。
そうだ。フェアフィオーレと支え合いながら戦う姿を見るうち、わたしは無意識のうちこの男を兄さんと重ねていたのだ。
馬鹿げている。この男は兄さんじゃない。顔も違う。声も違う。背の高さも違う。まるっきり違う。
そうやって頭で否定を重ねてみても、心の揺らぎはちっとも治まらない。
理由は分かっている。
『俺にもわかる。全部じゃないかもしれないけど』
『螢は優しいな』
『お前って、甘いものが好きなのか?』
『こういう風にしてる螢もいいなって思っただけだよ』
次々と両太郎の言葉が脳裏に浮かんでくる。
今思えば、黒沢螢の姿で初めて会ったあの時からそうだった。外見なんてまるで似ていないのに――時折この男がわたしに向けるいたわるような眼差しだけが、兄さんとそっくりなのだ。




