第六話 桃と螢と両太郎 2 -Sister and Sys-Ter 2-
七月二十二日、木曜。一学期の終業式を翌日に控えたその日、俺はいつものように中等部の生徒会室を訪れていた。
桃と光は部活、優は花壇の水やりで不在。パックとアリエルの妖精コンビは、テーブルの上に置かれたクッションに体を沈めて、微かな寝息を立てている。二日前にタイタニアから授かったエレメントストーンの探知能力は、子供の妖精である二人にとって非常に体力を要するものらしい。ついさっきまで二人でしかめっ面をしてストーンの気配を探っていたので、今は疲れ果てて休憩中なのだ。
そんなわけでこの生徒会室で起きているのは、俺と渚と麻美の三人だけだ。
なんだか随分と静かだな、なんて少し寂しさを感じている自分に気付き、思わず苦笑してしまう。思えばこの三人の組み合わせで生徒会室にいるのは、六月の終わり――渚がフアンダーになってしまっていた時以来ではないだろうか。それからまだ一ヶ月も経っていない。たったそれだけの期間のうちに、俺の中で彼女たちは五人一緒にいることが当たり前のことになってしまっていたらしい。
まあ、実際毎日のように五人で生徒会室で顔を合わせているし、更に隔日で生天目道場で一緒に稽古もしている。期間が短いとはいえ、一日一日かなり密度の高い付き合いをしているのは確かだ。
「……にーさま、何ニヤニヤしてるの」
慌ただしくも充実した一ヶ月間に思いを馳せていると、麻美に呆れ顔をされてしまった。
ニヤニヤしていたつもりはないのだが。まあいいか。実際、俺が今すべきことは思い出を振り返ることじゃない。タイタニアから謎掛けのように言われた、エレメントストーンの力を引き出す鍵。その正体を探らなければならない。
「両太郎さん、こんなところでしょうか?」
部屋の入口脇に置かれたホワイトボードに何かを書き込んでいた渚が、手を止めて振り返った。
ホワイトボードには黒いマーカーで幾つかの単語が書かれ、関連するもの同士が線で結ばれている。
『エレメント――元素』
『本当の力――元素と元素を結ぶ力――世界を繋ぐもの』
それはエレメントストーンの真の力を引き出すためのヒントとして、タイタニアから告げられた言葉だった。頭の中だけで考えてわかったつもりになるよりも、こうやって判明していることを文字や図にして考えたほうがわかりやすい。流石はフェアリズムの参謀・渚。実に手際が良い。
「渚はここから何か思い浮かぶことはあるか?」
俺が尋ねると渚は少し逡巡して、「世界を繋ぐもの」から短い線を引っ張り、今度は青のマーカーで「ファンデルワールス力?」「水素結合?」「万有引力?」と疑問形で書き込んだ。それらはいずれも科学の世界の言葉、物質と物質の間に働く引き合う力だ。渚も科学系が得意だけあって、思い浮かぶものは俺と似たり寄ったりらしい。
「パッと思い浮かぶのはこんなところですが――」
渚は口籠る。
セルフレームの奥の理知的な瞳を半分閉じ、眉間には小さな皺。口はへの字に結んでいる。自分の提示した内容に対して自分でも納得していない、そんな顔だ。
ここ一ヶ月で、俺の中の渚の印象は随分変わった。初対面では怜悧で冷淡、徹底した合理主義者という印象だったが、いざ親しくなってみると負けず嫌いで意地っ張りな一面が時々顔を覗かせるのに気づいた。
思い浮かんだ内容を疑問形で書きだしたのも、「これはまだ自分にとって満足のいく答えではない」というささやかな主張なのだろう。
五人の中で一番大人びた渚がこうやって少し子供っぽい一面を見せてくれるのは、俺に心を許してくれている証のように思えて嬉しい。
年上としては、そんな渚の意地っ張りな部分を大らかに見守らなければなるまい。
「うん、流石は渚だ。俺も大体同じ答えだよ。そして、その答えがいまいちピンと来てないのも渚と一緒――かな?」
「ええ。――タイタニア様の口ぶりからして、もっと精神的といいますか、私たち自身の心構えのようなものに思えてならないんです」
渚の推察に、俺は頷いて同意を示した。
『鍵は既に皆さんの手の中にあります。――その存在に気づき、認め、受け入れた時、エレメントストーンは新たな力を放つでしょう』
タイタニアはそう言ったのだ。気付き、認め、受け入れる――それらは全て心の問題だ。俺は席を立ち、赤いマーカーでホワイトボードに「心」と大きく書き込み、丸で囲った。
だが、それはまだ求めている答えとは程遠い。心という概念は感情や善悪、思考など、様々な範囲に及ぶ哲学的なものだ。あまりに漠然としすぎていて、このままでは手がかりになっていないも同然だ。
そんな俺の内心を察したのか、渚は少し困ったような顔で
「ふふふ、答えに近づいたのか遠ざかったのか、これではわかりませんね」
と、はにかんだ。
「――だな。まるで揺れる恋心だ」
「ぷっ、なんですかその喩え。両太郎さんがそんなロマンティシストだとは知りませんでした」
「これでも元科学者志望だからな。科学者はロマンティシストじゃないと務まらないんだよ」
半分ふざけて、半分本気で返す。すると渚はやや呆然となって、「……そうですね」と頷き、目を逸らす。どうやら俺が、死んだ父さん――識名両信のことを言っていると思ったらしい。渚は父さんのことを尊敬していて、その跡を継いで科学者になるという夢を捨ててしまった俺を、激しく糾弾したことがある。その時のことを思い出してバツが悪くなったのかもしれない。
俺自身は渚にああ言われて良かったと思ってるんだけどな。
「……………………」
「……………………」
会話が途切れた。俺も渚も頭の引き出しはもう空っぽだ。考えても考えても、『世界を繋ぐもの』の手がかりはさっぱり掴めない。
麻美は相変わらず何を考えているかわからない目で俺たちの方をじいっと見つめているだけで、会話に加わろうとはしない。停滞した、どことなく気まずい空気が生徒会室の中を満たしていく。
と、その時。部屋のドアがコンコンと軽く小突くようにノックされた。叩き方からして光や優ではない。となると桃か?
「開いてるぞー」
と俺が答えたか否かのタイミングで、ノックの主は遠慮なくドアを開けた。
『――え?』
渚と同時に、驚きの声を漏らしてしまう。
「おじゃましまーす。あ、やっぱり両太郎くん、ここにいたんだね」
そんな言葉とともにドアから現れたのは、桃ではなかった。
幼さの残る顔立ち、低い身長と起伏に乏しい細身の体躯。外見は中学生女子と大差ない――というか、渚のほうが大人びて見えるくらいだ。しかし彼女は中学生ではない。それどころか生徒でもない。
「エミちゃん……なんでここに?」
そう、俺のクラスの担任。朝陽学園高等部教師・香月絵美教諭だった。
「えー、両太郎くんがそれ訊いちゃう? 高等部の人間なのはお互い様でしょーに」
からからと笑いながら、エミちゃんは容赦なく部屋の中に踏み込んでくる。
マズい、ホワイトボード! っていうかそれより、机の上で寝てるパックとアリエル――っ!
色々見られてはマズいものの存在に気づき、慌ててパックたちのすぐ近くに座っている麻美にアイコンタクトを送る。が、麻美はチラとエミちゃんを横目で伺い、それからそっと首を横に振った。「慌てて隠せば怪しまれる、気づかれる前に部屋から追い出せ」といったところか。
くそ、確かにその通りだ。やるしかない。
「えっと、高等部の香月先生――でしたよね? 確か以前、化学部に顔を出していただきました」
先に動いたのは渚だった。
「あ、うん。両太郎くんの担任の香月絵美です。よろしくね、水樹さん」
「よろしくお願いします。――って、私のことをご存知なのですか? お話させていただいたことはありませんでしたが……」
「あはは、そりゃねー。クラスの子たちが噂してるから。毎日放課後になると、中等部から可愛い女の子たちがとっかえひっかえ両太郎くんを迎えに来る、そのうちの一人は中等部の生徒会長らしい……って。そんな話を聞いちゃったら、私としては調査しないわけにいかないでしょ? それで様子を窺いに来た次第」
「そ、それは……お騒がせして申し訳ありません」
渚は「可愛い女の子」に反応して少し頬を赤らめながら、萎縮したように項垂れる。高等部校舎に出入りしていることをエミちゃんが問題視していると思ったのだろう。
だが、俺はエミちゃんがそんな堅物じゃないことを知っている。いや、この香月絵美という珍獣教師の面倒臭さは、むしろ堅物なんかよりずっと悪質なのだ。
「大丈夫だ、渚。エミちゃ――香月先生はお前を責めてるわけじゃない。っていうか俺のことを咎めようっていうわけでもないよな。大方、『面白そうだから覗きに行ってやれ』ってとこだろ。違うか?」
「あはは、ご名答。担任としてじゃなく、私個人として気になったから。最近両太郎くんが明るいのは、一体どんな子たちのおかげなんだろう。両太郎くんは中等部生徒会室で一体何をしてるんだろう。それから――」
「それから?」
「両太郎くんは五人の中で誰が好みなのかなーって」
「ぶっ!」
ニタリといやらしい笑みを浮かべて、いきなりとんでもないことを言い出すエミちゃん。おいおい、教師の言うことじゃないだろソレ。俺は高校生で、フェアリズムの五人は中学生、三歳も歳が離れてるんだぞ。お互いに成人してしまえば些細な年齢差かもしれないが、この年頃にとっては大きな差なんだ。
っていうか、やっぱりこの人は梶と思考回路がそっくりだ。
「エミちゃん、あのなあ――」
「ね、他の三人は今日は来ないの? 桃ちゃんとも久しぶりに話したかったんだけど」
「桃と光は部活、優は花壇の水やりだよ。ほら、冷やかしなら日を改めて――」
「だったら、両太郎くんたちは何をしてたの? どれどれ……」
俺の放った露骨な追い出しムードも意に介さず、エミちゃんはずかずかと俺たちを押しのけてホワイトボードの前に立つ。くそ、どれだけフリーダムなんだこの人は!
俺は自分の心臓の鼓動が速まるのを感じながら、懸命にそれを抑えようとした。ホワイトボードにはフェアリズムがどうとか、決定的なことは何も書いてない。落ち着いていれば大丈夫だ。
「ふうん……」
エミちゃんは口許に手をあて、真剣な目でホワイトボードの文字を追う。それから、どういうわけか俺と渚の顔を交互に覗き込んできた。見透かすようなその視線に、再び心臓がけたたましく脈打つ。
「な、なんだよエミちゃん」
「もしかして君たち、この《世界を繋ぐもの》が何なのかを議論していたの?」
「そうだけど……」
「どうして?」
「え? どうしてって……」
エミちゃんは真剣な顔で俺たちの答えを待っている。一体何がそんなに彼女の琴線に触れたというのか。こういう顔をしている時のエミちゃんは妙に鋭い。本当のことを言うわけにはいかないが、完全なでまかせで誤魔化し通すのも難しい。フェアリズムや《組織》のことを伏せつつ、説明するしかないだろう。
「ある人に言われたんだよ。中等部生徒会役員の五人にとって、必要なものなんだって」
「でも、それが何なのかわからない?」
「――ああ」
「ふうん……」
エミちゃんは俺の手からマーカーをひったくると、さっき俺が書いた『心』という字をもう一重の円で囲った。
「惜しいところまでは来てるんだけどねぇ?」
「え?」
「ま、こればっかりは両太郎くんが両太郎くんだからねー。中等部のみんなには同情しちゃうかな」
エミちゃんは挑発するような目を俺に向けてきた。ちょっと待てよ、それってどういうことなんだ。
「まさかエミちゃん、《世界を繋ぐもの》が何なのか知ってるのか?」
「うん」
エミちゃんは何食わぬ顔で平然と答えて、
「本当はみんなも知ってるんじゃないかな。ただ、知ってるってことに気づいていないか――」
と、タイタニアと似たようなことを言う。
「もしくは、気づいても認めようとしてないか。ね、金元さん?」
「…………」
突然思わせぶりな話を振られた麻美は、無言のままジッとエミちゃんを見つめ返した。いつも真意の読みにくい麻美の瞳には、今は明らかに困惑の色が見える。麻美にはエミちゃんの言葉の意味が理解できたのだろうか。
だが今はそんな問答よりも、《世界を繋ぐもの》のことだ。
「エミちゃん、頼む。《世界を繋ぐもの》が何なのかわかるんだったら教えてくれ」
「それは駄目」
「――っ! 真面目な話なんだ! 俺たちにはどうしてもそれが必要なんだ、頼む!」
思わず声を荒らげてしまう。
エミちゃんはフェアリズムや《組織》のことを知らない。だから俺たちが《世界を繋ぐもの》を真剣に求めているということもわかっていない。そう思った。
だが、
「知識として教えることはもちろん簡単だよ。でも、それじゃきっと意味が無いことだから」
エミちゃんは真剣な顔でそう言った。またタイタニアの言葉と妙に一致する。エミちゃんが《世界を繋ぐもの》がなんなのか知っているというのは本当らしい。そして、それを俺たちに教えられないというのも、別にふざけたり意地悪で言っているのではないらしかった。
良くも悪くも友達目線で生徒にユルく接するエミちゃんだが、こうやって真面目な表情をしている時は普段のユルさは欠片も存在しない。大人として、教師として、絶対に譲れない何かがある。そんな時に覗かせる顔なのだ。
しかし俺だって――俺たちだって引き下がれない。
戦士として、この世界を守る者として、俺たちにだって絶対に譲れないものがある。
エミちゃんの射抜くような目を、渚と二人で精一杯睨み返す。
すると、
「でも、そうだなー」
エミちゃんはフッと表情を緩め、小首を傾げる。
「答えに近づくお手伝い――くらいなら、できるかな?」
「本当か!」
「本当ですか!」
エミちゃんの見せた譲歩に、思わず興奮して詰め寄ってしまう。
俺と渚に両腕をがっちり掴まれたエミちゃんは少したじろぎながら、
「そのかわり、まずは色々と事情を聞かせてくれる? そこの机の上で寝てる妖精さんのこととか、ね」
有無を言わさぬ笑顔でそう言った。
-†-
と、まあそんなわけで。これまでの事情を洗いざらい吐かされてしまったのが数日前のこと。
その結果、エミちゃんの提案によってこの強化合宿が計画されたのだった。
俺もフェアリズムたちも初めは戸惑っていたが、麻美が別荘の提供を申し出たのをきっかけに流れが変わった。まず食いついたのは光と優。渚が折れ、桃が流され、俺が渋々了承し。あれよあれよという間に話が進んで今日に至る。
梶を誘ったのもエミちゃんだ。梶は最初は頑なに拒否していたが、俺の知らないところでエミちゃんと何かやりとりがあったらしく、最終的に参加を決めた。そんな経緯の割に、今はビーチで女子中学生たちと元気にはしゃいでいる。潔いというかなんというか……。エミちゃんは何を思ってあの変態を連れてきたのだろうか。
そして最後の参加者は、俺が現在進行形で行方を追っている黒沢螢ことシスター・ダイア。いや、シスター・ダイアこと黒沢螢なのか? まあどっちでもいいか。その螢を連れてきたのは桃だった。螢はいつの間にか桃・光・麻美と同じクラスに正式に籍を持っていた。本格的に登校し始めるのは二学期からだが、クラスへの顔合わせは一学期のうちに済ませたという。
行きの車の中で、桃は螢にやたらとべったり張り付いていた。フェアリズムの仲間に引き込むのを諦めていないというのも当然あるが、それだけではなく何かシンパシーのようなものを螢に対して感じているらしい。
そういった理由を差っ引いても、引っ込み思案な桃が知り合って間もない相手に積極的に関わろうとするのは、俺からすればかなり意外なことだった。フェアリズムになり、仲間を得て、少しずつ桃も変わり始めているのかもしれない。
螢は、俺に対してはいかにも嫌々連れて来られたという態度を崩さなかった。その一方で、桃たちに対してそれほど強く抵抗しているわけでもなかった。もし螢が本気で参加を拒んでいたら、桃だって無理強いはしなかっただろう。
螢自身、心のどこかでフェアリズムたちを認めつつあるのではないだろうか。少なくとも俺にはそう見えた。
――だからこそ、俺は口を滑らせてしまったのだ。
『こんな風に馴れ合うのは、わたしの柄ではない』
さっき、螢はそう言った。
それは絶望で世界を救おうとする螢にとって、友人など不要という意味だろうか。あるいは単純にシスターとフェアリズムは相容れない存在だという意味かもしれない。いずれにせよ、螢は自分が俺たちにとって敵だということを改めて宣言したことになる。
それはつまり、そんな宣言をしなければならない程に、螢の心が揺れ動いていた証ではないだろうか。
おかしな話ではない。フェアリズムと螢は、同じ人間を救いたいという気持ちを持っていて、その手段が真逆なだけなのだから。
そうだ。エミちゃんの言う通りだ。
螢は俺の言葉に怒ったんじゃない。戸惑ったのだ。
螢の考え方は昔の俺に似ている。何もかもに絶望し、希望を恐れていた六年前の俺に。
俺は一人で閉じこもっていたけれど、螢は違う。自分のように傷ついてしまう人を減らすため、懸命に戦おうとしている。ただ、その戦いの方向性が徹底的に歪んでしまっているのだ。
きっと螢は今、自分の決意を再確認している。人間界を救うために絶望をもたらすという意志を、より強固なものにしようとしている。
それは嫌だ。
俺とよく似た螢。俺なんかより強く優しい螢。
このまま放っておくわけにいかない。
俺が心を閉ざしていた時、いつも通りバカなノリで接してくれた梶のように。
見守ってくれたエミちゃんのように。
受け入れてくれた花澤の父さんと母さんのように。
――そして、ただ寄り添ってくれた桃のように。
螢の絶望を晴らすため、俺のできる限りを尽くそう。
そんな誓いを胸に刻んでいる間に、いつの間にか俺は砂浜の切れ目に到達していた。
目の前には波飛沫の舞う岩場。そして、その先端の崖になったところに佇む、長い黒髪の少女の姿があった。




