第二話 花澤両太郎 -doubly blessed-
夏本番を迎えた教室の中は、茹だるような熱気に包まれている。
気温による要因ももちろんなのだが、それ以上に夏休みを間近に控えたクラスメイトたちが放つ、どこか浮ついた気忙しさによるものが大きい。最も暑苦しい存在であろう運動部員たちが足早に教室を去ったというのに、まだまだ教室の中にはエネルギーが有り余っているらしい。
俺は窓際の一番後ろという恵まれた位置にある自席で、そんな教室の様子をボーっと眺めていた。
「いやー、若いモンは元気ですねー」
活気に溢れる空気など当方には関係ございません、とでも言いたげに呟いたのは我が親友・梶藤也。腐れ変態野郎でありながら、浪人とも留年とも無縁の成績優良児という肩書きも併せ持つ梶は、当然ながらその「若いモン」たちと同い年である。
本来の梶の席は教壇の真正面なのだが、今は俺の一つ前、既にグラウンドで白球を追いかけているであろう福山の席を占領している。
「世間様が夏だ夏だって浮かれてる中、僕たちアンニュイ組はダラダラと無為な日々を過ごす。……って思ってたんだけどね」
ニヤニヤとヘラヘラの中間くらいの軽薄な笑みを浮かべながら梶が言う。
早朝に桃と一緒にロードワークしたことを報告した結果が、このいやらしい笑いなのだ。っていうか誰がアンニュイ組だ、そんなものを結成した覚えは無いぞ。
「あの引っ込み思案な桃が自分からやる気を出してるんだ、後押しくらいするさ」
「へえ。奇遇だね」
「んあ?」
「僕も『あのリョウが何かを頑張る気になったんだ』って感慨にふけってるとこさ」
「くっ……」
何も言い返せない。
確かに俺はもう何年も、「何かを頑張るなんて虚しい、意味が無い」って態度をとってきた。正直今でも「努力しよう」なんて気持ちはさらさら無い。ただ、やらなきゃならないことをやろうと思い始めただけ、やらない理由を並べることをやめただけなのだ。
「ま、からかってるわけじゃないよ。前にも言ったけど、僕はリョウが一生懸命になってるとこを見るのは嫌いじゃないからねー」
「梶……」
そう。この梶という男は、呆れた変態であり、癪に障る優等生であり、そしてすこぶる“いいヤツ”なのだ。何の縁か小学校でずっと同じクラスだったこいつは、勉強でもスポーツでもずっと俺のライバルだった。そして俺が父の事故で心を閉ざしてしまった後は、黙ってずっとそばに居てくれた。
ひょっとすると、朝陽に進学したのも俺のことを案じてだったのではないかと思える節がある。朝陽もそれなりの進学校で決して学力レベルが低いわけではないが、梶の頭ならばもっと上の環境も狙えたはずなのだ。
もっとも、そんなことをストレートに問いかけたところで、「いやー、朝陽は家から近いからねー」などと誤魔化されるのは目に見えているのだが。
「それにしても、桃ちゃんが一歩リードかー」
「ん? 何がだ?」
「何ってそりゃ勿論、六人の女子中学生による花澤両太郎争奪戦だよ。いやー、やっぱり一緒に住んでるってのは相当なアドバンテージだね」
「……あのなぁ」
せっかく内心で褒めちぎったり感謝したりしてやったというのに、自らそれを台無しにするヤツだ。どうしてこいつの発想は毎度毎度こう残念なのか。
「一緒に住む桃ちゃん、同じ趣味を持つ優ちゃん、秘密を共有する螢ちゃん、この辺が今の有望株だよねー。あ、でも個人的には光ちゃんは相当脈ありだと思うよ。いやー、羨ましいね」
「俺はお前のそのお気楽さが羨ましいわ……」
本当に呆れたヤツだ。俺とあの子たちは共に戦う仲間であって、そういう恋愛だのなんだのとは無縁だ。っていうか、例によってフェアリズムの五人だけじゃなく螢――シスター・ダイアまでカウントしてるのかよ。
「そりゃー、リョウが深刻な顔してる時は、僕が気楽に構えててやらないとねー」
「そりゃどうも。いつも辛気くさい顔で面倒をかけるな」
「そいつは言わない約束でしょ、おっかさん」
「誰がおっかさんだ」
まったく、こいつと話していると確かに深刻に考えてるのがバカバカしく思えてくる。
そのくせ、真剣にならなきゃいけないポイントだけは絶対に外さないヤツだから腹立たしい。
「でもリョウ、螢ちゃんとは一度しっかり話しておきなよ」
――ほら、な。こういう奴だ。
だから本当に腹立たしいことに、俺はこいつに全幅の信頼を置かざるを得ないのだ。
「わかってるさ。まあ、あっちがそもそも近寄ってきてくれないかもしれないけどな」
黒沢螢――シスター・ダイアはそもそも、シスター・ポプレの動向を見張るために朝陽学園に潜入してきていたのだ。フェアリズムがポプレを撃退し、さらにダイア自身は陰陽の闇のエレメントストーンを手に入れた今、彼女が俺達の前に「黒沢螢」として姿を現す必要は薄い。
「そうだねー。そればっかりはリョウのハーレムパワーに期待するしかないかな」
「そんないかがわしいパワーは持ち合わせてない」
「いやー、そう言われましても。この状況じゃ説得力無いでしょー」
「ん?」
梶に促されるままに、教室の後ろの入り口に視線を送る。するとそこには、中等部の制服を着た二人の少女の姿があった。
一人は制服を着崩し、明るい色の髪をツーサイドアップにまとめた、少しギャルっぽい雰囲気の勝ち気な瞳の少女。もう一人はその後ろに隠れるようにして、おずおずとこちらを見ている内気そうな少女。
「やっほー両兄、迎えに来たよー!」
「光ちゃん、声大きいよ……」
赤﨑光は教室全体に聞こえるほどの声量で俺を呼び、ずかずかと教室に踏み込んでくる。まったく物怖じしないヤツだ。もう一人――桃は、教室中の注目を浴びてしまって顔を赤らめながら、その後ろをおっかなびっくりついて来る。
「おっ、今日は桃ちゃんと光ちゃん二人で来たんだ?」
「ほら、花澤くん急がなきゃ。女の子待たせちゃダメでしょ」
クラスの面々からそんな様々な声が上がる。放課後になる度に中等部生徒会役員の面々が交代で迎えに来るので、最初は怪訝な顔をしていたクラスメイトたちも今ではすっかり状況に馴染んでしまったようだ。いつの間にか桃たちの名前まで浸透してるし。
「それじゃ花澤くん、また明日ねー」
「あ、ああ。おつかれ」
梶に別れを告げて教室から出る間際、いつもみんなを俺に取り次いでくれる快活そうな女子――確か佐倉さんだった――に挨拶された。慌てて少しぞんざいな返事になってしまったが、佐倉さんは意に介した様子もなくニコニコ笑っていた。
よく考えてみると、みんなが迎えに来てくれるようになった頃から随分クラスメイトと会話する機会が増えた気がする。こちらから話しかけることは殆ど無いのだが、話しかけられる回数が以前と比べ物にならない。かつての俺はそんなに話しかけにくかったのだろうか。
しかし俺、クラスで一体どう思われてるんだろうな。俺が中等部生徒会室で何をしてるかまではみんな知らないはずだけど……。
「ちょっとちょっと、あたしたちというものがありながら何ジョシコーセーにデレデレしちゃってるの両兄?」
並んで廊下を歩いていると、光が頬を膨らませて左腕に纏わりついてきた。肘の辺りを挟み込んでくる柔らかい感触に、サーッと背筋が凍りつく。
「デレデレなんてしてない――っていうか待て、ちょっと流石にこれはマズい。少しは人目を憚ってくれ」
慌てて光を引き剥がす。こんなところを誰かに見られたらどんな噂を流されるかわかったもんじゃない。それどころか教員に見つかればお咎めを受ける可能性すらある。
「ふーん、人目の無いところならいいんだ? 本気にしちゃうよ?」
「そういうことじゃなくてだな……」
「ふふ、冗談だよ。あたし桃に殴られたくないし」
狼狽えてしまう俺をさらにからかうかのように、光は悪戯っぽく笑う。
――ったく。フェアリズムの五人は見事なほど性格がバラバラで、コミュニケーションの方向性や距離感もそれぞれ異なる。そしてその中で光は、一番際どいスキンシップを仕掛けてくるので困っている。
嫌だ、と言えば嘘になる。五人の中では桃を除けば一番付き合いが長いのが光だ。懐っこく接される分には正直言って悪い気はしない。ただそれ以上に、あまりに物理的に密着されてしまうと倫理観とか道徳観とかいうものが緊急信号を鳴らさざるを得ないのだ。
それにしても、「桃に殴られる」ってなんだろう?
「ちょ、ちょっと光ちゃん! わたし、殴ったりなんかしないよ……」
俺にはよくわからなかったが、桃にはちゃんと意味が伝わったらしい。顔を真っ赤にしながら首を振ってる。
「それに……わたしが殴ろうとしても光ちゃんに当たらないもん」
少し落ち込んだ様子で付け加える桃。
優の家が営んでいる生天目道場に俺やフェアリズムの面々が通い始めてそろそろ三週間。未だに桃は組手で光から一本を取れたことがないのだ。まあ、俺もまだ光には負け越してるんだけどさ。
「どうだかなー。桃も凄く動きが良くなってきたからねえ。それに――最近結構筋肉ついてきたよね!」
「きゃ! ちょ、やめ、どこ触ってるの!」
怪しい手つきで桃の脇腹に襲いかかる光。酷いセクハラ行為が目の前で繰り広げられ始めた。
とはいえ女の子同士がじゃれついているだけなので、さっきまでより倫理的な問題は少ない。
万一にも矛先が俺に向いたら、その途端に再び事案発生なのだ。ここは桃を生贄に捧げて身の安全を確保せざるを得ない。
「んふふふ、この腹斜筋の具合はなかなかに……」
「もう! お兄ちゃん、見てないで助けてよお!」
「すまない桃、俺のために犠牲になってくれ」
「酷っ……って、そこダメ! 光ちゃん、やめ――っ!」
大丈夫。少々目の毒な程度だ、問題ない。
-†-
そんなこんなで桃と光に連れられて、今日も中等部の生徒会室に到着した。
ちなみに光の蛮行は高等部校舎を出た辺りで、マジギレした桃の鉄拳制裁によって無事に終結した。ついでに言うと俺も光を止めなかった罪によって、涙目の桃から怒りの拳骨の刑を受けた。まだジンジン痛む頭頂部が、桃の運動能力の向上を如実に物語っている。
それにしても、途中ですれ違った中等部の生徒には「あ、どうも」くらいの軽いノリで挨拶されてしまった。どうも桃たちが俺の教室ですっかり認知されたのと同じように、俺も中等部の生徒たちから「なんかよく生徒会の人と一緒にいる高等部生」として覚えられつつあるようだ。今後の活動に支障が出ないか、少し心配ではある。
「戻りました」
「たっだいまー」
桃と光の挨拶に続いて俺も入室。
部屋には既に水樹渚・生天目優・金元麻美、それから妖精パックに妖精アリエルの五人が揃っていた。そこに桃・光、そして俺を加えたこの総勢八人が現在の自軍――すなわちフェアリズムとその協力者だ。
「いらっしゃい、両太郎さん。お待ちしてました」
この部屋の女主人である渚は、来訪をねぎらうかのように柔和に微笑んだ。その女王然とした気品ある態度は、どこか明け方に夢で見たタイタニアの姿を思い出す。
「さ、三人とも座って座って。昨日の反省会だよ」
明るい口調で着席を促してきたのは優だ。
優は性格的に昨日の敗戦を相当悔しがっているだろうに、それをあまり態度に出さない。こういうところは幼少時から武術で肉体とともに精神を鍛えてきた成果なのだろうか。あるいは生来の前向きな気質によるものかもしれない。どちらにしても、優の明るさが他の全員に伝播しているおかげで、雰囲気の改善だとか落ち込んだ空気の払拭だとかに労力を割く必要がないのは非常にありがたい。
「そうですね。でもまずはその前にお茶にしましょう。外は暑かったでしょうから。麻美――って、あら」
渚が気を利かせてお茶の準備を言いつけようとしたそれより先に、既に麻美は席を立ってお盆に人数分のグラスを並べているところだった。麻美は都心に豪邸を構える資産家の令嬢ながら、給仕や料理、園芸といった分野に対する造詣が深く、スキルも相当に高い。どちらかといえばメイドさんを雇う側の立場なのに、ハイスペック万能メイドみたいな子なのだ。まあ、時々ちょっと乱暴なのが玉に瑕だけど。
その後、麻美が用意してくれたアイスティーで喉を潤しながら、俺達は昨日の敗戦について忌憚ない意見を交わした。
しかし、どうしても辿り着くのは絶対的な戦力不足という一点。それは三週間前――渚の精神の地平線の中でシスター・アセロスとシスター・アンという二人のシスターと戦った後、全員で出したものと全く同じ結論だった。
それからの三週間、フェアリズムの五人は強くなるための努力を惜しまなかった。それこそ五人は日常生活に支障をきたすレベルの過酷なトレーニングすら望んだが、それはリーダー権限で俺が止めた。中学二年生として過ごす当たり前の日常――勉強、部活、生徒会活動。それらを犠牲にすべきではないというのが俺の方針だ。
とはいえ日常の合間合間に差し挟んだトレーニングは決して温いものではない。俺も五人と同じかそれ以上のメニューをこなしたが、最初の数日は猛烈な筋肉痛に苛まされながら過ごす羽目になった。それが最近はようやく、基礎トレーニングで培った身体能力や、武術で培った身体感覚がはっきり目に見えてきて、成果を実感できるようになっていた。
そんな矢先の惨敗だったのだ。
「ぼくたち、強くなってるのは間違いない――んだけどね」
「それだけでは足りない、ということでしょうか」
「……けど」
「あたしたちには、その足りない何かが分からない」
「今と同じことを単純に『もっと頑張る』じゃ、きっとダメなんだよね……」
五人は口々に現状認識を呟き、室内は沈んだ空気に包まれる。
三週間前と全く変わらない課題が立ちはだかっている。努力を重ねてきたからこそ、その事実が五人にもたらすショックは大きい。
――かと思いきや。
「で、でも! 今やってることも成果は出てるよね。わたし、前よりずっと動けたし……」
「そうですね、無駄ではないことは確かです」
「うん、ぼくも今のトレーニング自体は続けるつもり。何が足りないかはわからないけど、トレーニングが足しになってることははっきりわかるから」
「優に賛成、いいこと言うじゃん! それじゃ、あたしたちにわからない『何が足りないか』の方は……」
「……にーさまの、出番」
室内の全員が一斉に俺の方を向く。十の瞳から注がれる期待の視線。そして残る四つの小さな瞳からは「どうせお前には期待してないけどね」という疑念と侮蔑の視線。まったく生意気な妖精どもめ。
「そうだな。まず俺達がこれから達成していかなければならない要件を定義しよう」
俺がそう言って咳払いをすると、フェアリズムの五人は表情に真剣味が増す。
「まず一つ目はみんなの言う通り、未変身状態での運動能力を高めること。これは今やってるトレーニングメニューをそのままこなしていこう。いいな?」
五人から一斉に「はい!」と威勢の良い返事。なんかリーダーっていうか部活の監督みたいだな。
「次に二つ目。キャンサーの持つ、五大の空のエレメントストーンの攻略法を見つけること。エレメントストーンがどういう存在かということを考えれば、一つだけ異常に強いものがあるってことは考えられない。ルーチェの能力がアセロスに、ステラの能力がアンに対して相性が良かったように、必ずキャンサーとも有利に戦う方法があるはずだ。これは俺の仕事ではあるんだけど、アイディアは少しでも欲しい。だからみんなも、もし何か気になったり思いついたりしたらどんどん言ってくれ」
今度は渚と優だけが強く首肯。桃と麻美はジッと俺の方を見たままで、光は気まずそうに視線を逸らした。
まあ、うん。光はそういう小難しいの苦手そうだもんな。
「そして最後に三つ目。先に言っておくと、みんなのことを責める意図は無いので落ち着いて聞いてほしい」
少し重々しい前置きをすると、ゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
「フェアリズムがエレメントストーンから力を借りているのに対して、シスターは無理やりエレメントストーンの力を従えていると言っていた。そして現状、一対一ではシスターの方がエレメントストーンの力をより強大に振るっている。これが意味するところは何だと思う?」
敢えて結論を言わず、五人に考えさせる。
渚だけは「わかっています」という視線を俺に返してから、他の四人の様子を伺いはじめた。我先にと答えを言ってしまうより、一人一人に考える時間を与えたほうがいいと判断したのだろう。渚は単純に頭がキレるだけじゃなく、きちんと俺の意図を汲もうとしてくれるのでありがたい。
やがて桃が自信なさげに、
「一つ一つのエレメントストーンの力が本当は同じくらいだとしたら――わたしたちは、まだエレメントストーンの力を全部引き出せていない……?」
と呟いた。
「よし、正解だ。もっと自信を持って言っていいんだぞ」
俺が褒めると、桃は「えへへ」と照れたように笑った。そんな桃を光はポカンとした顔で見つめている。さてはコイツ、桃に言われるまで気付かなかったな。
「つまり、三つ目の要件というのは今以上にエレメントストーンの力を引き出せるようになる、ってことだね」
得心がいったという様子の優。そこに渚がすかさず、
「でも、一体どうすれば良いのでしょうか?」
と疑念をぶつけて来る。
その通りだ。達成の筋道が立っていない状態では、単なる願望でしかないのだ。
だがそれに関しては、俺には算段がある。勿論、明け方に女王タイタニア――の虚像から教えられたことだ。
「俺にはわからない。でも、知っているかもしれない人に心当たりがある。……アリエル、《エヴェレットの鏡》を用意してくれ」
俺の言葉に、フェアリズムの五人はキョトンと首を傾げた。一方、俺を馬鹿にするような目で見ていたパックとアリエルは、それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔で絶句する。その表情の意味するところは「どうしてお前がそれを知っているんだ」だろうが、説明すると長くなるので目的だけを端的に告げる。
「――さあ、フェアリエンの女王タイタニア様に連絡を取るぞ」




