第一話 絶望の巨人 -Sickness unto Death-
俺は不思議な空間を彷徨っていた。
何故だかわからないが一糸纏わず、生まれたままの姿で。
だが、そんなことは些細な問題だ。何しろ全裸で歩き回ったところで、この空間にはそれを見咎めるものなど誰も居ない――いや、そもそもこの空間には何も無いのだから。
空も地面も、果てしなく広がる視界の先も、どこまでも白、白、白。真っ白な世界。
しかしその白さからは、明るさや清潔感といったものが感じられなかった。それどころか、恐怖すら掻き立てられる。
地面すらも実在感が希薄で、どれだけ力強く踏み出してみても足音一つ響かない。
見渡す限り何も存在せず、地と空の境界が線を描くことすらない。ただただ白だけが広がっている。俺はなんとなく心のどこかで、「ここは無の世界なんだ」と認識していた。
当て所なく歩き回りながら、なぜ自分がそんな風に思ったのか考えてみた。
我ながら暢気だとは思うが、他にすることも無かったのだ。
何時間彷徨っただろうか。突然ふと思い出した。
何かのマンガで見た、「世界の終わり」のシーンにそっくりだったんだ。
見開き二ページを丸々使った大コマ。枠線はおろか背景すら一切描かれておらず、中央にはただ立ち尽くす主人公の少年の姿だけが小さく描かれている――そんなシーンだ。ネットの感想サイトなんかでは「作者の手抜きだ」「いや、凄い演出なんだ」なんて賛否それぞれの意見があったが、こうして印象に残っているのだから演出として一定の評価はされるべきだな。
そしてそれを思い出すと同時に、この真っ白い世界から恐怖を感じた理由も理解した。
普段生きている世界では、白と黒という二つの色で明るさを認識している。この二色は無彩色と呼ばれる彩度を持たない色の中でも、明暗の両極に位置する。あるいは「白と黒は色じゃない」と主張する人もいる。
いずれにせよ白は極限の明るさであり、黒は極限の暗さだ。何も無い空間は黒であり、そこに光が差すと白くなる。それが俺の認識してきた世界の常識だ。
だが、今この眼前に広がる世界の白さは、その認識よりも一回り外側のものだ。どちらかといえばそれこそ、マンガのコマの白さに近い。
そう。この白は明るさじゃない。黒の対極にある白とは別物だ。ここは、明るいとか暗いとかいう概念すら存在しない世界に違いないのだ。
色彩どころか明暗すら存在しない、失われた世界。あるいは終わってしまった世界。
俺はどうしてそんな世界に迷い込んでしまったのだろう――。
八々木公園でシスター・キャンサーとシスター・ダイアに惨敗した俺たちは、ひとまず帰途についた。ダイアが去り際に放った攻撃でだいぶ眠りこけてしまったこともあり、反省会やら作戦会議やらは翌日に回した。
帰宅後、俺と桃はあまり言葉を交わさず、夕食を済ませるとお互いさっさと部屋に引っ込んだ。
シスター・キャンサーの謎の能力のこと、シスター・ダイアがエレメントストーンを手にしてしまったこと、考えなければならないことは山積みだ。だが、どうにも気力が湧かなかった。
一休みしようとベッドに入ると、猛烈な眠気に襲われた。俺は抵抗を諦め、そのまま睡魔の為すがままに任せた――。
――ここまでは覚えている。つまり、俺は本来なら自室のベッドで眠っているはずだ。
とすると、これは恐らく夢だ。俺の潜在意識がこの無の世界を作り上げたか、あるいはシスター・ダイアが放ったあの催眠攻撃のような技が何か後を引いているのか。
あれこれ考えてみても始まらない。まずは可能性の整理だ。
一つ目は、これが俺自身によって自然に生じた夢である可能性。
二つ目は、これがダイアの攻撃である可能性。
三つ目は、これがダイアの攻撃の影響ではあるものの、ダイア自身も意図しないものである可能性。
四つ目は、夢以外の可能性――たとえば本当に世界が終末を迎えてしまい、俺だけが生き残ったとか。
論理的に考えれば、一つ目・二つ目・三つ目のどれかだ。四つ目である可能性はかなり低い。
そして感情の面では、俺は二つ目を否定したい。シスター・ダイア――黒沢螢。俺は彼女を完全な敵だとはどうしても思えない。エレメントストーンを取り合って戦い、果てに奪われてしまった今でも、俺は彼女といつか分かり合える瞬間が訪れるのではないかという、淡い期待を持っている。
八々木公園での戦いだってそうだ。ダイアは圧倒的優位に立っておきながら、キャンサーに撤退を促して戦いを終わらせた。あれは俺たちとの取り返しのつかない衝突を避けようとしてくれたのではないだろうか。
たとえそうじゃないとしても、その気になればダイアはあの場で俺たちにトドメを刺す事だってできた。そんな状況でわざわざ撤退したというのに、今更になって追撃をしてくるとは思えない。いや、思いたくない。
だから、一つ目と三つ目の可能性がフィフティ・フィフティだ。
次に行動指針だ。
これが自然な夢だとするならば、特に何もする必要は無い。放っておけば時間経過でそのうち目が覚めるだろう。となれば、この夢がダイアの攻撃の余波であるという前提で行動するべきだ。
「螢! 螢ー! いないのかー!」
ダメもとで呼びかけてみる。だが暫く待ってみても何の反応も返ってこない。
そうなると、俺にできることは限られる。せいぜい、少しでも早く目が覚めるように努力することだ。
確か『これは夢だ』と自覚している夢のことを明晰夢という。明晰夢を見るのは、脳が半覚醒状態にあるからだそうだ。そして明晰夢は、自分の意思で思い通りにコントロールしたり、「覚めよう」と思って覚めることができると聞いたことがある。
まず俺は、「目覚める、目覚める、目覚める……」と念じてみた。しかし一向に目が覚める様子は無い。
簡単に目覚めることはできない。その事実を前に、俺はほんの僅かに恐怖を覚えた。左胸のあたりがキュッと締め付けられるような、冷たいような感覚。
果たして今の俺の肉体はどうなっているのだろうか。ここに来てから、俺の体感上では既に何時間も経過している。果たしてそれは本当に体感だけのものなのだろうか。あるいは、現実世界の俺は何時間――場合によっては何日も、眠り続けたままになっていたりするのだろうか。
――いや、ダメだ。悪い方に考えても仕方がない。
次に俺は、夢の内容のコントロールを試すことにした。そもそも、こんな何も無い空間にいるせいで気が滅入ってしまうのだ。まずはこの寒々とした無の世界を温かみのある光景に変えよう。
燃える太陽、揺ぎ無い大地、きらめく水面、吹き抜ける風、生い茂る樹木。そんな暖かな世界をイメージする。
「…………?」
何も起きない。眼前には相変わらず真っ白な世界が広がっている。
明晰夢では内容をコントロールできるなんて、嘘だったのか。あるいは俺のイメージの仕方がわるいのだろうか。
それとも、ここは夢の中などではないのか――。
最もありえないと思っていた四つ目の可能性が、不安と共に俺の中でどんどん大きくなっていく。
――不安?
そうだ。俺は今、この空間に不安を感じている。それはこの何も存在しない空間が――「無」が、何かを喪失するとか、あるいは自分自身の死とか、そういったものを否応にもイメージさせるからだ。
そして、その「無」に対抗しようとした俺が思い描いたものは何だった?
燃える太陽、揺ぎ無い大地、きらめく水面、吹き抜ける風、生い茂る樹木――火、地、水、風、木。それは五人のフェアリズムが司る元素。元素とは「存在」の根源であり、「無」の対極にある「有」の欠片だ。
俺はこの「無」の世界から救ってくれる存在として、「有」の象徴として、フェアリズムたちをイメージしたんだ。
エレメントストーンが世界の均衡を司ると言われる所以。そして、元素を象徴する石がどうして心の不安を取り除くことができるのか。
それがなんとなく理解できた気がした。
だが、結局この無の世界には何も変化が起きない。
「――両太郎」
不意に、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「――両太郎、聞こえていますか?」
声はもう一度俺を呼んだ。優しげな、抱擁感のある女性の声だ。
俺は声のした方を向こうとした。だが、そもそも声がどこから聞こえてきたかがわからなかった。もしかするとこの空間には、方角の概念も存在しないのかもしれない。
「……誰ですか?」
思わず敬語で問いかけてしまう。それだけ、その声には穏やかな威厳があったのだ。
するとどうしたことだろうか。まるで立体投影機のスイッチを入れたみたいに、何の前触れもなく唐突に俺の目の前に華やかなドレスを纏った女性が出現した。
年齢は二十代中盤くらいだろうか。波打つ長い金髪、緑の目、きらびやかな青いドレス。まるで童話の世界から抜け出してきたかのように現実離れした美しい女性。そのあまりの美貌に、思わずハッと息を呑んでしまう。
耳は先がツンと尖り、背には大きなアゲハチョウの羽。背丈は俺と変わらない普通の人間の大きさだが、パックやアリエルと同じ妖精であることは疑いようもない。
「私の名はタイタニア」
美しい妖精は、優美な微笑を湛えながら名乗った。
タイタニア――確かそれは、パックやアリエルにエレメントストーンを見つけ出すこと、そしてフェアリズムを導くことを命じた、妖精の女王の名だった。
「……では、あなたがフェアリエンの?」
「ええ。精霊界フェアリエンの女王――だった者です」
女王タイタニアは優しく聡明な声で答え、そして最後の一言は少し寂しげに付け加えた。亡国の女王としては、その名乗りに忸怩たる思いがあるのだろう。
「タイタニア様、ここはどこなのでしょうか。俺は最初、夢の中だと思ったのですが……」
俺の問いに対して、タイタニアはすぐに答えようとはしなかった。エメラルドグリーンの瞳に一際優しい光を灯して俺を見返し、それからゆっくりと頷く。
「そうですね。ここはあなたの夢の中。花澤両太郎……あなたが識ろうとしている場所を映し出した、虚像です」
「虚像? それはどういう意味ですか?」
言わんとすることをすぐに理解することはできなかった。
タイタニアはもう一度頷いて、それから静かに口を開く。
「私は女王タイタニア本人ではありません」
「……え?」
「私はタイタニアそのものであると同時に、あなたの一部でもある者。あなたの無意識が本物のタイタニアを写し取って作り出した、本物と寸分違わない夢なのです」
本人ではない、でもそのものではあり、俺の一部でもある?
頭がこんがらがる。この人は一体何が言いたいんだ。
「……失礼ですが、もしかして俺をからかっているんですか?」
「いいえ」
タイタニアは穏やかな微笑を崩さないまま、首を横に振った。
「そうですね、あなたに伝わりやすいように説明するならば――私は女王タイタニアの姿・人格・記憶を持った、夢のナビゲーターのようなものです」
今度はだいぶ分かりやすかった。なるほど、ナビゲーターか。
「しかし本物と同じも何も、俺はタイタニア様とは面識が無いはずです。あなたのその姿も声も、俺の無意識がでたらめに作り出したものではないのですか?」
「いいえ」
またもタイタニアはゆっくりと首を振る。
「あなたは私を――いえ、本物の女王タイタニアを識っています。それだけではなく、たとえばフェアリエンや人間界を侵略しようとする《組織》とはどういった存在なのか……そういったこともあなたは識っているのです」
「いえ、それは初耳ですが……」
「ふふ。意識の上ではそうでしょうね」
タイタニアは俺をからかうように、悪戯っぽく笑った。そんな態度をとりながらも優美な気品を放っているのだから、怒るに怒れない。
やはりこの人は、俺をからかうためにこんな謎かけのような言葉を選んでいるのだろうか。
するとタイタニアは俺のそんな疑念を察したのか、
「今はまだ私の言葉が理解できなくても当然です」
なだめすかすように言った。
「両太郎、あなたの中のヴィジュニャーナはまだ眠っています。あなたはあなた自身の手でヴィジュニャーナを目覚めさせ、それを自らの知識・認識・意識に変えていかなければなりません」
「ヴィジュニャーナ……」
またそれか。
シスター・キャンサーが俺を指して言った謎の言葉だ。
さっきから何一つ俺の理解が追いつかないまま、次から次へと意味のわからない問答のような言葉だけを浴びせられている。くそ、まずは情報の整理だ。
「ええと……つまり、俺の無意識の中にはヴィジュニャーナってのが眠っている。そのヴィジュニャーナとやらは本物のタイタニア様や、《組織》のことを知っている。俺が知らないはずのタイタニア様がこうして夢に現れたのは、夢を作り出した俺の無意識の中にヴィジュニャーナがある、またはいるから。――こういうことで合っていますね?」
俺の問いに、タイタニアは満足そうに頷いた。
「流石ですね。その識ろうという姿勢、それこそがヴィジュニャーナを目覚めさせる鍵です」
「と言いながら、そのヴィジュニャーナってのが何なのか、あなたは教えてくれる気が無さそうですね」
「あら、バレてしまいましたか」
タイタニアは片目でウィンクしながら、バツの悪さを誤魔化すように舌を出した。
いわゆる「てへぺろ」ってヤツだ。精霊界フェアリエンの女王のくせに、ずいぶん人間界の下々の文化にも精通していらっしゃることで。
あ、違うか。このタイタニアは本物のタイタニアの分身みたいなものであると同時に、俺の無意識の一部でもあるんだっけ。俺が知ってることは知ってて当然だな。
「つまり、あなたは俺が欲しがってる答えを直接教えるつもりはない。俺が自分で考えて理解しろ、と言いたいわけですよね?」
「平たく言ってしまえばそういうことですね」
またも茶目っ気たっぷりに言うタイタニア。知識は俺のものが混じってると言っても、性格は本物準拠だと思うのだが。本物もこんな軽いノリの人――じゃなかった、妖精なのだろうか。
まあそれはさておき、だ。
「ではタイタニア様。俺が欲しがっている答え以外で、何か情報を下さいませんか?」
「――え?」
姿を現してから初めて、タイタニアが戸惑ったような顔を見せた。今度はあっちが、俺がなにを言いたいのか掴めずにいるらしい。
「あなたは肝心なことは何一つ教えるつもりがない。それはわかりました。ですから、肝心なこと以外で教えられることを何でも全て教えてください。――どんな些細な情報だって、俺は手がかりにしてみせる」
してみせる。いや、しなければならない。
シスター・キャンサーとの戦いでは、俺はただの役立たずだった。実戦に参加できない分、後方からフェアリズムたちの頭脳となるのが俺の役目。しかしあの時の俺はマーレとチェーロが思いついた以上の作戦は思いつかなかったし、それもキャンサーにあっさり破られてしまった。
もっと情報が欲しい。作戦を、攻略法を組み立てるための糸口が欲しい。
「そうですね……」
しばらく互いに黙ったまま目と目を合わせていると、タイタニアは根負けしたとでも言うように、呆れ笑いとともに口を開いた。
「それでは、この空間がどういう場所なのか教えて差し上げましょう」
「え? それは、先ほど俺の夢の中だと教えていただきましたが……」
「ええ、その通りです。ですが、私が女王タイタニアを写し取った夢であるのと同じように、この空間もまた現実の似姿。《組織》の手で本物の女王タイタニアが幽閉されている空間を映し出したものなのです」
「ここが……」
改めて周囲を見回す。
やはり何も存在しない、真っ白な空間が広がっているだけだ。不安感だけに塗りつぶされた、終わってしまった世界。無の世界。
これが自分の深層心理が見せたものではなく、現実に存在する場所を写し取ったのだと言われ、安堵と恐怖が同時に湧き上がってくる。
本物の女王タイタニアはこんな殺風景な世界に幽閉されているというのか。こんなところに長時間いたら、俺だったら確実に気が狂ってしまうだろう。
「両太郎、あなたはここに良く似た場所を識っているはずです」
「――え?」
心当たりが無い。こんな場所に行った覚えは無い。こんな空間に似た場所なんて、人間界のどこにあるというのか。
タイタニアはまた「あなたは知らなくてもあなたの中のヴィジュニャーナが知っています」なんてことを言いたいのだろうか?
いや、違う。
確かに俺は知っている。ここに似た光景を、不安に塗りつぶされた世界を、俺はいつかどこかで見ている。
そうだ――それは。
「まさかここは、誰かの精神の地平線なのですか?」
精神の地平線。絶望のエンブリオを植えつけられた時、俺自身の中に形成されつつあった世界。そして渚がフアンダーになってしまった時に、俺たちを引きずりこんだ世界。
俺と渚はあの空間について、フアンダーの内面に広がる心象風景だと解釈していた。
「その通りです」
そう答えたタイタニアの表情には、先ほどまでのおどけた様子は一切無かった。
柔和な面持ちこそ崩していないものの、長い睫毛に縁取られた瞳には悲哀と憂いの色が浮かんでいる。
流石にその表情を目にして、『じゃあ俺たちはそのフアンダーをぶっ飛ばしてあなたを助け出せばいいんですね』なんて言えるほど俺は鈍くない。
タイタニアは自分を救ってくれと言いたいんじゃない。この精神の地平線の主であるフアンダーを救ってくれと、そう言いたいのだ。
「でも、一体誰の――」
俺が尋ねようとしたその時だった。
「グオオォォォォォォォォォォオオオオオッ!」
凄まじい雄叫びがどこからともなく響き、無の世界――いや精神の地平線全体がビリビリと震えた。
次の瞬間、タイタニアが出現した時と同様に、俺の視線の先に前触れも無く唐突にそれが現れた。
「グオオォォォォォォォォォォオオオオオッ!」
俺たちとの距離は目測で百メートルは離れているにも関わらず、それでもなお見上げるほどの巨体。
それは野太い声で喚きながら、地響きを立てて闊歩する巨人だった。
その全身は吸い込まれそうなほどの黒。身体の表面は子供がクレヨンで描いた落書きのようにグチャグチャと乱雑に波打ち、圧倒的な質量感を持つにも関わらずあまりに実態感に乏しい。今にも崩れ落ちそうにも見える。
俺がどれだけ強く足を踏み下ろしても足音一つ鳴らなかったこの精神の地平線が、巨人がおぼつかない一歩を踏み出す度にズシンズシンと重い音を立てて揺れる。それだけで、あの巨人こそがこの世界の主であるのだと理解できた。
何かを捜し求めるように不規則に歩き回る巨人は、暴力の塊のような体躯を持ちながら、泣きじゃくる子供のようにも感じられる。
渚の精神の地平線は、冷たい雨が降りしきる荒れ野だった。あれも確かに不安感が掻き立てられる寂しい風景だったのは間違いない。
だがそれでもまだ『風景』と呼べるだけのものが存在していたのだ。
一方、ここには何も無い。大地も、風も、太陽も、水も草木も無い。それどころか明るさや暗さといった概念すらない虚無の世界。そんな状態に陥ってしまった心の中で、どこまでも膨れ上がった自我だけが、崩壊しそうになりながら懸命に何かを捜し求めている。それはあまりに救いの無い光景だった。
もはやあれは不安という次元を超えてしまっている。完全なる絶望だ。
幾度と無く雄叫びを上げ、懸命に歩き回る巨人。あまりにその存在は悲しい。この世界は俺の無意識の中に眠るヴィジュニャーナとやらが作り出した幻影だ。しかし世界のどこかには、こことそっくりな場所が存在する。そしてその場所を、この悲しい巨人は彷徨い続けているのだ。
俺はいつの間にか自分が涙を流していることに気づいた。同情でも哀れみでもない。ただ、巨人の在り方があまりに悲しかったのだ。
しかし、果たして俺とフェアリズムたちは彼あるいは彼女を――絶望の巨人を救うことができるのだろうか?
少なくとも今のままでは、それは難しいように思う。
絶望、そして完全なる「無」。それは心の平穏と「元素」を司るフェアリズムにとって対極の存在。ゲーム的に言えばラスボスだ。ラスボスと戦うためには、今はまだ恐らく足りないものが多過ぎる。
全部で十二個のエレメントストーンのうち、俺たちの手元にあるのは五つだけ。残り七つのうち四つは《組織》の手に渡ってしまっている。それに、仲間探しだってある。エレメントストーンの数だけフェアリズムがいるのだとすれば、そちらも残りは七人。道のりは遠い。
「両太郎、焦ってはいけません」
タイタニアは俺の心を読んだかのように、静かな声で言った。
「焦りは知識を曇らせ、認識を歪め、意識を揺らがせます」
タイタニアの声は心地よく頭に響いてくる。しかし俺の焦燥感は、決して言葉だけで拭い去ることはできない。
タイタニアはまるで子供をなだめるかのように、もう一度静かに口を開く。
「両太郎、これからもきっと様々な試練があなたたちを待ち受けていることでしょう。ですが、あなたとフェアリズムたちならば、きっとそれを乗り越えることができるはずです」
「――しかし、俺たちはシスター・キャンサーに手も足も出ずあしらわれました。それに、陰陽の闇のエレメントストーンも《組織》に奪われてしまいました。全てのエレメントストーンを集めようにも、シスターに勝てない現状では……」
「シスター・キャンサー、五大の空のエレメントストーンですか……」
タイタニアは首を傾げ、何かを思案する。
それからスッと俺の方に向き直った。
「両太郎、まずは本物の私――女王タイタニアと連絡を取るのです」
「本物のタイタニア様に?」
「ええ。ヴィジュニャーナによって生み出された虚像である私は、あまり多くを語ることはできません。しかし本物の女王タイタニアならば、きっとあなたに五大の空のエレメントストーンに立ち向かう手がかりを授けてくれるはずです」
「しかし、連絡を取るといってもどうやって?」
「妖精アリエルに相談してみると良いでしょう。彼女は《エヴェレットの鏡》という通信装置を持っています」
「なっ……! そんなものがあるなら、どうして今まで……」
「使いたくても使えなかったのです。エヴェレットの鏡を起動するには、エレメントストーンが最低六つは必要ですから」
「そ、それじゃ手詰まりじゃないですか! 今いるフェアリズムは五人、エレメントストーンも五つしか集まっていないんですよ!」
「いいえ。五つのエレメントストーンに加えて両太郎、ヴィジュニャーナを持つあなたがいればきっと鏡は応えるはずです」
俺が? エレメントストーンを持たず、フェアリズムでもない俺が、足りないエレメントストーンの代わりになるというのか?
しかしタイタニアの顔は真剣そのものだ。嘘や冗談を言っているとは思えない。
くそ、ヴィジュニャーナとは一体何なんだ?
「……きっと、その理由を尋ねてもあなたは教えてくれないのでしょうね」
「ええ。それは誰かに教わることなく、あなた自身が識らなければならないことですから」
まったく、不親切なナビゲーターもいたものだ。
だが、彼女はきっと嘘を言っていない。ヴィジュニャーナとかいう謎めいた何か。それを俺は自分自身によって理解していかなければならないのだ。
「――さて、両太郎。お別れの時間です」
「え?」
次の質問をぶつけようとした矢先、タイタニアは少し寂しそうな顔で言った。
「桃さんがあなたと早朝トレーニングをしようと待っています。早く行ってあげてください。……行ってあげて、というのは少し変ですね。ふふ」
浮かべた寂寥感を拭うように、タイタニアは明るく笑う。
「桃が?」
「ええ。きっと桃さんなりに、シスターに対抗しようとしているのでしょうね。気は優しいけれど、芯は強くて頑張り屋な子ですから」
「……あなたはそんなことまで知っているんですね」
「あら、これはあなたの記憶から知ったことですよ?」
「――むぐ。そ、それより俺が起きたらこの世界は……あなたはどうなるんですか?」
ほとんど気恥ずかしさを誤魔化すための質問だった。だがその問いにタイタニアは、一度は隠した寂寥感を再び露にする。
「――消えます」
「!?」
「私はヴィジュニャーナの持つ情報と、あなたの無意識によって生み出された虚像ですから。あるべき形に戻るだけです」
「そんな……」
作られた存在。そんな理由だけで、自分が消滅してしまうことを割り切れるものだろうか。
いや、そんなはずはない。その証拠が、この寂しげな顔ではないのか。
「……ごめんなさい。勘違いさせてしまいましたね」
「え?」
「私は、私自身が消えることには未練は無いのです。消えるといっても、この女王タイタニアとしての意識と自我を失い、あなたの無意識の一部に戻るだけですから。それよりも、私は――」
そう言ってタイタニアが視線を向けた先。
それは今もなお雄叫びをあげながら彷徨い続ける、絶望の巨人。
――ああ。そうか。この人は自分の人格が消えようとする今この瞬間も、あの巨人のことを案じているのだ。いや、正確に言えば本物の女王タイタニアと共にある、本物のあの巨人のことを。
たとえ俺の無意識が生み出した仮初の存在だとしても、今この瞬間のこの人は、紛れもなく優しく気高き妖精の女王なのだ。
「両太郎。いつか、どうか彼を救ってあげてください。約束です」
「――わかりました。約束します。ですが、あなたが俺の一部だというのなら、この約束はあなた自身が成すことでもあります」
俺の言葉に、タイタニアははっとしたように目を見開いた。その拍子に瞳の端から一筋の涙が頬を伝う。
それから満面の笑みを浮かべる。
そこにはまるで散り際の花のように、満ち足りた儚さがあった。
「……ありがとう……」
薄れていく――あるいは目覚めに向かっていく意識の中、彼女の最後の言葉が俺の中に確かに流れ込んできた。
-†-
「――いちゃん、お兄ちゃん?」
次に俺の意識が自由を取り戻した時、目の前には少しうろたえた桃の顔があった。
「……ん」
上半身を起こし、辺りを見回す。紛れも無い俺の部屋だ。
時計は五時半。カーテン越しに見える外はもう十分に明るいが、いつもの起床時間よりはずっと早い。桃も起き抜けなのか、パジャマ姿で髪は結っていない。
っていうか、部屋の鍵はどうやって開けたんだコイツ。まさかいつのまにかピッキング技能を……なんてことは無いか。
「お兄ちゃん、どうしたの? 怖い夢でも見たの?」
桃は俺の目をジッと見て、なんだか困惑した表情。
もしや、と思って目元を拭った拳は、案の定じっとりと濡れていた。どうやら眠りながら涙を流していたらしい。
「なんでもないよ」
「でも……」
桃はなおも心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
まあ、無理も無いか。
六年前の事故の直後、この家に引き取られた俺は毎晩のように悪夢に苛まされた。それを一番近くで見守っていたのが桃なのだ。
「大丈夫だ、悪い夢じゃない。むしろ良い夢だった」
頭の上に手を置き、軽く撫でてやると、桃はようやく納得してくれたようだった。
そう、あれはきっと良い夢だった。決して嬉しい夢というわけではないけれど。
「それにしてもどうしたんだ、こんなに朝早く」
「えへへ……」
桃は照れ笑いを浮かべながら、後ろ手に隠し持っていたものを俺に見せてくる。それは朝陽中等部の女子指定ジャージ、それに高等部男子のもある。もちろんそれぞれ桃と俺が普段使っているものだ。
それを見て、俺はたった今まで見ていた夢がただの夢ではなかったことを確信する。タイタニア――の写し身は、桃が早朝トレーニングしたがっていると言っていたのだ。
「――ったく。さっさと着替えて来い。ロードワークでいいか?」
自分のジャージをひったくってやると、上目遣いで俺の顔色を伺っていた桃は、ぱあっと顔を輝かせた。
「うん!」
桃はとたとたと足音を立てて自室に戻っていく。まったく、朝っぱらから走り込むことの何がそんなに嬉しいのか。
呆れつつも、着替えるために袖に手をかける。
と、その時。
「モモも頑張りたいんだよ。分かってあげなよ」
気がつけば妖精パックが俺の勉強机の上で偉そうにふんぞり返っていた。
「分かってるさ」
――お前に言われなくてもな。そう付け加えようとして踏み止まる。その代わりに、
「お前も分かってやってくれてるんだな、ありがとう」
そう言ってやった。
こいつだって自分たちの女王があんな状況に陥って、逸る気持ちが無いはずがない。本当はすぐにでもタイタニアを助けに行きたいだろう。それでもこいつは自分の無力さを噛み締めながら、俺やフェアリズムたちを信じてくれているのだ。
そう思うと、少しは仲良くしてやろうという気にもなる。
「ちぇ、なんだよ調子狂うなあ……」
パックは眉を顰めて複雑な表情だ。まったく素直じゃない。まあ、それはお互い様か。
「それより、鍵を開けたのはお前の仕業だな。どうやった」
「ん、そこの穴からちょちょいっと、ね」
パックは得意気にエアコンの換気口を指差す。
あそこから入り込んだのか……。ゴキブリみたいなヤツだな。
「我が家では対妖精用のセキュリティ対策も講じなけりゃならないようだな……」
「ふふん、どんな障壁だってその上を考えて突破するだけさ」
パックは勝気な姿勢を崩さない。いつもなら生意気な性悪妖精め、と思うところなのだが、今日はなんだかそれが好ましいものに感じられた。
まあ、俺の部屋に侵入することなんかに情熱燃やすなよとは言いたいが。
「お前もなかなか良いこと言うんだな」
ジャージに袖を通しながらもう一度褒めてやると、パックは「ホントに調子狂うなあ……」と照れくさそうに呟いた。




