第六話 黒沢螢の場合2
両太郎たちと別れた後、わたしは当ても無く歩き回った末に広大な公園に辿り付いた。
青く塗られたベンチを見つけて腰を下ろし、はやる気持ちを抑えながら、ポケットから残る二本の缶コーヒーを取り出す。
自身の異変を知ったのは、歩きながら一本目の缶コーヒーを飲んでいる最中だった。
一口目を飲み込み、苦味、酸味、甘味――それらが織り成す心地よい余韻に浸るうち、いつのまにか周囲の人間の不安の声が聴き取りにくくなっていることに気づいた。
もしやと思い、さらにコーヒーを飲み込むと、不安の声は完全に聴こえなくなった。
それからジッとその場で待っていると、やがて微かに不安の声が聴こえ始め、しばらくしていつも通りの煩わしいボリュームに戻った。
コーヒーを飲む。声が消える。
しばらく待つ。声が聴こえるようになる。
コーヒーを飲む。声が消える。
しばらく待つ。声が聴こえるようになる。
缶が空になるまで念入りに何度も何度も確かめたが、間違いは無かった。缶コーヒーを飲むことで、不安の声をシャットアウトすることができるのだ。
わたしは柄にも無く「期待」などという心情が自分の中から湧き上がるのを感じた。
不安の声を聴く能力はフアンダーの素体を見つける上では非常に役立つ。しかし常に全開では煩わしさが勝る。特にわたしの場合は人間をフアンダーにするつもりがない以上、人間の不安の声など聴こえたところで気が滅入るだけだ。必要の無い状況で能力を自在に抑えることができるならば、是非とも活用したい。
問題は、缶コーヒーの中の何の成分が影響しているかだ。
缶には牛乳・コーヒー・砂糖・脱脂粉乳・乳化剤など非常に多くの原材料が書かれていた。「カゼインNa」などという、わたしには意味がわからないものも使用されていた。フェアリエンにはそんな食材は無かったと思うが、人間界ではありふれた品なのだろうか?
幸いにも両太郎がくれた三缶は全て違う商品だった。
残った二本は最初の一本に比べると随分原材料の種類が少ない。片方の原材料は「コーヒー・香料・乳化剤」。もう片方は「コーヒー・砂糖・乳化剤」。これと最初の一本の原材料を手がかりにすれば、候補を絞り込むことができそうだ。
公園にやって来た目的は、それをゆっくり確かめるためだ。
もう最初の一缶の効果はすっかり切れてしまった。
街中と比べれば公園を行き交う人々の数はずっと少ない。それでも不安の声はいくつも聴こえてきている。楽しそうにはしゃぐ子供たちや、穏やかに佇む老人――そんな昼下がりの公園に広がるのどかな景色も、わたしにとっては陰鬱とした不安の上に塗り固められた偽りの平穏にしか感じられない。
わたしはプルトップに苦戦しながらも二つの缶を開封し、そしてまずは「コーヒー・香料・乳化剤」の方を恐る恐る口に含んだ。
一缶目よりずっと強い苦味と酸味。それをゴクリと飲み込む。
だが周囲から聞こえてくる不安の声は消えなかった。
もう一口飲み込んで、しばらく待ってみる。――やはり消えない。
次は「コーヒー・砂糖・乳化剤」の方だ。
味は二缶目と似ているけれど、ほのかに甘い。緊張しながら飲み込む。
するとどうだろうか。不安の声は僅かにボリュームが落ちたように感じられた。
二口目、三口目、駆り立てられるように飲み込む。不安の声はさらに微かになっていく。
もう間違いない。一缶目と三缶目に含まれ、二缶目に含まれないもの――それは砂糖だ。砂糖を摂取することで、一時的に不安の声が聴こえなくなるのだ。
一缶目と比べて三缶目の方が効果が弱いのは、きっと砂糖の量が違うからだろう。そういえば一缶目は、三缶目よりもずっと甘かった。
我慢できなくなり、わたしは三缶目の残りを一気に飲み干した。再び静寂が――もちろん物理的な音は聞こえているのだけれど――訪れる。
そうして初めて、周囲の風景をきちんと見渡す余裕が生まれた。
生い茂る木々、さらさらと水面が揺らめく大きな池、その真ん中できらめく飛沫を散らす噴水。目の前に広がる風景はとても美しい。
わたし――いや、わたしの基になった黒沢螢という少女が暮らしていた町にも、こんな公園があった。そっと目を閉じる。水の流れる音、風が木々の梢を揺らす音、そんな音に耳を傾けられるのは、一体どれくらいぶりだろうか?
しばらくの間、わたしは静けさの中に自分が溶け込んでいくような感覚を楽しみながら、目を瞑っていた。
しかしそんな夢心地は不意に、
「うわああぁぁぁぁ!」
と響き渡った悲鳴によって遮られた。
ハッとして立ち上がる。今のは小さな子供の悲鳴だ。
同時に、どこかからババババッと何かが振動するようなけたたましい音が轟き始める。
わたしは何が起きているのかもわからず、周囲を見回した。
もう悲鳴は聞こえない。だが相変わらず振動音は鳴り響いている。
音は舗装された道からは少し外れた、林の中から聞こえてくる。
生垣を飛び越え、芝生に覆われた地面を走る。
次第に聞こえてくる振動音が大きくなっていく。
一際太い樹が茂る一帯に辿り付いた時、わたしは状況を察した。
「ひ……ひあぁ……あああぁ……」
恐怖に顔を歪めてへたり込んでいる、七、八歳くらいの男の子。恐らく先ほどの悲鳴の主だろう。身がすくんでしまって、もはや悲鳴すらまともに上げられない様子だ。
そしてその男の子の視線の先。男の子にそれだけの恐怖を与えた存在は、唸るような振動音を撒き散らしながら、真っ赤に光る複眼で獲物を見据えていた。
それは体長二メートルはくだらない、異常なまでに巨大なスズメバチ。――シスター・ポプレが従えるフアンダーの一体だ。
フアンダーは鋭く伸びた針の先からボタボタと毒液を垂らし、地面を爛れ焦がしている。
「フアァァァンダァァァァ……」
フアンダーは突然の闖入者であるわたしを一瞥し、威嚇するように野太い声を上げた。食事の邪魔をするな、と怒っているようにも見える。シスターであるわたしに対して恭順する様子が全くない。どうやら主のポプレが倒れたせいで、完全に暴走してしまっているらしい。
「あぅ……た、助け……」
フアンダーの仕草からわたしの存在に気づいたらしく、男の子が縋るような目を向けてくる。だが、その視線はわたしの頭から爪先までを一巡すると、失望の色に変わる。今のわたしの姿はごく普通の少女でしかない。巨大なスズメバチが相手では戦力になるどころか、餌が増えるだけの結果に終わると判断したのだろう。
そしてその判断は、実際の戦力の上でも正しい。
シスターの黒ローブを纏っていない今のわたしは、普通の人間より多少頑丈な程度の力しか持たない。他のシスターを主とするフアンダーに対して、対抗する手段など持ち合わせていないのだ。
フアンダーは男の子を獲物に見定めているようだ。
恐らくすぐさま一目散に逃げ出せば、わたしは助かるだろう。
しかし――
「お、お姉ちゃん……」
男の子は泣き出しそうになりながら、震える声でわたしに何かを訴える。
駄目だ、この子が犠牲になるのを見過ごすわけにはいかない。
わたしはシスター。人間界に絶望をもたらす者。
けれど、それは争いの連鎖から人間を救うためなのだ。暴力によって人間が――それも小さな子供が――傷つくところなんて、決して見たくない。
こんな時ほどシスターのローブを恋しいと思ったことはない。
あれがあればフアンダーの攻撃程度はたやすく防げる。それにできることなら使いたくないが、ローブの懐に隠してある絶望のエンブリオがあれば、この男の子を瞬時にフアンダーに変えてこの場を凌ぐことだって可能だ。
――なんて、無いものねだりをしても始まらない、か。
「お姉ちゃん……!」
振り絞るようにして男の子がもう一度叫んだ。
もういい。それ以上はいい。そんな顔でお願いしなくたって、わたしはあなたを助ける。――この身に代えても。
だが、次に男の子が発した言葉は、わたしの想像とは真逆だった。
「お姉ちゃん、早く逃げて!」
その声が耳を通って脳に届いた、その次の瞬間。
わたしは気がつけばフアンダーと男の子の間に割って入っていた。
フアンダーの攻撃を防ぐ手立ても、男の子を逃がす算段も全く無い。
それでも、そうしなければならないと思った。
いや、思うより先に体が動いていた。
まったく、こんなのわたしの柄じゃない。
思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「フアンダァァァ……!」
視線の先で、フアンダーの複眼が一際紅く輝く。どうやらわたしを完全に敵だと――そして真っ先に排除すべき存在だと認識したようだ。
「お、お姉ちゃん……?」
「何してるの、早く逃げなさい!」
背後からの戸惑うような声に、思わず怒鳴り返す。
今のわたしでは時間稼ぎがやっとなのだ。さっさと逃げてくれなければ無駄になってしまう。
「でも……」
「いいから! さっさと逃げて……いえ、大人の人を呼んできて!」
「わ……わかった!」
背中越しに、男の子の足音が遠ざかっていく。
ふぅっと溜息が漏れる。「逃げろ」ではなく「大人を呼びに行け」が正解か。まったく、あんなに小さくても男の子というものは格好をつけたがる生き物らしい。
絶体絶命の状況だというのに、なんだか笑えてくる。
フアンダーは去っていく男の子には目もくれず、わたしに向かって毒針を突き出して背中を引き、今にも飛び掛ってきそうな姿勢をとった。
どうしたものか。
男の子にはああ言ったものの、実際のところ大人が来ようが警察が来ようが軍隊が来ようが、フアンダー相手では無意味なのだ。
このままではわたしを仕留めたフアンダーは、手当たり次第に周囲の人間を襲い続けるかもしれない。
フアンダーの主であるシスター・ポプレはまだ復活していないし、そもそもあのイカレ女が人間を傷つけることに躊躇するはずが無い。ポプレに代わって人間界の任務に就いたシスター・キャンサーも、わざわざ人間を助けようとするかは怪しい。
今この状況をなんとかできる存在は、わたしの思い当たる中ではたった一つ。
あの忌まわしい邪魔者たちしかない。
まったく、こういう時にこそ出しゃばって来るべきなのだ。
見境無く暴れまわるフアンダーを放置して、何が運命の戦士なものか。
そんな八つ当たりじみたことを思いながら、わたしはフアンダーの毒針が自らに迫ってくるのを、諦観と共に見つめていた。
――その刹那。
ドンッ、という衝撃とともに何者かに突き飛ばされ、わたしの体は真横に吹っ飛んだ。
「――え?」
傾いていく視線の先で、フアンダーの針が宙を裂いた。
そして視界の手前側には、わたしを突き飛ばした勢いで一緒に倒れ込んでくる女の子の姿。
頭を打たないように慌てて受身を取り、続いて女の子を抱きとめる。
今、わたしはこの子に間一髪で命を救われた。ようやくそんな認識が追いついてくる。
わたしを突き飛ばした女の子は悠然と立ち上がり、
「大丈夫?」
そう言って笑う。花が咲いたような――とでも言えばいいだろうか、ぱあっと広がるように綻んだ顔。
この子の声、その顔をわたしは知っている。でも、今までそんな笑顔を向けられたことは一度だって無かった。
だってわたしとこの子は、宿敵同士なのだから。
「フアァァンダアアアァァァ!」
女の子――花澤桃の背後で、怒り狂ったフアンダーが雄叫びを上げる。
「危な――ッ!」
思わず叫んでしまった。
しかし花澤桃は動じない。そしてその理由は次の瞬間には理解した。視界の端から真っ赤な一筋の閃光が迸ってフアンダーを打ちつけたのだ。
「グオォォォォォッ!」
悲鳴を轟かせながら、フアンダーの巨躯が炎に包まれる。
閃光の飛んできた方に目をやると、そこには既に変身を終えた赤と黄の二人のフェアリズム――フェアルーチェとフェアステラが立っていた。花澤桃の落ち着いた様子は、ルーチェとステラへの信頼から来るものだったのだ。
それにしても本当に……、まさか本当に、フェアリズムが来るなんて。
「もう大丈夫だよ。でも――これから起きることは秘密にしてね」
花澤桃はわたしに向かって悪戯っぽく微笑むと、ポケットから指輪を取り出して左手の薬指にはめた。
「フェアリズム・カーテンライズ!」
叫び声と共に、目の前で花澤桃の全身が桃色の淡い燐光に包まれた。
衣服は燐光の中に溶けるように消え、かわりに光が織り合わさって生じた桃色のトップスが、フレアスカートが、アームカバーが、ブーツが彼女の華奢な身体を覆っていく。
中学生・花澤桃が運命の戦士・フェアフィオーレへと変貌していく光景を眺めながら、わたしは自分が心のどこかで安堵していることに気づいてしまった。
認めない。認めてはいけない。フェアリズムを認めてしまったら――フェアリズムの存在に安心してしまったら、わたしは、シスター・ダイアは戦えなくなってしまう。
しかしそんな意地とは裏腹に、視線はフェアフィオーレへと吸い込まれていく。
わたしには自らの動揺をどうやって抑えればいいのか、見当すらつかなかった――。




