第二話 花澤桃の場合
わたしの名前は花澤桃。私立朝陽学園中等部二年生。
勉強も運動も人並み程度で、部活動は新聞部。
それから、つい数日前から生徒会書記をしている。
今日はなんだか、朝からとても落ち着かない。
十時半に出かけるお兄ちゃんを玄関で見送った後、そのままなんとなく自分の部屋に戻る気になれずにいる。
リビングのテーブルでボーっとしてみたり、廊下をうろうろしてみたり。特に何をするというわけでもなく家の中を徘徊してしまっている。
歩き回っているうち、ふと玄関横のカレンダーが六月のままになっているのを見つけた。
今年の我が家のカレンダーはわたしの趣味で、猫の写真入りの月めくりだ。
指を切らないように気をつけながら、一ヶ月間家族を送迎してくれた茶色いぶち猫に別れを告げる。下から出てきたのは、ブルーグレーと白の縞が入った可愛らしい子猫だった。
その子猫がちょこんと突き出した右手の少し下に、今日の日付があった。
七月四日。わたしにとって大切で、特別な日。
ううん、きっとわたしだけじゃない。家族全員にとっても大切な日。
わたしには、七月四日に関する秘密がある。
親友の光ちゃんだけが知っている秘密。
そして、一生隠し通さなければいけない秘密。
-†-
わたしには昔、初恋の人がいた。
お父さんの親友の息子さんで、わたしよりも三歳年上の男の子。
家族ぐるみで付き合いがあって、わたしと彼は小さいころからよく一緒に遊んだ。
当時のわたしは今よりもずっと引っ込み思案で、独りで人形遊びばかりしているような子供だった。
けれど彼はとても優しく、物知りで、そしてわたしとは違って沢山の勇気と好奇心を持っていた。
彼はいつもわたしを臆病な自分の殻から引っ張り出して、いろんなことを教えてくれた。ゲーム、虫取り、鉄棒、それから学校の勉強。彼は何でもできたし、何をしてても楽しそうだった。
あの頃のわたしにとって、彼は絶対の存在――神様みたいだった。
そんな彼が変わってしまったのは六年前だった。
ある日お父さんがとても険しい顔をして、家に彼を連れて帰ってきた。おじさんもおばさんも一緒じゃなく、彼だけがうちに来るなんて珍しいことだ。
けれどわたしはその理由を聞くことができなかった。彼は虚ろな目をしていて、問いかけどころか挨拶すら返ってこなかったのだ。まるで心がどこかに行ってしまったみたい。そんな風に思った。
両親はわたしにこっそりと、彼は家族を失ってしまったのだと告げた。そして、彼の心を守ってあげなさいとわたしに言い聞かせた。
今思えば、両親は彼が自ら死を選んでしまうことを警戒していたのだ。
彼はうちに来てからも苦しみ続けていた。
同じ部屋に寝ていたわたしは、彼が夜中にうなされる姿を何度も見た。
日中はマスコミの人たちがうちにやってきて、彼を取材させろと何度も言ってきた。わたしも学校帰りに記者に捕まったことがある。けれどお父さんから何も話すなと言い聞かされていたため、「わたしにはわかりません」とだけ答え続けた。
肉親の死以上に彼の心を傷つけていたのは、事故を「天罰だ」などと囃し立てる世間の態度だった。
彼が一人で家に来たあの日、お父さんがマスコミの人垣を掻き分けて彼の家に踏み込んだ時、彼はテレビの前に座って呆然と画面を眺めていたのだという。
彼は一人になってしまった。
家族を失っただけではない。彼は世間を、社会を信じられなくなってしまった。どこにも所属していない、どこにも帰れない。
その苦しみは、当時七歳だったわたしには難しくてよくわからなかった。
けれど彼が大きな悲しみと不安の只中にあることだけは伝わってきた。
わたしには何もできなかった。
何もできず、どうすればいいかもわからず、何日もずっと抜け殻のようになってしまった彼のことを見続けた。
頬が痩け、目の周りは落ち窪み、彼は少しずつやせ細っていった。
まるで、ゆっくりとゆっくりと、死んでしまうのを待っているように見えた。
そしてわたしは、あることを決意した。
わたしには彼が抱えてしまった絶望を払うことはできない。
けれどわたしにも、彼が失ってしまった家族になることはきっとできる。そう思ったのだ。
お父さんもお母さんもわたしの提案に反対はしなかった。きっと、わたしが言い出すのを待っていたのだと思う。
六年前の今日、七月四日。わたしが八歳になった日。
彼は――識名両太郎は、花澤両太郎になった。
八歳の誕生日に、わたしは大好きな初恋の人を失った。
そして同じくらい大好きで――大切な大切なお兄ちゃんを得たのだ。
あの頃のわたしの気持ちは、秘密にしなければならない。
知ってしまえば、きっとお兄ちゃんは責任を感じてしまうから。
だからあの頃の気持ちを――今のこの気持ちを、わたしは一生隠し通すのだ。
-†-
インターフォンの音で、わたしは不意に我に返った。
カレンダーを見つめたまま、考え込んでしまっていたらしい。
「はい、どなたで――」
「やっほー桃!」
インターフォンに応じると、元気のいい女の子の声がわたしの言葉を遮った。
「え、光ちゃん?」
声はクラスメイトの赤﨑光ちゃんのものだ。
光ちゃんは小学校時代からずっと一緒で、わたしの一番の親友だ。性格は違うけれど小さい頃から不思議と仲良しで、色々な相談に乗ってもらったこともある。
そしてお兄ちゃんがわたしの初恋の相手だったことを知る、ただ一人の存在。
「へへへ。桃がモヤモヤしながら過ごしてるんじゃないかって思って、誘いに来たよ」
「モヤモヤなんてしてないよ……。って、どこか行くの?」
「どこってそりゃ、もちろん両兄と優のデートをこっそり観察するに決まってるじゃん!」
「え、ええええ!? そんなの悪いよ……っていうかそもそもデートじゃないよ!? 渚ちゃんだって、梶先輩だって一緒なんだし――」
「いいからいいから、桃の気持ちはあたしはちゃんとわかってるぞ! ほらとりあえず開けてよ!」
「……もう」
促されるままに玄関のドアを開ける。
最初に目に飛び込んできたのは、キラキラ目を輝かせた楽しそうな光ちゃんの顔。
それがわたしの姿を見るなり、急に呆れ顔に変わる。
「ちょっと桃、それパジャマじゃん。そんな格好で出かける気なの?」
そう言った光ちゃんはというと、白いワンピースの上から赤いベストを重ね着。いつもツーサイドアップにしてる髪は、今日はハーフアップで左側に緩くまとめている。完全におでかけスタイルだ。
「え、わたし出かけるなんて一言も……」
「いいから着替えて来なさい! ほら、麻美からも言ってやってよー」
光ちゃんは背後に隠れていた同行者の肩をぐわしっと掴み、無理やり表に引っ張り出す。
感情の起伏が少ないなりに困惑の表情を浮かべて、わたしと目を合わせたのは金元麻美ちゃん。わたしと光ちゃんのクラスメイトで、生徒会書記を務めている。
光ちゃんの格好も綺麗だけれど、麻美ちゃんのそれはハッと息を呑むほどだった。
胴周りがコルセット風のデザインになっている白地のサマードレスで、スカート部分はパニエを入れたみたいにふわっと膨らんでいる。頭にのせた少し鍔広の麦わら帽子も、ドレスと相まって清涼感を出している。
髪も肌も色素が薄く見える麻美ちゃんは、こういった洋風のお嬢様みたいな格好がとても似合う。
そのお嬢様は、いつもと同じ静かな声で、溜息混じりに呟く。
「……麻美は、諦めた……」
「なにぃ、情けないぞ麻美ー! 一緒に桃を説得してくれる約束でしょ、諦めたらそこで終了だよ!」
光ちゃんに力いっぱい抱きつかれて、麻美ちゃんの顔が一層げんなりとしたものになった。
違うよ光ちゃん……。麻美ちゃんは今、わたしの目を見て諦めたって言ったんだよ。
きっと麻美ちゃんも、この調子で光ちゃんに半ば強制的に連行されて来たのだろう。「諦めた」というのは、光ちゃんに抵抗するのを諦めたという意味に違いない。
「――でも、お兄ちゃんたちの行き先知ってるの?」
「ううん、全然! 桃なら知ってるかなって思って」
あっけらかんと言い切る光ちゃん。いつもながら、この行動力には驚かされる。きっと座右の銘には『思い立ったら一直線』なんて書いてあるんだ。
でも、そんな光ちゃんを羨ましく思うこともある。
だって――
「知ってるけど――わたしが言うと思う?」
「思う。桃だって気になってるんでしょ?」
そう。なんだかんだでわたしは、お兄ちゃんたちが今どうしているか気になって仕方なかった。
そのせいで朝からそわそわしているのだ。
光ちゃんは勢い任せに行動するように見えて、ちゃんと肝心なところは押さえている。だからこそわたしは、迷わずに行動できる光ちゃんが羨ましい。
でも光ちゃんがわたしの気持ちをわかっているように、わたしも光ちゃんの気持ちを知っている。お兄ちゃんのことが気になってるのは自分だけじゃないって、知っている。
光ちゃん、今自分がなんて言ったか気づいてる?
そう、『桃だって』って言ったんだよ。
「――じゃあ、すぐ着替えてくるから二人とも待ってて」
わたしが答えると、光ちゃんはパチンと指を鳴らして「オッケー!」と返してきた。
今日はきっと、とてもドキドキする一日になる。
そんな予感を抱きながら、わたしは階段を駆け上がった。
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