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愛と元素のフェアリズム  作者: みなもとさとり
Element.1 運命の戦士フェアリズム
20/93

第一八話 絶望のエンブリオ5 -Heaven and earth, Must I remember? 5-

 戦いは優勢だった。

 空手の型から繰り出されるルーチェの炎を伴う打撃、そしてステラの磁力を伴う拳打や電撃の投射。数えきれないほどの猛攻をその身に受けるたび、シスター・ポプレの表情を覆う焦りの色が濃くなっていく。


 驚くべきはフェアリズムの攻撃を何発も受けて立ち上がる頑丈さと体力だ。シスターもまたフェアリズムと同じく、人間の姿をしていながら人間を超越した身体能力を備えているのだろうか。

 それは本人だけではなく、その身を包む漆黒のローブも同じだ。ルーチェの炎を浴びても焦げ目一つついていない。シスター、そしてそれを擁する《組織》は、底の見えない相手だ。

 とはいえ今の四対一の状況では流石にどう見てもこちらに分がある。


 ポプレは時々不意を突いて俺を攻撃しようとしたが、それはフィオーレが阻んだ。

 予想通り、そして狙い通りだ。

 何故だかわからないが、俺には絶望のエンブリオが効かなかった。こうなればポプレがこの状況を切り抜ける上で一番有効なのは、俺を半殺しにでもして人質に取り、チェーロにバルコニーの封鎖を解かせることだ。

 それを見越していたため、後衛を割り当てたフィオーレとチェーロには俺の近くにいてもらっている。


 年下の女の子たちに守ってもらうというのは正直情けない。俺にも戦う力があれば、という気持ちが沸々と湧き上がってくる。しかし現実問題としてその戦う力が無い以上、変に意地を張って格好つけても逆に足を引っ張ってしまう。


 今のところ俺の出した指示は上手くいっている。

 チェーロがバルコニーを封鎖し、フィオーレがその補助と俺の護衛。これでポプレからは逃亡という選択肢が消える。そこをルーチェとステラという二人のアタッカーが追い詰めていく。戦闘の作戦を立てて指示を出すなんてゲームでしかやったことがなかったが、首尾は上々だ。




 ――なんて状況を甘く見て、考えることを止めてしまった自分を、俺は後から思い切り嫌悪することになる。




「たぁーっ!」


 ルーチェの手刀が紅蓮の軌跡を描いてポプレを捉える。だが何の工夫もない正面からの一撃は、ポプレに両腕で受け止められてしまった。

 しかし攻撃を止められた側のルーチェは悔しがる素振りもなく、獣を思わせる好戦的な顔にニヤリと笑みを浮かべた。

 そう、ルーチェの一撃は囮だった。恐らくポプレが回避ではなく防御を選択するよう、意図的に単調な攻撃にしたのだ。

 ポプレがルーチェの攻撃を止めることに力を注いだ瞬間。そこを狙って、横からステラの拳がバチバチと放電音を立てて振り抜かれた。


「……覚悟」

「っあああぁぁ!」


 バチィッと一際大きな炸裂音とともに、ポプレが宙を舞う。そのままポプレは受身すら取れず、バルコニーの西端にある塔屋とうやの側面に叩き付けられた。

 そのまま重力に従って落下したポプレは着地すらままならず、ガクリと膝を突く。

 今度こそ仕留めた。



 ――そう思った時だった。



 倒れこんだポプレの口の端がニイッと吊り上がった。

 ガチャ、と鍵の外れる音がした。ポプレの倒れているすぐ横、塔屋のドアからだ。

 その音を聞いた瞬間、俺の身体は凍りついた。


 ――馬鹿だった。何故思い至らなかった。どうしてその可能性を考えなかった。

 思考から捻り出されるのは自分への罵倒だけだ。


「っ……!」


 俺と同じく状況を理解したらしいチェーロが息を呑んだのが聞こえた。その声にならない声のおかげで俺の身体は熱を取り戻す。


「来るなああああああああああッ!!」


 腹の底から声を出した。だがもう遅かった。

 続けざまにドアノブが回り、ドアが開いた。


「ちょっと、騒がしいけど誰か――えっ?」


 ドアから現れたのは二十歳過ぎくらいの若い女性。恐らく中等部の教師だろう。

 そして次の瞬間、女性の胸には漆黒のローブから延びた白い手が押し付けられていた。

 その指の隙間から、毒々しい紫色をしたクルミのようなものが、女性の身体に吸い込まれていくのが見えた。


「ふ……うふふ……」


 ポプレはまだ片膝をついて肩で息をしている。しかしそれでもその目はギラギラと輝いて、口の端が裂けたんじゃないかと思うほど、半月形に口角を吊り上げて笑っていた。

 それは最初に浮かべていた人を馬鹿にしたような笑いじゃなく、勝利に酔い痴れた恍惚の笑みだ。

 ポプレのヤツ、人が来るのを察知してわざと塔屋の方向に吹き飛ばされたってのか!


「ああぁぁぁ……いや……あああああ!」


 絶望のエンブリオを植え付けられてしまった女性は、頭皮ごと引き千切ってしまうのではないかと思うほど髪を掻き毟って叫ぶ。

 さっきの俺と同じだとしたら、きっと彼女の中では今、憎しみや猜疑心が際限なく膨れ上がって心を支配しようとしているのだ。


「篠原先生!?」

「千紗先生!」


 フェアリズムたちが口々に女性の名を呼んだ。やはり中等部の教師らしい。


 くそ、最悪だ。戦いが長引けば物音に気づいた誰かが屋上に上がってくる。そんなことを今の今まで失念していたなんて、俺は馬鹿か。

 ――ちくしょう、ちくしょう。


「お前、先生に何をした!」


 ルーチェが吼えた。その赤い瞳は、怒りの炎を灯している。


「シスター・ポプレ、その人から離れなさい!」


 フィオーレもまた、ポプレをキッと睨んでいる。


 二人にとって篠原先生は馴染み深い存在だったのだろうか。だとしたらマズいかもしれない。

 篠原先生を守りたいという意志。それはフェアリズムの力の根源になるものだ。だがその守りたい相手である篠原先生自身がフアンダーとなって襲いかかってきた時、果たしてどうなってしまうのか。

 ――戦うことへの躊躇となってしまうのではないか。

 

 チェーロに目配せを送る。もし他の三人が動けなかったらお前に頼む。そんな意図を込めて。

 チェーロは下唇を噛み締め悔しそうな顔をしていた。それでも俺の目配せに気づくと、ふぅっと息を吐き出して頷いた。


 そんなチェーロの態度が、俺を一層の自己嫌悪に陥らせた。

 作戦を立てたのは俺だ。チェーロはそれに応え、バルコニーの四方を風の壁で封鎖するという大役を完璧に果たしてくれていた。塔屋のことを失念していたのは完全に俺の失態だ。

 それなのにチェーロは俺を批難するどころか、まるで自分に落ち度があったかのように悔しがっていた。

 そしてその悔しさを飲み込んで、まだ俺の期待に応えようとしてくれている。


 ――何やってんだ俺は。

 くそったれ、落ち込んでるわけにいかない。


 篠原先生の雰囲気が変わった。悲鳴は止まり、さっきまで髪を掻き毟っていた手もだらりと投げ出されている。恐らく彼女は絶望のエンブリオに支配されてしまったのだ。


「フィオーレ、ルーチェ、すまない」

「「え?」」


 俺の謝罪に、フィオーレとルーチェが同時に振り向いた。


「俺のミスだ。今から多分その先生は……フアンダーになる」

「……へ?」

「ポプレが使ったのは絶望のエンブリオ……人間を無理やりフアンダーに変える実だ」

「なっ!」

「そんな……」


 二人の顔色から血の気が引いていく。

 くそ、やはり動揺は避けられないか。


「ウ……ウゥ……」


 篠原先生が呻き声を漏らす。だがその声色はもう別人のようにくぐもっていた。

 フェアリズムたちの表情に戦慄が走る。

 四人にとっては見知った人間の変わり果てた姿だ。篠原先生と面識の無い俺ですらゾッと背筋に悪寒が走ったのだから、彼女たちの心中は推し量るまでもない。


「うふふ……フアンダー、あたしがわかるかしらぁ?」

「はイ……シスたー、さマ……」


 篠原先生……いや生まれたてのフアンダーはポプレの呼びかけに応じた。他のフアンダーが「フアンダー」と叫ぶことしかできなかったのに対し、人間のフアンダーは言葉を発することができるらしい。だがその声のトーンは安定していない。まるで正常に発声した言葉を悪意を持ってミキシングしたような、不快感のある揺らぎ。

 それを聞いてポプレはハの字に眉を顰め、


「ふん……心の不安が小さい者はあまり上等なフアンダーにはならないわねぇ」


 さもつまらなそうに言った。まるで吐き捨てるように。

 その言葉で俺はポプレが屋上で何をしていたかを理解した。フアンダーにする対象を吟味していることまでは予想していたが、てっきりそれはフェアリズムに近しい人間を探し出すためだと思っていた。


 だが違った。この女はより強い不安を抱えた者を探していたのだ。強力なフアンダーにするために。

 どうやら篠原先生はあまり大きな不安を抱えていなかったらしい。ポプレにとってみれば篠原先生は良い獲物ではなかったが、緊急事態で仕方なくフアンダーにした。そういうことなのだろう。


 ――ふざけるな。


 シスター・ダイアが繰り出してきたフアンダーたちはそれぞれ心の不安を抱えていた。ダイアはそれを増幅することで彼らをフアンダーと化し、操ったのだろう。

 だがこのポプレは――絶望のエンブリオは違う。

 強制的に不安を植え付け、無理やりフアンダーにしているのだ。


 ――人間をなんだと思ってる。心をなんだと思ってる。


「どうして……」


 真っ先に口を開いたのはフィオーレだった。


「どうしてあなたたち《組織》はこんな酷いことができるの!?」

「どうしてぇ? 理由を説明したらあなたはあたしを許してくれるのぉ?」


 声を震わせながらのフィオーレの問いかけに対して、ポプレも問いかけで返した。

 フィオーレがギリッと歯軋りしたのを見て、ポプレは愉悦の笑みをこぼす。


「教えてあげるわぁ。あたしは《憎悪》を司るシスター、シスター・ポプレ。子羊たちに罪・咎・憂いを植え付ける者よぉ。酷いことをする理由? そんなのあたしが楽しいからに決まってるじゃなぁい!」


 両眼を大きく見開き、愉悦に顔を歪めるポプレ。ダイアをして「イカレ女」と形容させしめたのも頷ける。


「さあフアンダー、フェアリズムを倒してエレメントストーンを奪いなさぁい」

「はイ……グ、グオオォォォォォォ!」


 ポプレが攻撃命令を出すと、篠原先生は咆哮と共にその身を大きくよじらせ仰け反った。一瞬ポプレの命令に逆らおうとしたのかと期待したが、すぐにそれは誤りだとわかった。

 篠原先生の全身から黒い煙状のものが吹き上がり、その身を覆っていく。


 やがて咆哮が止まった時、篠原先生の姿は大きく変貌していた。全身はぴっちりとした漆黒のスーツに包まれ、顔の上半分はネコ科動物を思わせる形状のこれまた黒い仮面で隠されている。仮面はヘルメットのような被り物と一体になっていて、頭頂部から首にかけてを覆っている。

 その姿を端的に一言で表すなら、怪人ネコ女といったところか。他のフアンダーのように巨大化こそしていないが、それが逆にフェアリズムたちに「人間と戦う」ということを否応にも意識させてしまうように思える。


「先生!」

「篠原先生!」


 ルーチェ・フィオーレが篠原先生に呼びかける。だが当人はそんな二人を一瞥し、両腕を胸の高さで交叉させた。


『アなタタち、エれめんトすトーンヲよコシナサイ……!』


 篠原先生の両手からジャキッ、と爪が伸びる。その形状は人間のものではなく、獲物を引き裂く肉食獣の爪だ。


「先生、お願いやめ……ああッ!?」


 嘆願するように駆け寄ろうとしたルーチェが、呆気なく吹っ飛ばされた。


「篠原先生、そんな……きゃあっ!」


 フィオーレもまた、自身にゆっくり迫ってくる篠原先生の姿を呆然と眺め続けた挙句、拳の一振りをモロに受けて倒れる。

 ダメだ。予想できていたことだが、全く戦いになっていない。二人の側に戦う意志が無いのだ。

 フィオーレをあっさり倒した篠原先生は、ゆっくりと俺とチェーロの方に向かってくる。


「リョウくん、下がって!」


 チェーロが俺を庇うように、篠原先生と俺の間に割って入った。一方のステラはより大きく吹っ飛ばされたルーチェの方に駆け寄って抱き起こす。

 フィオーレもルーチェも意識はあったし、深刻なダメージを受けた様子は無い。すぐに立ち上がった。

 だが目の前の状況にどう対処すればいいのかわからないといった、困惑の表情を浮かべている。


『エれめんトすトーン、よコセェェっ……!』


 篠原先生がチェーロに躍りかかった。チェーロはすかさず空気の盾(エリアルシールド)で身を守り、一瞬で数発のカウンターパンチを叩き込む。

 先生は短い悲鳴を上げながら少し後退すると、すぐに軽い助走で勢いをつけて再びチェーロを襲う。

 ――と思いきや、チェーロの盾にぶつかる直前に大きくジャンプ。そのままチェーロを飛び越して、その後ろに立っていた俺目掛けて腕を振り下ろした。


「リョウくん!」

「くっ」


 なんとかサイドステップで攻撃を避ける。続けざまの第二撃、三撃も、どうにか身を捻ってかわすことができた。別に俺に秘められた戦闘能力が覚醒したなんてことはなく、単純に相手の攻撃が単調な大振りだったのに救われた形だ。

 篠原先生の変貌はフェアリズムの変身と同じだ。身体能力は大きく強化されているようだが、身のこなしは本人の知識や技術の範囲らしい。


 だが一体何故、俺を攻撃してくる? 俺はエレメントストーンなんて持っていない。俺を攻撃することにどんなメリットが――。

 そこまで考えたところで、頭上から響いてきたバルルルッという音が俺の思考を寸断した。それはさっき聞いたばかりの、ヘリコプターの駆動音にも似た音。そう、翅が空気を打ち付ける音。

 それで俺は理解した。これこそがポプレの狙い、そしてフアンダーに俺を攻撃させた理由だったのだ。


 俺がポプレの方を見た時には、既に猛スピードで飛来した三匹のスズメバチのフアンダーがポプレの身体を抱き上げたところだった。


「しまっ――」

「リョウくん!」


 ポプレの方に意識を取られた俺に、篠原先生の爪が襲い掛かる。チェーロがすかさずそれを受け止めてくれたが、そのかわりポプレに対する対処は致命的に遅れてしまった。


「うふふ……あははは! また会いましょぉ、フェアリズム」


 フアンダーたちに抱えられて遥か上空――チェーロの空気の壁より高く飛翔したポプレは、遮るものの無い空を高速で飛び去っていく。


「ステラ、ポプレを撃ってくれ! 逃がすな!」

「……虫、嫌いなのに」


 慌てて指示を飛ばす。ステラもすぐに状況を理解し、心底嫌そうな顔をしながらも渦を描いて進む電撃――エディカレントスパークを放つ。だが猛スピードで撤退に専念するフアンダーたちを捉えきれない。あっという間にポプレの姿は見えなくなってしまった。

 ステラは少し眉を顰めて逡巡したが、すぐにポプレを追って行く。チェーロの風の壁はステラを阻むことなく、ステラの姿もまた俺の視界から消えた。


 ……くそ、またも俺のミスだ。フィオーレとルーチェが篠原先生と戦えないのは予想できていた。ならば二人にはポプレを担当させるべきだった。


 ポプレは戦力を隠し持っていた。だがそれを単純にフェアリズムにぶつけても勝機は薄い。だから最も有効に使える瞬間を待っていたんだ。

 ポプレは篠原先生を「上等なフアンダーじゃない」と言った。人間ベースのフアンダーとはいえ、彼女で四人のフェアリズムに勝利できるとは思わなかったんだろう。だから囮に使った。貴重であろう絶望のエンブリオを消費してまでフアンダー化したというのに、自分が撤退するための僅かな隙を作り出すためだけに使い捨てた。

 敵ながら見事な判断力だったと言うしかない。だが、俺にはそれを予想することが本当にできなかっただろうか?

 そんなことはない。ヒントはあちこちにあった。ただ俺が目の前のことしか考えられなかっただけだ。


 相手もまた最大限に知恵を絞って勝ちに来ている。そんな単純なことを想定に入れられず、完全に俺の思考が後手後手に回ってしまった。

 別にゲームでだって、ルーチン通りの行動しかできないNPCばかり相手にしてきたわけじゃない。ビーハンでも他のゲームでも対人戦だって相当やりこんだ。でもそんなのとは重みが全然違った。

 ――これが実戦、か。


 甘かった。リーダーなんて言われて得意になっていたが、結局戦闘では足を引っ張るだけだし、指揮の面でもミスばかり。こんなんじゃ失格だ。

 たとえみんなが俺のミスを責めなかったとしても、もうダメだ。俺自身が俺を許せない。リーダーは断らせてもらおう。

 ――だがこの戦いだけは責任を果たさなきゃいけない。


「チェーロすまない、判断ミスだ。俺がバカだった」

「……ぼくはそうは思っていないよ」


 篠原先生の攻撃を捌きながら、チェーロが答えた。慎重に、言葉を選ぶように。

 気を遣わせている。それがなおさら俺を惨めな気持ちにさせた。

 だがこれ以上の謝罪も、落ち込むのも後回しだ。今すべきことはそれじゃない。


「だったらもう一つバカを頼んでいいか?」

「……先生の動きを止めればいいの?」

「ああ、流石わかってるな。バルコニーの封鎖は解いていい、全力で頼む」

「わかった」


 ほらな。いちいち俺が指示を出さなくたって、俺に考え付くことはチェーロだって考えてるじゃないか。俺じゃなくチェーロがリーダーをやればいいんだ。

 ただ、これから出す指示だけは俺がやらなきゃな。チェーロにこれ以上負担を負わせるわけにはいかない。


「……ふぅ」


 チェーロが脱力するような溜息をついた。同時にバルコニーの四方を囲っていた空気の壁がすぅっと掻き消える。


「篠原先生、ちょっと痛いかもしれないけど我慢して。ぼく()()が必ず浄化するから」


 篠原先生に向けて右手を突き出すチェーロ。あまりに無防備なその立ち姿に一瞬困惑しながらも、先生は両手を振りかぶって襲い掛かる。

 だがその攻撃は虚しく空を裂いた。


「戒めの風よ!」


 一瞬先にチェーロが叫んだ。その瞬間に猛烈な空気の渦が巻き起こり、篠原先生の身体を宙に絡め取る。


『グッ、ハなシて……!』


 篠原先生は苦しそうに呻きながら身をばたつかせる。しかしもがけばもがくほど、空気の渦は先生の身体により強く絡み付いていく。まるで底なし沼で溺れるかのように、先生の身体は自由を失っていく。無理やりに振り回した右手の爪がへし折れ、バラバラと地面に落ちた。

 バルコニー全体を封鎖できるほどの風の力を一極集中させたのだから、その拘束力は凄まじいものがあるのだろう。だが技を放っているチェーロもまた険しい顔で、額に脂汗を浮かべている。恐らく技にエネルギーを注ぎ続けているのだ。相手を圧倒しているように見えて、実際は力と力のせめぎ合いなのかもしれない。


「今だフィオーレ、ルーチェ! 浄化を頼む!」


 呆然と成り行きを見守っていた二人は、俺の指示にビクリと身体を震わせた。


「そんな……だって」


 フィオーレは言葉にならない反論をぶつけてきた。いくら気の優しいフィオーレ――桃だって、頭では先生を浄化しなければならないことくらい理解しているだろう。単純に人間に向かってフェアリズムの力を振るうのが怖いだけだ。それを自覚しているからこそ、きちんとした反論が見つからないのかもしれない。


「先生をこのままにしておいていいのか?」


 俺は敢えて責めるような口調で言った。どうせ大ポカをやらかして信頼が地に落ちてるんだ、嫌われ者くらいやってやる。


「先生を傷つけるのが怖いのはわかる。じゃあフアンダーになった先生が他の人を傷つけるのはいいのか?」


 誰にだって言えるような、何の飾りも無い正論。俺がいちいち言うまでも無く、フィオーレたちだってきっとそんなことは考えている。考えた上で葛藤してるんだってことくらい知っている。

 それでもその葛藤を吹き飛ばすためには、誰かが一方的に正論をぶつけるしかないことだってあるのだ。


「嫌だよ! 嫌だけど……」

「だったらそれを止められるのは――フアンダーを浄化できるのはフェアリズムだけなんじゃないのか?」


 責任を突きつける。力を持ってしまった者の責任、あるいは宿命と言うべきだろうか。

 どうして桃たちがそんな宿命を背負わなければならないんだ。そんな風に怒っていたはずの俺が、今はその宿命を押し付けようとしている。


 ごめんな、桃。

 でもフアンダー化した人間との戦いは、多分これから何度も起きる。今この戦いを乗り越えられないなら、この先もきっとお前は戦えない。誰かを傷つけることを恐れて、自分が傷ついてしまう。俺はそれを黙って見てるわけにいかない。

 もしここで篠原先生を浄化できなかったなら、俺はどんな手を使ってでもお前にフェアリズムをやめさせる。


「……あたし、やるよ」


 ルーチェが呟いた。

 その声は――いや、声だけじゃない、握り締めた拳も、両足も小刻みに震えている。

 それでもその瞳には勇気の炎が灯っている。


「この力は傷つけるための力じゃないって。癒すための力だって、フィオーレが教えてくれたから」

「ルーチェ……」


 ルーチェの言葉に、フィオーレの瞳にもまた決意が宿る。

 ひかる、お前が桃の側にいてくれて本当に良かったよ。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 フィオーレは俺を一瞥し、照れくさそうにはにかんだ。それから相棒ルーチェの方に向き直り、


「ありがとうルーチェ。……あたしたちで先生を助けよう!」


 力強く言った。

 きっとフィオーレ一人では選べなかったであろう選択。乗り越えられなかったであろう試練。けれどフィオーレは一人ではない。ルーチェ、チェーロ、ステラ、フェアリズムの仲間たちがいる。


「さ、フィオーレ。一緒に!」

「……うん、一緒に!」


 互いに駆け寄るフィオーレとルーチェ。

 フィオーレはエレメントストーンの指輪を外すと、右手薬指に付け替えた。それからフィオーレは左手、ルーチェは右手を、手首のところで交叉させて繋いだ。俗に言う恋人繋ぎというヤツだ。


「五行の木のエレメントストーン」

「五行の火のエレメントストーン」

『お願い、力を貸して!』


 二人の言葉に呼応し、エレメントストーンがまばゆい閃光を放った。

 どこまでも広がっていくかに見えた二色の閃光は、しかし織り合わさるような軌跡を描いて二人の繋いだ手に集まっていく。


「届け、草花のいたわり!」

「響け、炎の息吹!」

『フェアリズム・エレメンタルサーキュレイション!』


 二人が繋いだ手を突き出した。そこに集まって凝縮されていた力は再び大きく膨らんで円の形を描くと、篠原先生に向かって放たれた。


「っと!」


 チェーロが慌てて飛び退く。その口許は微笑んでいるように見えた。

 光の環がまだ身動き取れずにいる篠原先生の身体を囲った。そのまま環は凄まじい勢いで回転し始め、やがて篠原先生を包み込んだ球体へと姿を変える。


『クロージング!』


 技を放った二人が掛け声とともに繋いだ手を離した。同時にドンッっと音をたてて光球が爆ぜ、内包していたエネルギーが天に向かって放出される。


「ふあ……ぁ……」


 天を突くような光の柱の中から、篠原先生の穏やかな声が聞こえた。浄化成功だ。


 光の余韻が消え去った時、そこには元の姿の篠原先生が倒れていた。外傷はどこにも無い。チェーロが脈をとったが、ただ気を失っているだけのようだった。

 篠原先生は階段のところで倒れてたということにして保健室に運んだ。保健室を出ると、ちょうどステラ――麻美が合流してきた。結局ポプレの追跡は失敗に終わったとのことだった。

 それから俺たちは情報共有や改めての自己紹介のため、中等部の生徒会室へ向かった。


 戦果を見れば決して敗北とは言い難い内容だった。

 また、今後の戦いを視野に入れれば、フアンダー化した人間との戦いを経験できたという意味でも収穫はあった。


 しかし俺はそれ以上に、自らの失態に対する苛立ちと後悔を強く感じていた。

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