第一六話 絶望のエンブリオ3 -Heaven and earth, Must I remember? 3-
「こうなったら、しょうがないわねぇ……」
俺たちが打ち合わせを終えて戦況に目を移したのと、ポプレがローブの懐から何かを取り出したのはほぼ同時だった。
それは一見すると殻に包まれたままのクルミの実のように見える。だが色は毒々しい紫色をしている。
ひょっとして、あれが――
「そんな……あれは絶望のエンブリオ!」
俺の推察よりも早く妖精アリエルが答えを叫んだ。
そういえばお前いたのかよ。っていうかいつの間に俺の肩に乗ってたんだ……。
しかしアリエルのおかげで裏づけが取れた。やはりあの毒々しいクルミもどきは、ダイアが言っていた絶望のエンブリオらしい。
「どうして……《心のエンブリオ》は障皇様が封印してるはず……」
ポプレが絶望のエンブリオを所持していたことがよほどショックだったのか、アリエルは何かをブツブツと呟いている。
「絶望のエンブリオ? なんかワクワクする響きだね……悪い意味で」
アリエルの様子から何かを感じ取ったのか、チェーロは口調こそ茶化すようなものだったが、表情には一層の緊張感を滾らせた。
聡いチェーロのことだ、それこそが俺の説明したポプレの切り札であることを瞬時に理解したのだろう。
「ステラ、聞いてくれ!」
俺は、覚悟とともにステラに呼びかけた。
ステラは少し胡散臭そうな顔をしながらもポプレから飛び退いて距離をとると、俺の次の言葉を待った。
「チェーロには伝えたが、あれは……絶望のエンブリオは人間を問答無用でフアンダーにするものだ。あいつはこの学校の生徒をフアンダーにしてフェアリズムと戦わせるつもりなんだ」
「!」
チェーロと同様、ステラの顔も強張る。それぞれが結んだ表情こそ微妙に異なっていたが、不快感を露わにしているという点では同じだ。無言のまま、その瞳に静かな怒りを燃やしている。
「そんな……!?」
ステラにかわって驚きの声を漏らしたのはアリエルだ。
「まさか、絶望のエンブリオにそんな力が……? そもそもなんでシスターなんかがあれを……」
アリエルはまだショックから抜け出せていない。絶望のエンブリオの存在そのものは知っていても、人間を無理やりフアンダーにするという効能は知らなかったのだろうか。それとももしかすると、アリエルの知っている絶望のエンブリオはもっと別の役割を負った何かだったのかもしれない。
「あらぁ? まさかとは思ったけど、どうして絶望のエンブリオの効力を知っているのかしらぁ? こっちで使用するのは初めてのはずだけど……」
ポプレの表情に僅かな動揺の色が浮かんだ。だがそれはすぐに粘っこい笑みに呑まれて消える。
「なるほどぉ、あの子の仕業ねぇ……」
そう呟いたポプレは、恐らく同僚であるシスター・ダイアが情報源であることを察したはずだ。にもかかわらず、その口許は一層愉悦に歪み、半月を象っていた。
ダイアは会話の端々から、まるで自身が疑われることに安堵を感じているような印象を受けた。一方でこのポプレは、憎悪や敵視の対象となることを好んでいるように見える。
二人とも何かが致命的に歪んでいる。何が彼女たちをそうさせているのか、気にならないわけではない。だが今俺がすべきことはそれを気にすることじゃない。少しでもフェアリズムの力になること。無関係な生徒が絶望のエンブリオの餌食になるのを防ぐことだ。
「さあ、そいつで俺をフアンダーにしてみろ。お前にはそれしか選択肢が無いはずだ!」
「ふぅん?」
「……正気、ですか」
ポプレが驚きの声を漏らした。ステラは相変わらず淡々とした口調だが、かわりに少し顔色が変わったようにも見える。ただ事前に説明してあったチェーロと、それを聞いていたであろうアリエルは、無言のまま緊張した面持ちで生唾を飲み込んだ。
「ああ、考えられる限りこれがベストの攻略法だ」
「それはどうかしらぁ?」
口を挟んできたのはポプレだ。
「あなたみたいな普通の人間より、フェアリズムをフアンダーにする方がドキドキするわよぉ? そうしたら作戦は台無しねぇ」
「はは、つまらないハッタリはよせよ」
「……どういう意味かしらぁ?」
「絶望のエンブリオでもフェアリズムをフアンダーにすることはできないからな」
「……っ!」
ポプレは僅かに眉を顰めた。
本当はハッタリをかましたのは俺の方だったのだが、その甲斐は十分にあった。ポプレの微かな反応だけでも、俺は自らの推測が正しかったのだと確信した。
そう、ヒントはパックが言っていた言葉だ。
「あのクソ生意気な妖精の言葉がデタラメじゃなけりゃ、フアンダーは失ってしまった心の平穏を得るためにエレメントストーンを追い求めるんだったな。つまりエレメントストーンにはお前らの絶望のエンブリオとは真逆の力があるってことだ。
そして絶望のエンブリオを持ってるお前らがわざわざエレメントストーンを欲しているってことは、力関係は対等じゃない。エレメントストーンの方が強いんだ。その加護を受けるフェアリズムには、絶望のエンブリオは効かない。……違うか?」
「…………」
ポプレは答えない。だがここまでのやり取りでもう分かった。ポプレは図星を突かれると黙り込む癖がある。さっきと同じで沈黙こそが俺の推察の正しさを証明している。
「というわけだ。二人はフアンダーにされちまう心配は要らない。俺がフアンダーになったら遠慮なく戦って浄化してくれ。……頼んだぞチェーロ、躊躇うなよステラ」
「……で、でも」
ステラは珍しく狼狽が表情に表れていた。
俺に対する心配……ってわけでもないな。いや、もちろんそれもありそうだけど。一番大きいのは、自分が人間相手にフェアリズムの力を振るうことへの恐怖か。
それは無理も無いことだ。変身によってインチキじみたブーストが加わったフェアリズムたちの身体能力は、人間の域を遥かに超えている。技術はともかく純粋な基礎能力だけ見れば、たとえ屈強な歴戦の兵士だろうが世界最強の格闘家だろうが、彼女たちの前では大人と赤ん坊ほどの差があるだろう。
そんな力を人間に振るうのが怖くないはずが無い。相手が植物や昆虫なら平気なくせに命を平等に扱わないのか、なんて単純な話じゃない。それが生まれ持った本能的なものなのか、教え込まれた道徳的なものなのかはわからない。しかし同じ姿形をして同じ言葉を話す相手に対して、強大な力を振るうことにブレーキがかかってしまうのは当然だ。
もしかしたら世の中には、力を手にしたら歓喜に打ち震えて人間を襲うようなヤツもいるのかもしれない。しかしエレメントストーンに選ばれる心の持ち主がそんな子であるはずがない。
結局のところフェアリズムはフェアリズムであるがゆえに、人間のフアンダーに対して思い切り相性が悪いのだ。
チェーロだって、前もって説明できていなかったならきっと躊躇しただろう。いやきっと今でも躊躇いはある。ただ筋金入りのゲーマーであるチェーロ――優は、『これは合理的な攻略手順だ』と自分に言い聞かせて押さえ込んでいるのだ。
だが《組織》が絶望のエンブリオなんて代物を持ってる以上、フアンダー化した人間との戦いは今後絶対に避けられない。フェアリズムにとって乗り越えなければならない試練とさえ思える。
「……いいわぁ」
ポプレの雰囲気が変わった。
妖艶で酷薄な笑みを浮かべているのは変わらない。しかしそこに、凄みのようなものが加わった。
「あなたはあんまり強いフアンダーにならなそうだけどぉ……やってあげるわぁ!」
刹那、俺はポプレの姿を見失った。
――消えた?
そう思った時には、ポプレは俺の真横にいた。
俺はポプレの手が俺の腹に絶望のエンブリオを押し付けてくるのを目で追いながら、
こいつ、こんな速度で動けたのか?
本気を隠してやがったのか。
そんなことを呑気に考えていた。
みぞおちの辺りに固い感触と共に押し付けられた絶望のエンブリオは、ずぶり、と俺の体の中に食い込んできた。まるで溶け込むように、まるで侵食するように、何かが俺の意識に流れ込んでくる。
視界の端が暗くなった。
ポプレが俺やフェアリズムたちから距離をとった。
彼女は口の端を歪め、うふふという笑い声を漏らした。
さっきまで不快で不快で仕方なかったのに、今はその甘ったるい声が変に心地好い。
行かないでくれ。
もっと近くにいてくれ。
ポプレに対する、抗い様の無い思慕の情が俺を支配していく。
フェアリズムの二人に対してはその真逆だ。
狭くぼんやりとした視界の端に、辛うじてフェアリズムの二人が見える。
チェーロが心配げにこっちを見て、リョウくん、リョウくんと呼びかけてきている。
ステラは眉をひそめ、目を見開いている。
二人とも俺を心配してくれている。
それが分かっているのに、心の奥底から怒りが、嫌悪感が、憎しみが、そしてどうしようもない不安が湧き上がってくる。
作戦を立てたのは俺なのに。
任せた、頼んだ、と二人に言ったのは俺なのに。
どうして俺がこんな目にあわなきゃいけないんだ、何故俺が危険を冒さなきゃいけないんだ、そんな気持ちがどんどん膨れ上がって、二人に対する信頼感を押しつぶしていく。
視界がひび割れた。
心もひび割れた。
ひび割れた隙間からどろりと赤いものが流れ込んでくる。
ああ、もうダメだ。
作戦は失敗だった。
こんな絶望はもうどうしようもない。
フェアリズムなんかに俺を救えるはずが無い。
お前らなんかがエレメントストーンを持っていてもしょうがない。
そうだ、俺によこせ。
さあ、それをよこせ。
エレメントストーンがあれば俺は救われる。
ポプレもきっと喜んでくれる。褒めてくれる。
シスター・ポプレ。
どうして俺はあの人をあんなに不快に思ったんだ。
どうして許せないと思ったんだ。
人間をフアンダーにしようとしていたから?
世界を絶望に染めようとしているから?
別にいいじゃないか。
人間の心は弱くて脆くて汚い。醜い。
それを俺は思い知ってたじゃないか。
シスター・ポプレは正しい。
正しき行いをする女神のような存在だ。
「な、なにかしらぁ……?」
シスター・ポプレの声が聞こえた。
でも視界がほとんど赤く染まっていてよく見えない。
「確かにさっきまで大した反応が無かったのに、まさか……」
その声から気だるげで甘ったるい雰囲気が削げている。熱を帯びて、興奮しているのが伝わってくる。
「まさか、こんな絶望を秘めていたなんて……! さあ、さあさあ! 早くフアンダーになってしまいなさい!」
喜んでいる。
ポプレが喜んでいる。
俺が強いフアンダーになることを喜んでくれている。
絶望?
そうか。
これが絶望か。
道理で初めてじゃないと思った。
憶えてる。俺は一度この感覚を味わっていたんだ。
人類の夢、希望。
俺の父さんと母さんはそんな風に呼ばれていた。
それなのに。
あの事故の後、掌はあっさりと返された。
死んだ父さんと母さんに向かって、世間の奴らはなんて言った?
どんな口汚い言葉を浴びせた?
忘れるもんか、一生忘れない。
いや、忘れたくても忘れられない。
夢とか希望とか、そんなものは誰かを傷つける口実でしかない。
そんなものを守ってどうする?
いっそ無くなってしまえばいい。
みんな絶望してしまえばいい。
ダイアだって『絶望してしまえば世界は優しい』って言っていたじゃないか。
俺はその考えに共感したんだ。
共感したのに、そんな考えはいけないって思った。
考えを改めさせよう。
ダイアを救ってやろう。
そんなおこがましいことを考えた。
どうしてだろう。
俺はどうしてそんなことを考えてしまったんだろう。
俺だって絶望の中にいたのに。
絶望の優しさを知っていたのに。
どうしてそんな風に考えられるようになっていたんだろう。
……そうだ。
俺が絶望に浸っていた時、俺をそこから引っ張り出した奴らがいたんだ。
いつもと変わらずバカみたいなノリで絡んできた梶。
似合わない真面目顔で、ずっと話しかけてきたエミちゃん。
あいつらがいたからだ。
……いてくれたからだ。
視界の赤味が薄らいだ。
心の中にどうしようもなく広がった絶望感の中に、小さな――ほんの小さな別の感覚が生まれた。
それは薄っすらとした光を纏っていて、少しずつ、少しずつ、俺の心を晴らしていく。
種だ。
何故かはわからないけどそう思った。
光り輝く小さな種。
それは一生懸命芽吹き、葉を広げ、茎を伸ばし、俺の心の中を照らそうとしてくれている。
そんなイメージと共に、不意にもう一人の顔が浮かんだ。
そうだ。
俺を絶望から引っ張り出してくれた人は、もう一人いたんだ。
お人好しで、泣き虫で、そのくせ時々頑固で。
まるで花みたいに笑う少女。
大切な俺の妹。
ひび割れていた視界が砕け散った。
多い尽くしていた赤い色は弾けとんだ。
俺の視界は、心は、意識は、ただただ眩しい光に包まれた。
やがて光が薄れ、目に映る風景が輪郭を取り戻した。
中等部図書館棟の屋上テラス。
その周囲はチェーロが張った風の壁が囲っている。さっきまでと同じ光景だ。
だが、少し違うところがあった。
白地にピンクの花のモチーフをあしらったトップス。ピンクのフレアスカート。それから、お人好しで、泣き虫で、そのくせ時々頑固な顔。
目の前に、フェアフィオーレ――桃がいた。
話数追加(14/04/07)




