24 記憶と面影
芽榴と有利は来賓席に向かう。東條社長が来るまではまだ少しばかり時間の余裕があるらしかった。
東條グループといえば日本一の企業で、世界的に比較をしても指折りの大企業だ。交通やビジネス、IT関連、ありとあらゆる分野に手をのばしている。この国で東條グループの息がかかっていない会社はないといっても過言ではない。
そんな大グループの現社長、東條賢一郎が一学校に訪れる。それもアポなしとなれば、こちら側からすれば大事件である。
東條が来てしまえば、颯は彼に付き添うことになる。芽榴を借り出さなければ、有利で他の来賓全員の接待をしなければならなくなるところだった。
「藍堂くん。接待って、何すればいーの?」
芽榴が問う。もともと接待担当ではない芽榴は何をすればいいのかよく分からないのだ。
「お茶出しや挨拶などですね。基本的に来賓の方は学園の生徒の将来性などを見たいという趣旨のもとでいらっしゃっていますから、尋ねられたことに的確に答えればいいんですよ」
「それって経験値低い私には難しい気がする」
「楠原さんなら大丈夫ですよ」
根拠もないことをどうしてそんなに自信満々に言えるのか芽榴は尋ねたくなった。
「でも、東條グループの社長自らいらっしゃるなんてどういうことですかね」
「さー? 私が知るわけないよ」
たとえ麗龍学園がエリートの集まりだと言えど、世界有数のカリスマ社長自ら来賓になるなど例がないことだ。もちろん、彼の息子や娘が通っているなどという情報はない。となれば、やはりそれは大きな疑問となる。
「暇だったんじゃない?」
「一流グループの社長が暇なんてあり得るんですか……」
有利が真面目に返すので、芽榴は「冗談だよ」と笑った。
「神代くん。楠原さんを連れて来ました」
図ったようなタイミングで、丁度来賓席から出てきた颯に有利が声をかける。
「あぁ、ちょうどよかった。もうそろそろ社長が到着するみたいだ。芽榴と有利も挨拶に来るかい?」
「じゃあ、僕はお言葉に甘えて。そうさせてもらいます」
有利は即座に返した。雲の上にいる東條社長と対面するなど一生に一度あるかないかの稀有な機会だ。颯もそれを思って気を利かせてくれたのだろう。
しかし、芽榴は首を横に振った。
「私はいいや」
予想外だったらしく颯と有利も驚いていた。
「いいのかい? 社長と対面することはステータスにもなるけど」
「私がステータスに興味あると思う?」
芽榴が肩を竦めながら言うと、颯は苦笑した。
「それにほら、大社長の前で仕事慣れしてないのが目立つのはいやだし。適度な御偉い様で接待の練習をさせていただきます」
芽榴の言うことも一理あるため、颯はすんなりそれに納得し、有利とともに東條を出迎えに行った。
接待を始めると、芽榴は意外と早く接待の要領を掴んだ。
「案外やればできるもんだねー」
「だから言ったじゃないですか」
一人呟きながらお茶を注ぐ芽榴の隣にヒョコッと顔を出して有利が言った。芽榴は思わず紙コップを落としそうになるのだが、さすがと言うべきか、有利がキャッチしてくれた。
「ありがとー」
「いえ。驚かせてしまってすみません」
有利は芽榴の横に立って茶を注ぎ始めた。芽榴はその様子をチラッと横目で見る。少し何かを考えるような顔をした後、芽榴は口を開いた。
「それ東條社長に持ってくのー?」
「あ、はい」
芽榴は近くにあった紙コップを手に取り、水をいれて有利に渡す。
「え……?」
「東條社長。カフェインは駄目だったはずだからそっちを持って行ったほうがいーよ」
「そうなんですか?」
芽榴は頷いて、他の来賓に配る緑茶のコップをお盆にのせる。芽榴がそれを持ち上げようとすると、有利がお盆を奪った。
「藍堂くん?」
「やっぱり楠原さんも社長に会ってきてください」
「え? さっきも言ったけど、私は……」
「そんなに尊敬している人なら会うべきです」
芽榴は『そんなに』の意味が分からず、少し考える。そしてすぐにその理由に思い至った。
芽榴は東條がカフェインが駄目なことを知っている。そんなことは余程その人物について調べていなければ分からないことだ。
それを踏まえて有利は芽榴が東條のファンと結論づけたのだ。
「だからこっちは僕がしておきます」
「ちょっと待って……!」
有利は芽榴の返事を聞かずに、お盆を持って来賓席に向かった。
「尊敬してるのは、確かだけど……」
芽榴は水の入ったコップを眺める。その呟きは誰の耳にも届くことはなかった。
芽榴は来賓用とは別の理事長や校長のいるテント席へと足を運んだ。
「……そうですね。特に役員は僕の選び抜いた優秀な人材が揃っています」
颯の声が聞こえ、芽榴は少しホッとした。颯と東條の後ろ姿が芽榴の目に映る。理事長や校長が東條の隣で機嫌を窺っていることは今入ってきたばかりの芽榴にもすぐに分かった。でもそれは当然なことで、平然とした顔で喋っている颯の器の程が信じられないくらいだ。
「たとえば……あれ? 芽榴が来たのかい?」
振り返った颯の顔が少し綻ぶ。颯は後ろを指して東條に芽榴の紹介をした。
「彼女は最近役員になったばかりなのですが、かなり優秀で……。社長?」
颯は訝しむように東條を見ていた。それも無理はない。東條は紹介の最中というのに依然、芽榴に背中を向けたままなのだ。
東條も颯の反応で、自分の行動がおかしいことに気づき、何かを落ち着かせるように深く息をはいた。
振り返る東條の姿に芽榴の肩がピクリと揺れる。
絡み合う芽榴と東條の視線。
一瞬そこだけ時が止まったような気がした。
『もっと、お父さんを笑顔にできるくらい……立派な人間になったら』
芽榴の頭の引き出しから古い記憶が蘇る。
過去の記憶など、ほとんどいいものはない。
油断すれば、凛とした大きな背中と暗い部屋の中がすぐに頭に浮かぶ。
芽榴はすぐに引き出しに鍵をかけ、心ごと閉じ込めた。
芽榴も東條もお互いに顔色一つ変えず、見つめ合う。
とても洗練された空気にも感じられ、なぜか自然とそこには静寂が生まれた。
「……あ……」
沈黙を破ったのは東條だ。しかし、彼の口からは少し声が漏れたくらいで、それ以上何かしらの言葉が紡がれることはない。どこか歯切れの悪い東條を見る芽榴の顔は苦しそうだった。
「……はじめまして。楠原、芽榴です」
小さいがはっきりとした声で芽榴は自分の名を告げた。東條は少し嗄れた声で「……はじめまして」と返した。
芽榴は肩の力を抜いて静かにゆっくりと近づき、お盆に置いてあるコップを東條の前に置く。
「水? お茶が切れていたのかい?」
「ううん。あったけど……」
颯が不思議そうに芽榴を見る横で、東條は目を見開いていた。
「……あぁ、神代くん。私はカフェインが駄目だから水のほうがいい」
東條がそう言うので、颯は黙った。
「それでは失礼します」
芽榴は特に東條と会話をしようとはせず、すぐに踵を返す。
「……楠原さん」
東條が芽榴を呼び止め、芽榴は振り返る。芽榴の瞳は驚きに少し揺れていた。
「お水を、ありがとう」
「……いえ」
芽榴は軽く一礼して今度こそ自分の持ち場に戻る。その仕草は颯には少し素っ気ないようにも感じられた。
「あの子は、どういう子ですか?」
東條が芽榴の後姿を見ながら颯に問うと、颯は優しい笑みを浮かべた。
「責任感の強い子です。自分から積極的に何かに取り組むというようなタイプではありませんが、一度やると決めたことは絶対に成し遂げる。それだけの力量を持った素晴らしい子です」
颯も東條に倣って芽榴の後姿に目を向けた。
「社長はあの子が気になりますか?」
長らく視線を外さない東條に、今度は颯が問いかけた。東條は僅かの時差をもって静かに口を開く。
「亡くなった妻に、よく似ているものでね」
その時颯が見た東條賢一郎という人間はすごく寂しげで儚かった――。




