花の贈り物
本を閉じて何分も待ってみたのに、少しも動悸が収まらなくて、私は途方に暮れてしまった。
クピドの色っぽい歌声や、きれいにレムール語訳された詞藻や、一緒に天体望遠鏡をのぞいた夜のことなどがバラバラに蘇ってきては、何度も私を打ちのめす。すばらしい歌声と哀切なメロディ、切ない詩の内容などが繰り返し脳裏に浮かんだ。
私はあのとき、シリウスと肩を寄せ合い、頬をくっつけるようにして望遠鏡をかわるがわる覗き込んだのだ。星明かりがまぶしかったから、シリウスの青い瞳におおぐま座やこぐま座が映り込むのをごく間近にとらえられた。
今にして思えば、どうして何も感じずにいられたのかと思う。
彼の話すおおいぬ座の神話は耳に心地よかったし、青白く輝く一等星が見かけ上動いている範囲を測定するとかいう最新理論は聞き心地のいい声に反して難しすぎ、眠気を誘われた。
眠ってしまうのはまずいと分かってはいたけれど、彼のそばなら安心できると、そう思い込んでいた。
でも、次は、シリウスにどんな顔をして会えばいいのだろう。
***
翌日の朝、早くにピンク色のかわいらしい花束が届いた。薄く平べったい花弁のふちはゆるやかに波打っており、ピンク色のフリルを連想させる。スイートピーの花だった。クレスケンティアの道端にはいくらでも咲いているような花だったが、その花束は品種改良されているのか、色鮮やかで甘ったるい匂いがした。
添えられたカードには『本物のパスタのお礼に』と書きつけてあった。署名には『女王たちの燕より』とある。
「あたしと、グラツィアにってさ。参ったねえ、ヴィルトゥスに見つかったら大喧嘩になっちまうよ」
マイアが冗談を言いながら花を半分わけてくれた。
マヨルカ焼きの青い花瓶に入れられた花束の華やかな香りに、なぜかシリウスがいつも身に着けているベルガモットの香りを思い出してしまい、私はひとりで恥じ入ることになった。
クレスケンティアやレムールでは、女性に花を贈ることにさほどの意味はない。男性はいつでもどこでも思いついたらすぐに花をくれる。私もおじさまから数えきれないくらいお花をいただいた。
でも、シリウスはそんな私を見て、むしろ呆れていたはずなのだ。社交や漁色よりも経済的な合理性を優先させるような人だから、意味もなく女性に花を贈ったりなんかしない。そのせいで、周囲からはほとんど変人だと思われているくらいだった。
「こんなの……わたくしにどうしろっておっしゃるの?」
まわりくどいけれど、確かに彼は私に告白をしている。
宮廷ではこうしたことが起きるとは聞いていた。だから、よくよく気をつけなさい、といつも言われていた。言っていたのはシリウスだ。そのシリウスがこんなことをするなんて。
暇を持て余した貴婦人たちのあのやり取りが、私の身の上にも起こっているのだと思うと、それだけで自分がたまらなく背徳的な存在になったような気がした。
私はため息をついて、円卓に伏せた。行儀が悪いのは承知していたけれど、とても顔をあげていられるような気分ではなかった。シリウスからもらった詩の本に浮かれた気持ちをかきたてられればかきたてられるほど、私を王女として扱ってくれた人たち全員を裏切っているようで、苦しかった。
私は宮廷で恋愛遊戯をするためにレムールに来たわけじゃない。
王国の未来がよりよいものになるように、尽くす義務がある。
大きな宝石も、きらびやかなドレスも、ゆったりとしたソファをそなえた趣味の良い小部屋も、みんなみんなそのためにある。
もしも私が父親に、結婚相手にはシリウスを選んでくれるようにとお願いしたら、きっとあらゆる方面に多大な迷惑がかかってしまうことだろう。
私がレムールとクレスケンティアの統一君主として選ばれるのなら、当然のようにレムールの王位請求者が私の夫として名乗りをあげることになる。ルガーノ伯爵家は名門だけれども、並み居る傍系王族たちを退けてシリウスが選ばれる状況になるとは、とうてい思えない。もっと言えば、デメリットの方が大きすぎる。ないがしろにされた王位請求者たちは私の支持基盤から外れるだろう。それは時代錯誤にも国王と貴族が全権を握っているこの国において、致命傷にも等しいことだった。私もあのニーナと同じように、社交界から締め出されるに違いない。
リカルダに婚約破棄をされても、私のすることは変わらないのだ。
もっとも条件のよい相手と結婚し、クレスケンティアのためになる道を模索する。
私はそこでふと、パーティへの招待状のことを思い出した。
学園から戻って以来ずっと、ほうぼうから送られてはきていたが、自主的に謹慎していたのだ。
その中に、傍系王族ヌボロ公爵の集いがあった。
――あれに出れば、わたくしも少しは皆さんのお役に立てるかしら……
私はシリウスからもらった花束への後ろめたさに追いやられるようにして、パーティへの参加を決めてしまった。
***
ヌボロ家の集いは宮廷よりも砕けた雰囲気で、よく見知った顔ぶればかりが集まっていた。
玄関ホールにある見事なメドゥーサの彫刻の足下で、久しぶりに再会したヌボロ公爵夫人は、私のことを言葉を尽くしていたわってくれた。『あんな仕打ち、まともな貴族であればとうてい屈辱に耐えられない。決闘沙汰になるところだ』とまで言われてしまい、私が憤激した彼女を慰めなければならないほどだった。
「アーダルベルタ伯爵はいかがなさったの?」
私のエスコートが大使夫人のマイアに代わっているのを目ざとく指摘するヌボロ公爵夫人に、私はあらかじめ用意しておいた嘘の言い訳をした。ヴィルトゥスは私の父に密談があって、すでにレムールを離れているとは言えなかったのだ。
マイアに付き添われながら、ダンスホールへと向かう。
天井いっぱいに広がる『プシュケの結婚』のフレスコ画の下で、数えきれないくらいの男女が談笑している。まだダンスの開始には時間があるようだ。その横を通り過ぎて控えの間に行った。金の刺繍が入ったブロケード織のマットレスに、赤や青のドレスの貴婦人が集まって、熱心に話し込んでいる。
私も仲間に入れてもらおうとしたところで、彼女たちがざわついた。一斉にひそひそとささやきかわしながらダンスホールを振り返る。
私もつられて振り向くと、よく見知った灰色の髪の男がいた。シャンデリアの光の王冠をかぶり、白いタイの燕尾服を着たその男は、周囲の注目などものともせずに、まっすぐこちらに歩いてくる。
「ルガーノ伯爵よ」
「お珍しいこと」
「『レムール議会のアポロン』……」
「アポロンなどといって期待してはいけないわよ。あの方、エデア様みたいに『清らか』らしいから」
さながら美しいけれども奇妙な南国の鳥のように、好奇と揶揄を込めてうわさされていることがおかしくて、私は微笑んでしまいそうになった。
シリウスは、私の目の前で立ち止まった。
「おや、王女殿下ではないですか。あんまりお美しいので、フレスコ画のプシュケと見間違えて、通り過ぎるところでした」
彼は言いながらも笑っていた。聞きなじみのあるからかい声に、私もついつられて笑ってしまう。
「アーダルベルタ伯爵がご不在の今、またとない好機だと思いまして馳せ参じました。ダンスの予約はまだ空いていますか?」
「ええ、もちろん」
「それはよかった。空いている場所はすべて私が差し押さえさせていただきますので、これ以上はもうどなたとも踊らないでくださいね」
私は彼の冗談に苦笑以外何も返せなかった。
「……いえ、冗談だとお思いでしょうけど、私は本気で申し上げているんですよ。グラツィア様」
にこやかだった彼からすうっと表情が消える。色素の薄い瞳のせいで、微笑んでいないと氷のように冷たく映る彼の美貌に、私はドキリとした。




