悪役令嬢に転生しましたが、推しの幸せを見守るため雑草役令嬢への転向を希望します!
わたくし――エリシェラ・リンドグレンの運命が変わったその日は、とても美しく晴れ渡ったよい天候でございました。
きっかけは、ほんの些細なこと。
婚約者であるルーカス殿下とのデート中、わたくしは泉へ足を滑らし落ちてしまい……。そうして、すべてを思い出したのです。
◇◇◇◇◇◇
「ルーカス殿下、本日はお誘いいただきましてありがとうございます」
「こちらこそ。君とデートがしたかったんだ」
「まぁ……。わたくしもですわ、殿下」
森の奥にある泉のほとりを殿下と並んで歩きながら、わたくしはそっと口元を緩めました。
隣にいらっしゃるのは、大国ローデンティアの王太子であらせられるルーカス殿下。
わたくしたちは、国や家によって決められた許嫁でございました。
わたくしは公爵家の生まれで、父は大臣を務めております。その上、国王派閥の有力な側近。
この婚約には、家柄の釣り合いだけではなく政治的な意味合いも多分に含まれておりました。
わたくしと殿下の婚姻は、虎視眈々と国王の座を狙う王弟殿下一派への牽制にも繋がる。
幼い頃より、そう両親から教育されてまいりました。
(……政略的な婚約であると言っても、わたくしは殿下のことを好ましく思っておりますけども)
ですが、きっとルーカス殿下は、わたくしのことをなんとも思っていらっしゃらないのでしょう。
わたくしたちは長年、仲睦まじい婚約者のように振舞ってまいりました。それが、暗黙の了解であり、義務でございました。
わたくしたちの間にあるのは、決して甘い蜜のような関係ではありません。
殿下はいつも、穏やかな翠の瞳でわたくしを見つめてくださいます。
けれど、その瞳の奥にあるのは無であると、幼なじみであるわたくしにはわかっておりました。
(……この方はわたくしに、特別な興味などお持ちではないのでしょう)
わたくしは、殿下にデートへ誘っていただけるだけで、舞い上がりそうな程に心が踊るのに。
きっとこの方は、婚約者としての義務感で、わたくしをデートに誘ってくださっただけなのでしょう。
(わたくしが殿下をお慕いしているなんて、きっとご迷惑にちがいありませんわ)
殿下は、完璧な王太子でございます。
誰に対しても恥ずかしくないようにと、彼が人一倍努力されていることをわたくしは知っておりました。
だからこそ、彼の隣に立つわたくしも、完璧な令嬢でなくてはならない。
胸の苦しみも恋情も心の奥に押し込めて、わたくしは今日も完璧な微笑みを浮かべるのです。
「それにしても殿下、どうして今日はこちらに?」
わたくしは周囲へと、ゆるやかに視線を向けました。
深い木々の間で、泉が静かな水面をたたえています。
「……この泉には王家にのみ伝わる言い伝えがあるんだよ」
「まぁ。そんな大切なものをわたくしに教えてくださるのですか?」
「何を言う。君は俺の婚約者。将来の王妃。王家も同然じゃないか」
殿下へ微笑みを返しながら、わたくしの胸には小さな期待が芽生えておりました。
――もしかしたら殿下も、ほんの少しくらいはわたくしを憎からず思ってくださっているのかもしれない。
(……いいえ。そんなこと、あるはずがない)
胸に湧いてしまった淡い期待を、わたくしは自分自身で押し潰しました。
「……そのようにおっしゃっていただけて光栄ですわ。それで、どのような言い伝えで?」
「泉を覗けばその人の未来や過去が見える――そんなおとぎ話じみた言い伝えさ。おもしろいだろう?」
殿下のその言葉に、わたくしの心臓がどくりと音を立てたような気がしました。
(もし、本当に未来が見えるなら……)
この先の未来、わたくしは殿下のそばにいられるのでしょうか。
(……知りたい)
「それは、興味深いお話ですわね、殿下」
泉の水面が、まるでわたくしを誘うかのようにきらりと光りました。
その光に導かれるように、一歩踏み出して……。
「あ……っ」
地面から浮き出た木の根に足を取られ、わたくしは前のめりに倒れてしまいました。
視界が揺れ、身体は一直線に泉へと傾いでいきます。
透き通る水面が迫ってくるのが、なぜだかゆっくりに感じられました。
「エリシェラ!!」
冷たさを感じたのはほんの一瞬。
泉に身体が包まれた瞬間、脳裏には奇妙な映像が次々と流れ込み始めました。
見慣れぬ四角い建物が立ち並ぶ街並み。
夜でも煌々とした光に包まれた駅前。
そして、画面の向こうで微笑む『推し』のキャラクター。
その映像を見た瞬間、わたくしは理解したのです。
わたくしが前世、地球という惑星に生きる日本人であったということ。
二十有余年の人生を、不慮の事故によって幕を閉ざしてしまったこと。
忙殺される日々の中、唯一の癒しが乙女ゲーム……いわゆる女性向け恋愛シュミレーションゲームであったことを。
そして――。
「なにをしてる! エリシェラ……!」
「…………でん、か?」
聞き慣れた声に、わたくしはゆっくりと顔を上げました。
どうやら殿下に助けられたようだと、遅ればせながら察します。
お礼を伝えようと目を彷徨わせ、はたと翠の瞳と視線が合いました。
そして、あまりにも信じがたい事態に気づいたわたくしは、目を見開くしかなかったのです。
「って、ええ!? ちょっと待って、殿下ってあのルーカス様……っ!? 推し……人生の推しが目の前にいる! なんで――!?」
ルーカス殿下が、前世のわたくしが最も愛していた乙女ゲームの攻略対象である、ということを。
「…………は?」
遠のく意識の中で、はっきりと理解してしまったのでした。
◇◇◇◇◇◇
泉に落ちたからか、それとも前世を一度に思い出したからか。わたくしは熱を出してしまい、結局デートはお開きとなってしまったようでした。
次に気がついた時には、屋敷の自室のベッドで寝かされておりました。
重い身体をおこして、わたくしはどうにか姿見の前へ向かいます。
(終わった……)
悲報、人生終了のお知らせ――。
そんな間抜けなことを考えてしまったのは、前世を思い出した影響でしょうか。
よたよたとした足取りで向かった鏡の前で、わたくしは盛大なため息を吐き出しました。
腰のあたりまでゆるやかに流れる金の髪に、少しつり目がちな青の瞳。
いつもならなんとも思わない自分の姿が、今はただ憎らしいとしか思えませんでした。
何故ならば私の姿は、先程思い出したばかりの前世で大好きだった乙女ゲーム、に登場する悪役令嬢――エリシェラ・リンドグレンその人でしかなかったからです。
「どうしましょう……」
乙女ゲーム『祝福のローデンティア』。
それは、聖女に選ばれた主人公と、聖女を守護する騎士に選ばれた6人の男性との恋模様が描かれたノベルゲームです。
その中でも、ルーカス殿下は圧倒的人気を誇るメイン攻略対象なのでございました。
冷静な完璧主義で美しい彼は、聖女騎士の任に集中したいからという理由で、聖女が現れた直後にエリシェラとの婚約を破棄なさいます。
(そこもまた高潔で素敵、と前世のときは思っておりましたけども……)
今世のわたくしからしてみれば、複雑な状況でしかございません。
想いを寄せる婚約者に捨てられる立場なわけなのですから。
しかもそれだけではありません。
ゲームにおいてエリシェラは、どのルートにおいても主人公に立ちはだかるライバルキャラです。
殿下をとられた恨みから、ことある事に主人公の前に現れ、聖女の任務や恋路の邪魔をいたします。
そうして、最終的に聖女の命を狙ったエリシェラは断罪され、公爵家からも国からも見捨てられ追放される運命……。
「……悪役令嬢なんて、ぜーったいに嫌ですわあぁぁ」
鏡の中のわたくしが、涙目でこちらを見ていました。
唯一の救いといえば、物語の開始時点までに一年程の猶予があるということくらいでしょう。
「殿下に捨てられるのも嫌ですけど……」
それより何より嫌だったのは、主人公ちゃんの邪魔をすることでございました。
彼女は、前世の私にとって、自分の分身です。
愛着のある愛しの主人公ちゃんをいじめる趣味など、わたくしには存在しないのです。
「だったらそれよりも前に、わたくしから婚約破棄を申し出てみようかしら……」
傷は浅いうちのほうがよいでしょう。
傷つけられるよりも先に、自分から逃げた方が賢いでしょう。
それに……。
「どうせ捨てられる運命なら……わたくしは殿下と主人公ちゃんのイチャイチャがみたい……」
わたくしの口からこぼれでたのは、もはやただの願望でございました。
(そう、どうせわたくしの想いは叶わないんだから! ひっそりと! 物陰から! まるで雑草のように佇んで!)
スチルのように麗しい状況を、背後から楽しみたいではないか!
殿下と主人公ちゃんのイチャイチャを見るため。
そして、わたくし自身が破滅しないため。
「雑草役令嬢に……なってみせようではございませんか!」
咲かせてみせましょう、雑草の花道!
物語の端っこで、そよそよと揺れる雑草のように。
強くたくましく慎ましやかに生きていこうではありませんか……!
◇◇◇◇◇◇
そう決意した二日後。
わたくしは、殿下に婚約破棄を申し出るための言葉を鏡の前で練習しておりました。
熱は引き、思考も良好です。
この二日の間考え続けましたが、殿下から一旦距離を取ることは、やはり現状取れる最善策だと思われました。
「殿下、わたくしと婚約破棄してくださいませ……。……ちがいますわ。もっと、こう、毅然とした態度で……。殿下、わたくしは……」
ぶつぶつと独り言を繰り返していると、短いノックの音が室内に響きました。
すぐに、慌てた様子の侍女が部屋へ飛び込んで来ます。
「お嬢様……っ! ルーカス殿下がお見舞いにいらっしゃいました!」
「え……っ!?」
推しが……来た……?
あのルーカス殿下が、わざわざわたくしのお見舞いに……?
「いや無理! 無理無理無理! 心の準備が!!」
無理です無理です。
前世を思い出す前ならいざ知らず、思い出してしまった今となっては、殿下にお会いするのにそれ相応の心構えが必要です。
肩にかけていたブランケットを胸の前で握りしめて、わたくしは敵前逃亡を試みようと部屋の隅でちぢこまります。
しかし、付き合いの長い侍女たちは容赦がありません。
「お嬢様、ほら、お立ちになってください! 殿下をお待たせするわけはいきませんでしょ!」
「お嬢様を心配して来てくださったんでしょう? ほんと仲がよろしいんですから〜!」
「ちょっと待って……! (推しに会うには)心の準備が足りてないんですの……!!」
そんな大騒ぎの末、わたくしは抵抗むなしく侍女たちの手によって、客間の前まで引きずられていきました。
そして、客間の扉の隙間から覗き見てしまったのです。
人生の推しを。
目の前で。
(あわわわ……。改めて見るとなんって美しいのでしょ……! 思い出す前のわたくしは、なぜ平然とあんな美形の前に立っていたのかしら!? 尊いがすぎる……!)
困惑する中扉の隙間から殿下をガン見していると……。
当の殿下本人と、パチリと目が合ってしまったのです。
「……エリシェラ。そこで何をしているのかな?」
「ひい!」
殿下から声をかけられて、わたくしは飛び上がらんばかりに驚いてしまいました。
なにせ空気すらも輝かんばかりのイケボでございます。思い出す前のわたくしは、なぜ平然と(以下略)。
「ほら、お嬢様! 殿下がお待ちですよ! さっさとお入りくださいな!」
「何があったかは存じませんが、ルーカス殿下なら大丈夫ですって~」
背後から侍女たちの声援が飛んできます。
わたくしは覚悟を決めるようにブランケットをぎゅっと握りしめると、客間へ続く扉に手をかけました。
「も、申し訳ございません、殿下。前世の推しの来訪にすっかり気が動転してしまいまして……」
もはや自分が何を言っているのかも分からない状態です。
どうにか場を取り繕おうと愛想笑いを浮かべながら、わたくしはソファへ座る殿下の向かいへと腰を下ろしました。
「体調はもう平気?」
「ええ、ご心配おかけしましたわ。来週からは学院にも顔を出せるかと思います」
声だけは、いつも通りを装ったつもりです。
けれど、どうしても殿下の顔は見られそうにありませんでした。
(だって最推しですのよ!? 数多の乙女ゲームの中で一番好みの攻略対象!! それをこんな間近で直視とか、失明してしまいますわ!!)
しかも――。
「あの殿下が……わざわざお見舞いに来て下さるなんて……」
恐らく殿下は、婚約者としての義務感で来られたのだと、わかっております。
それでも彼が、わたくしのためにわざわざ時間を割いて足を運んでくれたことが、たまらなく嬉しかったのです。
「はぁ……。我が推しはなんて尊いのかしら。これは主人公ちゃんの登場が待たれますわね……」
わたくし相手でこれならば、主人公ちゃんが現れたらどうなるというのでしょう。
甘い言葉を囁きまくる殿下を、早く覗き見したくて仕方がありません。
とかなんとか妄想を捗らせていましたら、殿下が怪訝そうな瞳でこちらを見つめておりました。
わたくしは反射的に口元を押さえます。
(いけない……。将来的に覗き見するためにも本題に入らなくては……)
殿下と2人きりで落ち着いて話せる機会などそうある訳ではありません。
今こそが、婚約破棄を申し出る絶好の機会なのでしょう。
「で……殿下。真剣なお話がございますの。聞いていただけますでしょうか」
「なにかな」
震える声を落ち着かせるため、わたくしは一度深呼吸をしました。
(言うのよ、エリシェラ。これは、わたくしのためだけではないの。ひいては殿下の幸せのためよ。わたくしは、隣にいてはいけないのだから)
彼の隣に立てるのはわたくしではありません。
主人公ちゃんなのです。
だからこそわたくしは、雑草役の令嬢として生きると決めたはずです。
覚悟を決めると、わたくしは殿下を真正面から見つめました。
「わたくしとの婚約を破棄してくださいませ……!」
「…………はぁ?」
殿下が訝しげに眉をひそめます。
それでもわたくしは、止まることなく言葉を続けました。
「わたくしはこの先の未来、殿下に捨てられる運命なのですわ。先日、泉を覗き込んだ時にはっきりと思い出し――じゃなくて、理解いたしましたの」
(さすがに、前世のことは言わない方がいいですわよね?)
泉の伝承は、殿下本人が口にしていたことです。頭から否定はされないでしょう。
けれど、前世がどうたらと詳しく説明したところで、受け入れてくださるとは思えませんでした。
突飛であろうわたくしの発言に、殿下はしばしの間、何やら考え込んでいる様子でした。
「急にそんなことを言い出すなんて……。やはり、まだ体調が優れないのかな?」
やがて殿下はこちらへと身を乗り出すと……、わたくしの顔を覗き込んできたのです。
「ひいい! ちっか! 無理無理無理無理神々しすぎて無理!!」
ご尊顔が眩しすぎます!
前世を思い出す前でさえ、こんなに至近距離で殿下を見たことなどありません。
すっかり混乱しきってしまったわたくしは、どうにかまばゆい輝きから逃れようと、ソファへ張り付くように体を後退させます。
「そんなに俺のことが嫌いだったのか、エリシェラ」
(……!!)
聞いたこともない声色が殿下から発せられて、わたくしははっとしました。
「ちっ、違いますわ! 断固として!!」
気づけば、殿下の声に被せるようにして、否定の言葉を発しておりました。
わたくしが殿下のことを嫌うだなんてこと、天地がひっくり返ったとしてもありえないことです。
「殿下は今までプレイしてきた乙女ゲームの攻略対象中、最推しの最推し! 前の人生でのわたくしの生きる糧! そしてこれからも永久にわたくしの――」
わたくしが勢いを止められないまま、殿下への想いを熱く語っていたその時でした。
「殿下ぁぁぁぁ!!」
廊下の向こうから地響きのような足音と声が響き、なんとお父様が乱入してきたのです。
父は殿下へ向かって、深々と頭を下げました。
「も、申し訳ございません、殿下! 娘はまだ熱があるようでして! それはもう大層な高熱で! 幻覚を見ているようでして! どうかお気になさらずに!」
お父様のその発言は聞き捨てなりません。
わたくしは至って平熱、正常です。
「お父様!? わたくしは幻覚など――」
「黙りなさい!」
言い返そうとしたわたくしの声をかき消すように叱りつけると、お父様はわたくしの腕を強く掴んでソファから立たせました。
「殿下、本日はこれにて……! 申し訳ございません!」
そのまま強い力で、わたくしを引きずっていきます。
「お父様ったら! わたくしはまだ殿下にお話したいことが……!」
じたばたと抵抗を試みますがお父様に敵うことなく、わたくしはその日自室へ閉じ込められたのでした。
◇◇◇◇◇◇
「菜園……を作りたい?」
「はい! ぜひとも!」
学院の職員室にて、怪訝そうに眉を寄せる教師に、わたくしは勢いよく頷きました。
――数日前のあの日。殿下に婚約破棄してくださいと申し出た直後、「婚約破棄だなどと馬鹿なことを言うな! 死んでも言うな!」とお父様からこっぴどく叱られました。
まったく、お父様は呑気なものですわ。
こちらは今後の人生がかかっておりますのに。
さらに、昨日わたくしは思いつきました。
一人でもたくましく生きていくためには、自給自足の知識が必要なのではないか、と。
そこで早速、屋敷の庭を菜園へと全面改装しようとしたものの、わたくしの活動を聞きつけたお父様に「頼むから大人しくしていてくれ」と泣きつかれ、あえなく断念。
もうこうなれば、学院でやるしかありません。
「自ら作物を育てることによって、領民の心を知りたいのです」
(わたくしは、いずれ追放されるかもしれない身)
「貴族の学び舎たるこの学院で育てることにこそ、意義があると考えましたの!」
(今できることを頑張らなくては……!)
わたくしは最もらしい言葉を並べ、切々と教師へ訴えかけます。
「……学年主席のあなたが言うなら、必要なんだろう。平民と同じ視点に立ちたいなんて貴族の鑑だな……。中庭に空いているスペースがあります。そこをお使いなさい」
「! ありがとうございます!」
◇◇◇◇◇◇
そうして許可を得たわたくしは、その日のうちから菜園作りを始めることにいたしました。
用具倉庫から必要な用具を借りこんで、せっせと畑作りに勤しみます。
土をふかふかに耕し、苗を植え、支柱を立て……。
(あとは……、肥料とお水をあげたいところですわね)
たしか肥料も、用具倉庫にあったはずです。雑多に用具が詰め込まれた倉庫内を探っていますと、隅の方に積まれた肥料袋を発見しました。
『栄養満タン! 美味しい野菜のための肥料!』
とても効き目がありそうです。
「よい、しょ……っと」
早速肥料袋を両手で持ち上げようとして――、袋を宙に浮かせたまま、わたくしは固まってしまいました。
……重い。非常に重たいです。
腕はぷるぷると震え、今にも袋を落としてしまいそうです。
(……いえ、このくらいの重さ、前世のわたくしなら余裕でもてたはず……)
……重い。腕がちぎれそうです。
先程用具を使った時にも、感じてはいましたが、見て見ぬふりをしていました。ですが、直視せざるを得ないでしょう。
今世のわたくしの身体は、肉体労働に不向きなのだということを。
(それも当然ですわよねぇ……)
わたくし、エリシェラ・リンドグレンは、蝶よ花よと可愛がられて育てられた公爵家の令嬢。
箸より重い――ならぬ、スプーンより重いものなど、そうそう持ったことなどありません。
「……負けて、なるものですかぁ……!」
これは、雑草役令嬢を志すものとしての意地。
ここで肥料なんぞに負けては、リンドグレンの名が泣きますわ!
わたくしがどうにかこうにか肥料袋を持ち上げて、ふらふらと歩き出そうとすると……。
「り、リンドグレン嬢、大丈夫……? 良かったら運ぼうか?」
わたくしのあまりのへっぴり腰に見かねたのか、クラスの男子生徒が声をかけてくださったようでした。
(天の救い!!)
「お願いいたします……!!」
差し伸べられた救いの手に涙目で飛びついてしまった自分が、情けなくはありました。
立派な雑草役令嬢への道のりは、まだまだ遠そうです。
「ほんっとーに、助かりましたわぁ……」
「いや、これくらいお安い御用だよ」
彼は、肥料袋を軽々と花壇の方へ運んでくださいました。
なんとお優しい方なのでしょう。
わたくしと比べて、腕のたくましさといったら……。
雑草役令嬢に必要なのは、自給自足の知識だけではありません。筋力です。
(つまり、わたくしに今後必要となってくるのは筋トレ……!)
そんなことを考えながらも、ありがたく男子生徒から肥料袋を受け取った、その時でした。
「エリシェラ」
低く響く声とともに、ルーカス殿下がわたくしと男子生徒の間に割り込んでこられたのは。
「君……俺の婚約者に何か用かな?」
一体どうされたというのでしょう。
見上げた殿下の瞳が、いつもと違うような気がしました。
いつもよりも、冷たさが強いような……。
「殿下!? あ、あの、これは……!」
その違いを彼も察したのでしょう。肥料袋をまるで盾のようにして、殿下の方へ掲げております。
「ひ、肥料です! リンドグレン嬢が重そうに抱えていらっしゃったので……! ただ運ぶのを手伝っていただけでして!」
「肥料……?」
「そ、それでは失礼いたします!」
なぜだか殿下は困惑を深めているようでした。すっかり眉をひそめております。
その隙にか、男子生徒は走り去っていってしまいました。
「あら、運んでくださったお礼を伝えそびれたわ……」
残念です。
次にお会いした時にはお礼と……、筋トレの極意をお聞きしなくては。
「……それで、エリシェラ。何をしていたんだ……?」
「あら、もしかして殿下もご興味がおありですの?」
殿下から尋ねられて、わたくしはぱっと顔を上げました。
わたくしのしていることに興味を持っていただけた。それだけで胸がじんとしてしまうのは仕方がないでしょう。
「殿下、こちらですわ!」
先ほど作ったばかりの菜園を殿下に披露すべく、わたくしは嬉々として歩き出しました。
「……これは?」
「わたくしの……菜園ですわ! もちろん、先生方には許可を取っております!」
わたくし手製の菜園をご覧になった殿下は、しばし呆然としているようでした。
もしかしたら、畑のあまりの出来の良さに感激なさっているのかも、と自惚れたくなってしまいます。
「……一つ、確認していいかな」
「はい!」
「これは授業かなにかの一環かな?」
「いいえ!」
(一体なんの確認なのかしら?)
よく分からないものの、わたくしははきはきと答えます。
しかし、何故か殿下は額を押さえているご様子。
(どうしてそんなに疲れた顔をしているのでしょう……)
わたくしはただ追放後の生活に備えているだけですのに。
「わたくしはこの先の未来、殿下に捨てられる身。主人公ちゃんに害をなしたとされ、公爵家からも……国からも追い出される可能性がございます」
私の言葉に、殿下の眉がぴくりと動きました。
(あら? また変な顔をされていますわ)
ほんの少しの不快さを押し込めたような、そんな顔。
(もしかしたら、お父様と同じように、菜園への理解をしていただけていないのかも)
そう思ったわたくしは、胸の前で両手を握りしめ、さらに言葉を重ねました。
この菜園への熱い想いを、殿下へ伝えなければなりません。
「そうなった際にも一人で生き抜けるよう、自給自足ができるようになりたい――その一心で屋敷の花壇すべてを菜園に変貌させようといたしました結果、お父様に『頼むから大人しくしていてくれ』と泣きつかれてしまいました」
何故でしょう。わたくしの発言に、殿下は遠い目をしておられました。
(もしかして、まだ熱意が伝わっておりませんの?)
これはただの気まぐれや、貴族の道楽なのではないのです。
わたくしの人生がかかった、壮大なる雑草役令嬢計画の始まりなのです。
「そのため、今度は学院の先生方に『領民の心を知るために作物の勉強がしたい』と訴えかけましたところ、こちらは『貴族の鑑だ。中庭の空いているスペースを使って良い』とご納得していただけましたわ!」
ことの次第を聞き終えた殿下は、深く息を吐いていました。
恐らく、一応の納得はしてくださったのでしょう。
わたくしは足元に広がる菜園へと視線を移しました。
(我ながら、はじめてにしては満足のいく出来ですわ)
けれど、ここからがスタートです。これは始まりにすぎません。
わたくしが決意を新たにしていると、不意に殿下から名前を呼ばれました。
「エリシェラ。……その、先日言っていたことだが。君は本気で、俺との婚約を破棄したいと思っているのか?」
突然話題が切り替わったせいで、なんのことか判別がつきませんでした。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、そしてわたくしはようやく理解いたしました。
殿下は、先日の婚約破棄の一件を気にされているのだと。
わたくしは背筋を伸ばすと、微笑みを浮かべながら殿下へと視線を向けました。
「ええ、もちろんですわ。わたくしは物語に華を添える背景……言うなればその辺の雑草……」
「……雑草?」
「はい。主人公ちゃんと殿下がイチャイチャキャッキャしているところの壁になりたいのです」
「壁……?」
「今はまだゲーム開始一年前。主人公ちゃんはわたくしたちの前に現れてはおりません。ですが、現れたとしても、おふたりを邪魔するつもりなんて爪の欠片ほどもございません。シナリオ通りの悪役令嬢なんて、もってのほかですわ」
わたくしの言葉を困惑しながらも聞いていた殿下でしたが、やがて考えるのを放棄したかのようにふっと軽く息を吐かれました。
その疲労と諦め、そしてわずか慈愛のようなものが入り交じる表情さえ素敵だと、わたくしは思うのです。
わたくしの守りたいものは、推しである殿下と主人公ちゃんの幸せなのです。
「殿下は最推しではございますが、推しの幸せのためならば、潔くさっさと身を引きます。そうしてあわよくば草葉の陰からキャッキャしてるおふたりを見守りたい……。そう、わたくしは悪役令嬢などではなく……雑草役令嬢になりたいのです……!」
「……なんだって?」
「もしくは木の役Bでも可ですわ! 木の役Aの隣で、そっと風に揺れておりますわ!」
わたくしがうっとりと妄想に身を委ねながら語っていると――。
「……決めた」
ふいに、殿下の低い声が落ちてきました。
「君とは絶対に婚約破棄しない。手放さないことを誓う」
「え!?」
予想だにしていなかった殿下の宣言に、思わず令嬢らしからぬ素っ頓狂な声をあげてしまいました。
それは困ります。非常に困ります。
私はただ、円満に婚約を破棄していただきたいだけなのです。
「そ、それは困りますわ! 主人公ちゃんと殿下の恋模様を遠いところから眺めるいう、わたくしの今世の楽しみが……!」
必死に訴えかけますが、殿下は聞く耳を持ってくださいません。
ただ、どこか楽しそうに、晴れやかな笑顔を浮かべていらっしゃいます。
「よく分からない子のことなんて知らないよ。俺が隣で見ていたいのは君だから」
「……っ!!」
追い打ちのようにかけられた殿下の言葉に、頭が真っ白になってしまいました。
前世の推しであり、今世の好きな人からそんな言葉をかけられて、平常心でいられるわけがございません。
「だからそれはっ! 主人公ちゃんに囁いてくださいませ!」
(わたくし……雑草役令嬢になりたいのに……。雑草になれるのかしら……)
表舞台から降りられる気がしないのは、気のせいだと思いたいところです。
その後、殿下によって外堀をじわじわと埋められ続け、主人公ちゃんが現れる前に学生結婚へと持ち込まれるのですが……。
それはまた別のお話でございます。
作者は乙女ゲーマーです( ˘꒳˘)
面白かったよ!と思っていただけましたら、ブクマ ☆☆☆☆☆ など、ぽちっと押していただけましたらとても励みになります!
ここまでお付き合いいただきありがとうございました〜!




