85話 3章 プロローグ
----------------いくらか、以前。
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世界各地にダンジョンが発生してから数年。
ダンジョン内に眠る希少資源を巡り、各国がダンジョンに関する条約を議論したり締結したり、新しい資源条約が結ばれたり安全保障を巡る議論がいまだに過熱していたり、行政府がダンジョンを管理しきれなくなったりする中で。
人々は『ダンジョン』というファンタジーが存在する新しい世界の形に、意外と早く順応し始めていた。
そんな世界情勢の中で、私こと上村敦美は……
「水樹くん、きみ転勤ね。北海道に」
日本における筆頭証券会社の一つ、小和証券。
東京、とある支店。
その支店長たる私は、ある部下を呼び出してそう言った。
「は?」
事実上の左遷を言い渡された彼は、一瞬驚いたような顔をしたが、何を言い返すでもなく、ムッとして黙り込む。
水樹了介。
もうそろそろ新米ではなくなってきた頃合いの若造。
営業態度はいたって真面目。大抵のことは卒なくこなし、仕事や協調性はそれなり。目立った成績を上げるわけではないが、顧客からの評判は良い。
だが……私とはどうしても、折り合いのつかなかった男。
私は心の奥底から湧き上がってくる笑みを口元に反映させないよう努力したが、それは失敗していたかもしれない。
「不貞腐れて、向こうで欠勤や遅刻でもしようものなら。わかっているね」
「ええ、ご心配なく」
水樹くんはショックを受けたような様子ではなく、むしろ憮然とした表情を意図して作り、そう返した。ギュッと結ばれた口元からは、その大人しそうな顔立ちで隠した自意識の高さが滲み出ている。
「転勤先ではせいぜい……上司に噛み付くことなく、黙って毎日タイムカードでも押していなさい。これを教訓にな」
「別に構いませんが」
彼は何かを押し殺しながら、静かに言う。
「生田目夫妻の3億円の件、これで有耶無耶にするつもりではないでしょうね」
「……一体なんのことを言っているのか、よくわからんね」
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水樹了介を退室させた後、私はすぐに机上電話の受話器を取った。
番号を打ち込んでコールすると、呼び出し音が鳴り響く間もなく、繋がる。
「私だ、上村支店長だ。社長に繋いで欲しい」
中継の秘書にそう伝えると、すぐに回線が切り替わる。
受話器のスピーカーを震わせたのは、奥底から響くような低い声色。
『どうなったかね、上村くん』
「社長」
言ってから、私は緊張で、いささかの唾を飲み込んだ。
「水樹了介に異動を伝えました」
『なんと言っていた?』
「若干の恨み節だけです。受け入れ難いようではありましたが、大人しく左遷に甘んじるでしょう」
『そうか』
少しの間があり、私は社長の言葉を待つ。
『それで……会計は? 首尾よく片付けたかね』
「はい、すでに。なんの問題もありません」
『わかった。ご苦労だったな』
「いいえ、なんてことはありません。前社長からも頼まれていたことですので」
『暇が出来たら、一度顔を出しなさい。これからのことを話そう』
「わかりました、すぐに時間を作ります」
ガチャン、と通話が切られる。
私は受話器をそっと戻すと、飲みかけの缶コーヒーを引っ張って、ポケットの中からタバコを取り出した。
社内は禁煙だが……知ったことか。
今日だけはいいだろう。
ジッポライターのゆらりとした大きな灯火でタバコを焦がして深く吸い込み、吐き出し、灰皿代わりの缶に灰を落とす。強い煙を吸い込んで頭をややくらつかせながら、私は高揚する気持ちを落ち着かせようとしていた。
「…………終わった」
危ない橋を渡ることになったが、片付いた。
あの水樹了介も、これ以上は首を突っ込むまい。
動いても無駄だとわかったはずだ。
どちらにせよ、彼は何も知らん。
彼が知っているのは……いや知ったつもりになっているのは、断片の欠片のみ。
真実については一切知らないし、想像もつかないだろう。
人は誰しも、自分のことを、他の誰かよりも利口で良い人間だと思い込んでいる。
あの水樹了介は、その典型的な類。
妙な正義感を無駄に暴走させて、余計なところに首を突っ込みやがって。
だがとにもかくにも、万事解決。
これで小和証券の秘密を知る人間は、社長と私のみ。
何も知らないというのは、なんと幸せで愚かなことか。
「………早く時間を作って、社長に会いに行かなければな」
肺から濃い煙を吐き出しながら、私はそう呟いた。
きっと昇進の話に違いない。違うわけがない。
あれだけの秘密を知り、そのために尽力した私を、支店長なんぞに留めておくわけが…………。
そこでもう一度、机上の電話が鳴った。
「はい、上村です」
『私だ。一つだけいいかね』
「社長……? はい、もちろん」
私は吸いかけのタバコを缶コーヒーの口に押し込み、その中に落とした。
中の冷えたコーヒー液がタバコを呑み込んで、ジュッと小さな消火音を立てる。その非行の音は、きっと受話器の向こう側までは漏れてはいないはず。
『重ねて言っておくのだがね。この件については、絶対に、誰にも口外してはいけない』
「もちろん、わかっております」
『親しい友人にも、妻にも、酒の席でも、独り言でも。どんなことがあっても絶対に、打ち明けてはいけない。仄かしてもいけない。忘れるように努めるんだ。そもそも思い出さないように努力するんだ。わかっているね?』
「……は、はい。もちろん」
『もしもこの件が明るみになったら、とても大変なことになる。君が思っているよりも、ずっと、ずっと大変なことになるんだ。重々承知しているね?』
「はあ……承知しております」
そう答えながら、私はやや辟易とし始めていた。
社長ときたら、どれだけ念を押してくるつもりだろう。
私は今の今まで、彼がこれほどの心配性だとは思っていなかった。
改めて釘を刺さなくとも、この私が……あんなことを、ベラベラと喋るわけはないのだが。
『わかっているならいい。それでいい。このまま何事もなければ、それでいい。何も知らずにそのままでいてくれれば、それが一番いい。そうであるようにコントロールするのだ』
受話器の向こう側から、社長の深いため息が聞こえてくる。
そうして彼は、私に言い聞かせるというよりは、独り言でも吐き出すように呟く。
『何かが間違ったら、世界が大変なことになる。これは比喩じゃないんだよ、上村くん。リーマンショックなんて、ぜんぜん比較にもならないだろう』
「は、はあ……」
…………いや、それはさすがに比喩だろう。
やや気の無い返事を返しながら、私はそう思った。
もちろん一大スキャンダルであることは間違い無いだろうが……それで世界が大騒動になるかといったら、別にそうではない。日本では大ニュースになるだろうが、それが世界的な事件になるかといったら、全然違う話である。
もしかすると、彼はこの小和証券の『社長』という立場上……この『世界』という言葉の意味を、もう少し狭く、もう少し個人的な意味合いで使っているのかもしれなかった。
…………いや、まてよ?
「社長、不勉強で申し訳ないのですが……」
私は一つ引っかかって、社長に聞き直す。
「その、リーマンショックとは? なんのことでしょう」
『…………いや、なんでもない。忘れるといい。別の話だから』




