善悪の境界
___数年前のこと。
夜の森は、深く静かだった。
風が葉を鳴らし、小さな焚き火の灯りが二人の影を揺らす。近くの川のせせらぎと虫の音が、かすかに耳を打っている。
結は、自分の掌をじっと見つめていた。火の明かりが照らすその指先には、幾度も刀を握ってきた痕がある。
「……師匠」
不意に口を開いた結の声は、火の音に紛れて消えそうに小さかった。
「私は、二刀を師匠から教わりました。この刀で、何人も斬ってきました。自分を守るために」
楓は焚き火の向こう側で、竹の筒を片手に、何かを煮ていた。
「……でも、人を殺すのは、悪いことではないのですか?」
楓は少し驚いたように目を開いた。しかし、それも一瞬。いつもの涼しい面持ちに戻り、竹筒を火から外した。
「どうしてそう思うんだい?」
結は火に目を落としたまま、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「……姉は、所謂殺し屋でした。当時は分からなかったけど、毎日のように返り血を浴びて帰ってきて。…楽しそうじゃなかった」
木々の隙間から、空の星がちらちらと見えた。
「いつも、私に言っていました。“普通の女の子になってね”って」
楓は火を見つめたまま、しばし無言だった。やがて微笑む。
「確かに、縁くんはいつも遠い目をしていたね。何度か一緒に仕事をこなしたけど、びっくりするぐらい無表情だった」
結の手が、ぴくりと動いた。
「私は、善悪のつけ方が分かりません。合戦も、死体も、もう見慣れました。でも、好きにはなれません」
「……善悪のつけ方なんて、誰にも分からないよ」
楓は焚き火に薪をくべ、炎を少し大きくした。火花がぱち、と音を立てる。
「状況次第で、正義なんていくらでもひっくり返る。敵国の兵士を斬れば、味方からは英雄と称えられる。でも、斬られた兵士にも家族がいて、仲間がいる。“悪”の形は、立ち位置次第で変わるんだ」
静かに、しかしはっきりと楓は言った。
「悪には、悪なりの正義があるんだよ」
結は黙ったまま火を見つめていた。炎の中に、過去に斬った者たちの影が浮かぶ気がした。
「……それでも、斬るって…良いことではないですよね?」
ようやく漏れたその声は、どこか苦しげだった。
楓はしばらく結を見つめていた。そして、少しだけ首を傾げてから、柔らかく微笑む。
「“良い”か“悪い”か、それは君の目で決めればいい。私には、”斬る”しか選べなかっただけさ」
「それは、なぜですか?」
結の問いに、楓は手を止めて答えた。
「……私もまた、未熟だったからだよ」
それは、どこか遠くを見つめるような声音だった。
「未熟な者は、簡単な方法しか選べない。“生かす”より“殺す”方が、簡単だからね」
また薪を追加した。
「君はまだ未熟だけど、自分で決めれる。…結は、どうしたい?」
結は自分の二刀を見下ろした。黒ずんだ鍔と、微かに赤錆びた刃先。どこか冷たく、重たい。
「……私は――――」




