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午後の市立図書館のテラス席は、今日も世界から忘れ去られたように静かだった。
聞こえてくるのは、遠くを走る車の走行音と、風が街路樹を揺らす音、そして時折、どこかの家の犬が何かを訴えるように吠える声だけ。
俺たちのような、社会のメインストリームから一時的に逸脱した人間にとっては、酸素濃度がちょうどいい場所だった。
俺はコンビニで買ってきた100円のホットコーヒーを二つ手に持ち、いつもの席へと向かった。
約束の時間は五分過ぎている。いつもなら自称女優の風見帆夏は、文庫本を読んでいるか、スマホで意味のないショート動画を無限にスワイプしているのが常だった。
しかし、今日の彼女は違った。ベンチに座ってはいた。
だが、様子がおかしい。背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばし、両手でスマホを目の高さに掲げたまま、石像のように固まっていた。
微動だにせず瞬きすらしていないように見える。
サングラスもしていないので、その表情が完全に露出しているのだが、感情が読み取れない。
まるで能面のような顔つきだ。
「……あの」
声をかけるも反応がない。
「……もしもし? 地球の方ですか?」
反応がない。
俺は彼女の目の前で手を振ってみた。視線が動かない。
スマホの画面に釘付けになっている。これは、ただ事ではない。
何かとんでもないニュースを見たのか、それとも、スマホがフリーズして、それを見つめる彼女自身も同期してフリーズしてしまったのだろうか。
「……帆夏さん?」
「……」
「コーヒー、置くよ?」
俺は湯気の立つ紙コップをテーブルに置いた。コトン、という音がしても、彼女はピクリともしなかった。
俺は隣の椅子に座り、自分のコーヒーを一口啜った。
熱い。苦い。コンビニのコーヒーは、この値段にしては優秀すぎる。
さて、どうするか。
この硬直状態を解くには、何か刺激が必要だ。しかし、下手に揺さぶって壊れても困る。
俺の脳内の引き出しが、ガタガタと音を立てて開いた。
昨日、本で読んだ知識が、ポップアップウィンドウのように浮かび上がる。
「……ねえ、知ってる?」
俺は独り言のように語りかけた。
「アメリカのテネシー州にはね、『ミオトニック・ゴート』っていう変わったヤギがいるんだよ」
「……」
彼女は動かないが気にせず俺は続ける。
「別名『気絶ヤギ』とも呼ばれてるんだけどさ。このヤギ、極度の驚きや恐怖を感じると、筋肉が一時的に硬直してしまう先天的な性質を持ってるんだ」
「……」
「だから、急に大きな音を出したり、傘をバッと広げたりして驚かせると、さっきまで元気に草を食べてたヤギが、四肢をピンと突っ張って、そのままコテンと横倒しになるんだよ。気絶してるわけじゃなくて、意識はあるんだけど、身体が固まって動けなくなるんだ」
「……」
「倒れたまま、四本の足を空に向けてピーンと伸ばしてる姿は、なんだかシュールでさ。でも数秒すると、何事もなかったかのように立ち上がって、また草を食べ始めるんだけどね」
「……」
「今の帆夏さんは、まさにそのヤギみたいだよ……誰かに大きな音でも鳴らされた?」
俺がそこまで喋り終えた時、ようやく彼女の唇が動いた。壊れかけたロボットのような、ぎこちない動きだった。
「……ヤギ」
「うん。ヤギ」
「……や、私はヤギじゃない」
「現象としては酷似してるよ。四つん這いになってないだけマシだけど」
「……驚かされたの」
「誰に?」
「……世界に」
「世界?」
スケールが大きい。彼女はゆっくりと、錆びついた蝶番が軋むような動作で首を動かし、俺の方を見た。
その瞳孔は、心なしか開いているように見えた。恐怖なのか、歓喜なのか、それとも極度の混乱なのか。
「……壊れた」
「スマホが?」
「ううん。……現実が」
「現実が壊れた?」
「……これ、見て」
彼女は持っていたスマホを、テーブルの上に置いた。画面を俺の方に向ける。
視聴回数:5,892,450回
「……ん?」
俺は目を擦った。老眼が始まったわけではないはずだ。
「……これ、バグかな?」
「バグであってほしい」
「ゼロの数、多いよね……? 俺が前見たときは50万回くらいだったような……」
「けど、今も増えてるの。見てて」
彼女が震える指先で、画面を下に引っ張り、リロードした。
くるくると読み込みマークが回り、数字が更新され下三桁の数字が変わった。
つまり、数百人単位の人が今この瞬間に動画を見ていたことになる。
帆夏が次に開いたのは、SNSのアプリだった。
彼女が見せてくれたのは、フォロワー数500万人を誇る超有名インフルエンサーの投稿だった。
辛口の評論で知られ、彼が褒めたコンテンツは一夜にして社会現象になると言われる、ネット界の絶対権力者だ。
『たまたま深夜に見つけたこのドラマ、ヤバい。主演のニート役の子、演技がリアルすぎて怖い。呼吸の間とか、視線の泳がせ方とかが、完全に社会不適合者のそれ。役作りでここまでいけるのか、それともマジでヤバい奴を連れてきたのか。とにかく推せる。傑作。あと、それはそれとして可愛すぎる』
その投稿には、すでに15万件以上の「いいね」がつき、拡散され続けていた。コメント欄には、無数の賞賛と驚愕の声が溢れている。
『目が死んでるのがいい。今の時代の空気感を体現してる。それはそれとして可愛すぎる』
『諦めきった背中に哀愁を感じる。泣けてきた。それはそれとして可愛すぎる』
『これ演技? ドキュメンタリーじゃなくて? それはそれとして可愛すぎる』
『この女優さん誰? ノーマークだったけど天才じゃね? それはそれとして可愛すぎる』
『本物すぎる。この気怠さは作れない。それはそれとして可愛すぎる』
「本物だってさ……偽物なのにね」
帆夏は深い溜息をつき、またスマホの画面に視線を落とした。手足が小刻みに震えている。
それは、ミオトニック・ゴートが硬直する寸前の震えに似ていた。
「どっ、どうしよう。潤」
「どうしようって、万々歳じゃないの? バズるってこういうことでしょ。しかもミームまでできかけてるじゃん」
「そうだけどさぁ……ごっ、500万再生て……うわぁあああ……しかもそんな可愛くないからぁ……」
彼女は頭を抱えた。急激な環境の変化に、脳の処理が追いついていないのだ。
それはそうだろう。ついこの間までは、100円のパンダに乗って「遅いね」と笑っていた、ただの売れない役者だったのだから。
それが突然、数百万人の視線に晒され天才だの本物だのと持ち上げられている。
「実感が湧かない。数字だけがインフレしてて、私はまだ昨日の私のままなのに」
「まぁ……そういうもんなのかもね」
五十万再生でもすごい話だと思っていたが、いよいよ業界人に目をつけられるような話になってきそうで本人も戸惑っているんだろう。
彼女はコーヒーを一口飲み、ふぅ、と息を吐いた。
「……でもね」
「ん?」
「ありがとなんだ、潤」
帆夏が、ボソッと言った。風が木々を揺らす音にかき消されそうな、小さな声だった。
「……何が?」
「この『死んだ目』も『諦めきった背中』も全部が潤のコピーだから」
「お、俺ぇ!? あんな顔してた!?」
「ん。図書館でカピバラの本を読んでる時の潤。公園のベンチで、何も考えずに空を見上げている時の潤。食堂で納豆定食を食べている潤」
彼女は俺の方を向き、悪戯っぽく目を細めた。
「その、社会のレールから外れても、案外平気で生きてる『図太い無力感』みたいなものが参考になってたんだ」
「図太い無力感……」
褒められているのかけなされているのか。
「私はそれを盗んだ。憑依させた。だから、SNSの人たちが私の演技を『本物』だと言ってくれるなら、それは潤が『本物』だからだよ。……私の演じるニートには、あなたの成分が100パーセント配合されてる」
「本物のニートって言われてるのかな……?」
「ふふっ、そうだよ。特級品の素材。天然記念物レベル」
「著作権料、請求してもいい?」
「ふふっ……ダメ。それに、ニートの雰囲気に著作権は適用されないから」
「だよね。ダメモトで言ってみた」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
リアルな絶望のモデルが、ここに座って100円のコーヒーを飲んでいる。そして、それを演じた女優が隣で安堵の表情を浮かべている。
何百万再生という数字の動き、ギラギラした世界とは無縁な空間がここにはあった。
ミオトニック・ゴートは驚いて倒れても、すぐに立ち上がって草を食べ始める。
彼女もきっと、この衝撃から立ち直って、女優としての草を貪欲に食べ始めるはずだ。
「潤、乾杯しよ」
「え?」
「お祝い。バズった記念と、……私の演技の師匠に。あれなら、今から飲みに行く?」
「いいね」
彼女が紙コップを掲げた。中身はシャンパンでもヴィンテージワインでもない。
コンビニのコーヒーだ。背景は、パリのカフェテラスではなく、市民図書館のテラス。でも、今の俺たちには、これが一番似合っている気がした。
俺も紙コップを掲げた。カツン、と安っぽい音がテラスに響いた。
「おめでとう。帆夏さん」
「ふふっ。何が? けど……ありがと。潤」
コーヒーを一口飲む。苦味と酸味が舌に広がる。でも、今日の苦味は、いつもより少しだけクリアで、後味が爽やかに感じられた。
「ね、潤。これ、1000万回いくかな」
「……いくかもね。勢いが止まらないし」
「そしたら、ミックスフライ定食奢ってね。単品で追加のメンチカツとエビフライもつけて」
「なんで俺が!? 逆でしょ!?」
「ふふっ。私にはまだ1円も還元されてないもーん。ただ、たくさん再生されたってだけだし」
俺たちはまた笑った。スマホの中では、今も秒速で数字が増え続け、彼女の人生を不可逆的に変えようとしている。
明日には、このテラス席でのんびりコーヒーを飲むことすら、難しくなるかもしれない。でも、少なくとも今はそれができる。
それを噛みしめるように2人してゆったりとした時間を過ごす。
すると、ふと帆夏が「あ」と言って図書館の中へと入っていった。
少しして戻ってきた帆夏の手には絵本らしきものがあった。
「何持ってきたの?」
「シンデレラ。予習になるかなって」
「相変わらず気が早いなぁ……」
シンデレラストーリーを歩み始めたかもしれない帆夏はシンデレラのストーリーをやけに真剣に読みふけっていたのだった。




