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午後二時。図書館の裏手にあるテラス席は、世界から忘れ去られたように静かだった。
俺たちは併設のコンビニで買った100円のドリップコーヒーを啜りながら、流れる雲を眺めていた。
「……ね、潤」
「なに、帆夏さん」
「……ここにいたら苔が生えそう」
「物理的に?」
「や、精神的に。このままここでじっとしてたら、光合成だけで生きる植物になっちゃう気がする」
「それはそれでエコでいいんじゃない?」
「ふふっ……よくないよ。私は動く肉体労働者なの。……どこか行かない?」
「金のかからない場所なら」
「……物理的に高いところに行きたい。今の私には、俯瞰の視点が必要」
「じゃあ、あそこだ」
俺が指さしたのは、駅前にある古びたデパートの看板だった。
◆
デパートの屋上は、時代に取り残されたエアポケットのような場所だ。
華やかさは皆無。あるのは、色褪せた人工芝と、錆びついたフェンス、そして昭和の時代から時が止まった遊具たちだけ。
「……誰もいないね」
「平日の午後だからね。子供は学校、大人は仕事。ここにいるのは、社会のシステムから弾き出されたエラー分子だけだよ」
「や、言い方」
帆夏はスナックコーナーで買ったソフトクリームを舐めながら、寂れたゲームコーナーを眺めた。彼女が選んだのはバニラでもチョコでもなく、期間限定のずんだ味。
罰ゲームみたいな薄緑色をしているが、本人は「刺激が欲しいから」と言って真顔で食べている。
「……見て。あれ」
彼女がスプーンで指したのは、広場の隅に置かれたパンダの機械だった。
100円を入れると動く、またがるタイプの乗り物だ。正式名称は知らない、ただの動くパンダだ。
経年劣化で白黒の境界が曖昧になり、目は虚空を見つめている。哀愁というより、もはやホラーに近い。
「死んだ魚のような目をしてる」
「帆夏さん、親近感が湧くでしょ?」
「ふふっ……ん。他人とは思えない」
帆夏はずんだソフトのコーンをかじり終えると、パンダに歩み寄った。そして、ポケットから100円玉を取り出した。
「……乗るの?」
「ん」
彼女はチャリンと硬貨を投入した。途端に、どこか調子の外れた電子音が鳴り響く。曲は『森のくまさん』だ。パンダなのに。
ガタゴトとパンダが動き出した。しかし、その速度は驚くほど遅い。歩くよりも遅い。
帆夏はパンダの背中にまたがり、真顔でハンドルを握っている。
「……どう? 乗り心地は」
「……内臓がシェイクされる」
「ずんだシェイクだね」
「ふふっ。確かに。お腹の中でずんだシェイクができてる」
帆夏はお腹をさすりながら穏やかにほほ笑んだ。
「……で、いつまでやるの?」
「100円払ったんだから、元は取る」
彼女は真剣な眼差しで、のろのろと進むパンダを操縦している。広場の端から端まで、おそらく3分はかかるだろう。
「潤も乗りなよ」
「え?」
「隣に、トラがいる」
見ると、パンダの隣には、さらに塗装の剥げたトラが鎮座していた。縞模様が薄れて、ただの黄色い塊になりかけている。
「やだよ。いい大人が並んでパンダとトラに乗ってるとか地獄絵図だよ」
「……寂しいじゃん。パンダの気持ちになってみて?」
「パンダに感情移入しすぎでしょ!?」
「お願い。このままだと、私一人だけが変な人になる」
「自覚はあったんだ……」
拒否しようとしたが、彼女の「一人だけ変な人になる」という切実な訴えには理があった。俺は溜息をつき、財布から100円玉を取り出した。トラにまたがり、コインを入れる。すると今度は『メリーさんの羊』が流れた。トラなのに。
意外にもスムーズに俺のトラも動き出した。二匹の獣が、並んで屋上をノロノロと進む。
「……ねえ、帆夏さん」
「なに?」
「これ、どこに向かってるの?」
「……西」
「そういうことじゃなくて」
「ゴールなんてないよ。ただ、100円分だけ進む。タクシーと同じだよ」
「……深いようで、浅いね」
ガタガタと揺れる振動が、お尻から脳天に響く。不思議と、会話の間が持つ。顔を見なくていいからかもしれない。あるいはこのバカバカしい状況が、自意識を麻痺させているのか。
「……昔さ」
帆夏が前を向いたまま言った。
「小さい頃、こういうのに乗ると、世界の果てまで行ける気がしなかった? 100円分で止まるなんて思いもしなくて」
「……したかもね。この広場が、無限に広く見えた」
「……今は、端っこが見えちゃうね」
彼女の視線の先には、屋上のフェンスがある。その向こうは崖だ。大人の視点では、ここは閉じた箱庭でしかない。
「……でもさ」
「ん?」
「端っこが見えてても、進むしかないんだよね。コイン入れちゃったから」
「……そうだね」
「降りるのも癪だし、止まるのも怖いし」
彼女の声は、壊れかけたスピーカーから流れる『森のくまさん』に混じって、少し震えて聞こえた。
「……このパンダ、遅いけどさ。止まってはないんだよね」
「うん」
「私たちみたいだね」
ウィーン、プスン。唐突に、パンダが止まった。続いて、俺のトラも沈黙した。広場の真ん中あたり。中途半端な場所だ。
「ふはっ……途中で終わった……」
帆夏は自分たちの状況にけらけらと笑いながら、パンダの頭をポンポンと叩いて降りた。
「……あっけないね」
俺もトラから降りる。たった数分の旅。移動距離にして、わずか10メートル。それでも、降りた後の地面は、少しだけ揺れているような気がした。
帆夏はフェンスにもたれかかり、スマホを取り出した。
「……そういえば」
「なに?」
「……公開されたんだ。1話」
「え? ドラマ?」
「ん」と喉を鳴らして彼女は画面をスワイプし、動画配信サイトを開いた。『絶望ニートの独り言』第1話。サムネイルには、ジャージ姿で虚空を見つめる帆夏の顔がある。
再生回数は俺が見た時よりもさらに増えて60万回。この伸び方であれば100万回も近いうちに視野に入るレベルだ。
「潤、知ってたでしょ?」
「え?」
「ふふっ。誤魔化してもダメだよ?」
帆夏はジト目で微笑みながら俺の頬をピン、と指で突いた。
「けど、黙っててくれたんだよね?」
「あぁ……まぁ、一応ね」
「私ね、開口一番にいじられたくなかったから……なんか潤は分かってるなって思った。数回遊んだだけなのに。距離感が丁度いいんだ」
「そっか」
「売れてもニート仲間だよね?」
帆夏は肩をすくめ、冗談めかして尋ねてくる。
「気が早いよ。まだ1回バズっただけの一発屋じゃん」
「よっ、容赦なくない!?」
目を見開いた帆夏が俺の腕を掴んでくる。
「いや……でも事実だし」
「こりゃ、前言撤回だね」
帆夏はそう言いつつも嬉しそうに笑いながら、次の暇つぶしスポットを探すために俺の腕を引き、エレベータの方へと向かった。




