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食堂に入ると、定位置になりかけているテーブルに100円ショップで売っていそうな安っぽいサングラスをつけた女性が座っていた。
普段見かける昼飲み女こと風見帆夏よりも若干猫背気味だ。
だが、髪型から帆夏だと察し、斜向かいに座って話しかける。
「帆夏さん、おはよう」
「ん。潤もおはよう」
帆夏はサングラスを少しだけずらして俺を見てくる。一体何なんだ。
「不審者だよ……」
「世間の光が眩しすぎるからね」
「物理的な日差しの話? それともメタファー?」
「や、今日は曇りだし、私はスポットライトが当たるような人じゃないよ」
「どっちでもないと……じゃあなんでそんなものを? おしゃれ……ではないよね?」
「や、さすがに先週のアレがあったからそのままだと恥ずかしいじゃん?」
「あぁ……」
喧嘩を諌めるのに声を荒らげたことを気にしているらしい。だが、場所に似つかわしくない美女のオーラは消しきれなかったらしく、周囲からチラチラと視線を感じる。
「ま……バレてはいるよね。移動する?」
「ん。図書館に行こうよ、図書館」
「ハマった?」
「ん。ニートの王道ルート、でしょ?」
サングラスから目を覗かせてウィンクをしながらそう言う帆夏に少しだけドキッとさせられたのは秘密にしておこう。
◆
俺たちは坂道を登り、いつもの図書館へと向かった。
自動販売機でコーヒーを二本買い、裏手のテラス席へ移動する。ここは人が少ない。平日の昼下がり、活字中毒者か、人生の休憩中の人間しか来ない場所だ。
「……ふぅ」
帆夏はベンチに深く腰掛け、サングラスを外した。
「……もう、あそこ行けないかも」
「あそこって、食堂?」
「ん」
「なんで? トンカツ定食の味が落ちた?」
「や、違う。おばちゃんに言われたんだ」
「何を?」
「『あんた、いつも昼間から大変だねぇ。これ食べて、元気出しな』って」
彼女は、ポケットからラップに包まれたコロッケを取り出した。少し油が滲んでいる。
「……サービスじゃん。よかったね」
「無職さん、わかってないよ」
帆夏はコロッケを睨みつけながら、悔しそうに唇を噛んだ。
「……食堂っていうのは、誰でもない『ただの腹減った人』になれる場所なの。役名も、肩書きも、期待も何もない。ただ、ソースをかけるか醤油をかけるかだけを悩めばいい、聖域だったのに」
「……なるほど」
「このコロッケは、ファンサービスじゃない。『施し』だよ。私のこと、完全に『食い詰めたかわいそうな無職の娘』だと思ってた目だった。慈愛に満ちた、残酷な目だった」
彼女の言いたいことはわかる気がした。「女優」としてのプライドが、おばちゃんの善意によって傷つけられたのだ。
「……美味しかった?」
「……ん。1個は食べた。悔しいけど、揚げたてで美味しかった。涙で塩気が増してたよ」
「……完食したならいいじゃん」
「良くない。胃袋は満たされたけど、尊厳が傷ついた」
彼女はラップをクシャッと丸めた。
「……で、どうするの?昼飯難民になるよ」
「……だから、ここ」
帆夏はテラスの床を、スニーカーの踵でトンと叩いた。
「ここ?」
「ここを、新しい集合場所とする」
「……ここは飯出ないよ」
「コンビニで買ってくる。パンでもおにぎりでもいい」
「……まあ、いいけど」
「ここは静かだし、風が吹いてるし、誰も私を『かわいそうな人』って目で見ない。……それに、無職さんがいる」
「俺は付属品!?」
「……同じ穴の狢。安心材料」
「最高の褒め言葉をどうも」
彼女は少しだけ笑った気がした。俺たちはしばらく無言でコーヒーを飲んだ。
食堂という聖域を失った彼女は、少し心細そうで、でもこのテラスを見つけたことに安堵しているようにも見えた。
飲み終わった空き缶をゴミ箱に投げ入れると、彼女が唐突に立ち上がった。
「……行くよ」
「どこへ?」
「身体がなまってる。同情されたカロリーと、屈辱を燃焼させる」
「……まさか」
彼女が指さしたのは、図書館からさらに坂を少し登ったところにある、古びたコンクリートの塊だった。
◆
市民体育館の入り口の券売機で、俺たちは200円の利用券を買った。
更衣室でレンタルした室内シューズに履き替える。底がツルツルの、学校の上履きみたいな靴だ。
トレーニングルームは、昭和の香りが漂っていた。
最新のマシンなんてない。油の切れた音を立てるランニングマシーンと、やけに重厚な鉄アレイ、そして使い方のわからない謎の腹筋台。利用者は、定年後のおじいちゃんが二人だけ。
「……ここも、いい聖域だね」
「汗臭いけどね」
「売れてない役者の楽屋と同じ匂いがする。落ち着く」
帆夏はパーカーを脱ぎ、Tシャツ姿になった。細い腕のわりには、筋肉のラインが綺麗に出ている。さすが、身体が資本の職業だ。
「……無職さん、足持って」
「え?」
「腹筋するから。押さえてて」
彼女はマットの上に仰向けになった。俺は言われるがまま、彼女の足首を掴んで固定する。
「……いくよ」
フッ、という短い呼気とともに、彼女の上体が起き上がる。
俺の目の前まで顔が近づき、また遠ざかる。
「いっち、に……」
「そんなに鍛えて、どうするの? 何かアスリートを演じる仕事でもあるの?」
「ふっ……さん、し……次は、オーディションがあるから……」
「なんの役?」
「ゾンビ映画の、逃げ惑う市民A……ご、ろく……だから、瞬発力がいる」
「……切実だね」
彼女の顔が赤らんでいく。言葉の一つ一つが、呼吸と一緒に吐き出される。
「……絶対、受かる……なな、はっち……もう、同情なんて、されたくない……自分の稼いだ金で、堂々とコロッケを食べるんだ」
彼女の瞳は、天井の一点を見つめていた。ただの腹筋運動なのに、何かの儀式みたいに見えた。食堂で「哀れみ」を受けて凹んでいた時よりも、今の彼女はずっと生き生きとして見えた。
「……きゅっ、じゅう!……ふぅーっ」
帆夏はマットに大の字になって倒れ込んだ。肩で息をしている。
「……お疲れ。ゾンビからも逃げ切れそうだね」
たった10回だけれど、0回よりはマシだ。
「……無職さんも、やって」
「え、俺?」
「……貸し借りなし。私が足持つから」
「いや、俺はゾンビ映画出ないし」
「……ラッコなんでしょ?海流に流されないように、腹筋鍛えなよ」
あの時の話をまだ引っ張るか。俺は渋々、マットに寝転がった。帆夏が俺の足首を、意外と強い力で押さえつける。
「……いくよ、いち」
「……うぐっ」
身体が重い。ビールと運動不足のツケが、腹筋を直撃する。
「……情けない声出さないで」
「……重力がおかしいんだって」
「さん、し……頑張れ、ラッコ。流されるな」
「その設定、いつまで続くの!?」
腹筋をするたびに、上から彼女が見下ろしているのが見える。真顔で、でも少しだけ楽しそうに、俺が苦しむ様を観察している。
「……ご……もう無理だ……」
「……あと5回。やらなきゃ、あのおばちゃんに『この人無職です』ってバラす」
「……鬼か」
結局、俺は半泣きで10回をやりきった。二人でマットに並んで座り込み、タオルで汗を拭く。窓の外からは、運動部の学生たちの掛け声が聞こえてくる。
「……意外と、悪くないね」
「筋肉痛確定だけどね」
「……痛みがあるってことは、生きてるってことだよ」
帆夏が俺の肩をパンと叩いた。
「また来よ? ここ」
「……200円なら、まあアリかな」
「次はスクワット対決ね。負けた方がジュース奢り」
「絶対やだ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。食堂という安息の地を失った代わりに、俺たちは汗臭いコンクリートの箱と、風の吹くテラスを手に入れた。
相変わらず何者でもない俺たちだけど、流した汗の分だけ、ほんの少しだけ身体が軽くなった気がした。
◆
帰宅後、俺はスマートフォンでSNSを見ていた。
流れていく大量の情報の中に『#絶望ニート』というハッシュタグを見つけて手が止まる。
そのハッシュタグをタップすると、帆夏の主演していたドラマと思しき映像作品の感想が次々と流れてきた。
『主役の子可愛すぎるんだけど #絶望ニート』
『こんな子、絶対にニートしてないから。アイドルやってるに一票 #絶望ニート』
『けど妙に哀愁がリアルなんだよな #絶望ニート』
慌てて動画サイトを開き『絶望ニート』と検索をしてみる。
すると出てきた動画は50万回再生。サムネイルも中身もバッチリ帆夏だ。
……めちゃくちゃバズってません!?




