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「――で、死ぬことになった」
図書館の裏手、いつものテラス席。
帆夏は開口一番、自身の訃報を口にした。
手には台本のような厚い冊子を持っているが、その扱い方は回覧板よりも雑だ。
「おめでとう。死因は?」
「撲殺。凶器はクリスタルの灰皿」
「昭和のサスペンスのリメイクでも出るの!? クラシックすぎない!?」
「ふはっ……凶器にクラシックもロックもないよ。……はぁ」
俺は文庫本の栞を挟み、彼女の顔を見た。
今日の帆夏は、いつにも増して生気がない。目の下のクマが濃く、肌は陶器のように白い。役作りなのか、単に昨夜の夜更かしが長引いただけなのか判別がつかない。
「念願のゴールデンタイムの地上波ドラマだよ。でも、役名が『被害者A』なんだ」
「重要な役だよ。物語のトリガーだから」
「ま、けどセリフがないんだ。冒頭で死んで、あとは鑑識さんが私の周りで『死亡推定時刻は……』とか言ってる間、ずっと床に転がってるだけ」
帆夏は深い溜息をつき、テーブルに突っ伏した。
その動きが、既に死体のように脱力している。
「死体役ってさ、瞬きできないんだよ? 呼吸もしちゃダメなんだよ? 私、花粉症なのに」
「鼻栓をしてみれば?」
「口呼吸になるじゃん。口が開いてたらマヌケな死体になっちゃう」
「死に顔に品格を求めるの!?」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「まぁ……確かに死体役は難しそうだよね」
「ん。ドラマのエキストラ募集要項を見たことがあるんだけど、『死体役(経験者優遇)』って書かれてたことあるよ」
「一回死んだ人だと優遇されるの!?」
「そうなのかもね。あー……難しいよなぁ……ね、潤。手本見せて」
「……はい?」
「潤って、生きてるだけで死んでるみたいじゃん。究極の脱力っていうか、労働からの完全なる解放感を全身から発してるでしょ。その極意を教えてほしいの」
失礼な物言いだが、否定できない。俺は社会的な活動を停止している。生物学的には生きているが、経済学的には死んでいる。シュレーディンガーの無職だ。
「……いいでしょう。だが、死体役の道は険しいよ?」
「ん。覚悟はある」
何故元会社員で現無職の俺が演技指導をすることになったんだろうか。
「お前はオポッサムを知っているか?」
「オポッサム? 禿のおじさん?」
「それはステイサム。北米に生息する有袋類だよ。彼らは天敵に襲われると、即座に横たわり、口を半開きにして舌を出し、完全に脱力して『死んだふり』をするんだ」
俺はスマホで画像検索して見せた。そこには、白目を剥いて舌をだらりと垂らした、迫真のオポッサムが写っていた。
「すごい顔……完全にイッてる」
「これだけじゃない。彼らはさらに、肛門腺から『腐った玉ねぎ』のような強烈な悪臭を分泌するんだ。視覚だけでなく、嗅覚情報まで偽装して、捕食者に『こいつは腐ってるから食えない』と思わせる。これがプロの死体役だ」
「……えっと、つまり?」
「オポッサムに習うなら、帆夏さんも肛門から腐敗臭を出せるようになる必要がある」
「なるほど……いや、おかしくない!?」
帆夏が全力でツッコミを入れる。俺はふっと笑い、椅子から立ち上がった。
「まあ、匂いの演出は高等テクニックだから今回は免除。その代わり、オポッサムが見せる『脱力』だけは盗まないと」
俺はテラスの敷石の上にゴロリと横になった。平日の午後三時。周囲に人気はないが、もし誰かが見たら即座に通報案件だ。
「いいかい、帆夏さん。死体というのは、単に動かないことじゃない。『重力への完全降伏』だ」
「重力への降伏?」
「そう。生きている人間は、無意識に重力に逆らっている。筋肉が緊張し、骨格が姿勢を保とうとする。だけど死体は違う。肉体がただの『物質』になり、地面にへばりつく。スライムが地面に広がるイメージを持つんだ」
俺は全身の筋肉から力を抜いた。指先、肩、背中、そして表情筋。すべてを重力に委ねる。視界が空の青一色になる。雲が流れていく。俺はその雲と無関係な存在になる。
「……すごい」と上から帆夏の声が降ってくる。
「潤、顔が溶けてる。地面と一体化してる。オポッサムより死んでるかも」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「呼吸は? どうしてるの?」
「『地蔵の呼吸』だ。三分に一回、肺の残気量だけでガス交換を行う。横隔膜を動かさず、皮膚呼吸だけで酸素を取り込むイメージだ」
嘘だが、それっぽい理屈を並べる。俺はそのまま、微動だにせず空を見上げ続けた。世界が静止する。風の音、遠くの車の走行音、そして帆夏の衣擦れの音だけが鼓膜を震わせる。意識が遠のき、自分が敷石の一部になったような感覚。
ポスッと不意に、額に柔らかな感触があった。温かい。そして、少し重い。
「……あ」
帆夏が息を呑む気配がした。俺は薄目を開けずに、心の眼で状況を把握しようとした。鳩だ。鳩が、俺の額に着陸している。俺のあまりの不動っぷりに、ここを安全な止まり木だと誤認したらしい。
「ぶふっ……潤、動かないで。今、奇跡が起きてる」
「……」
(言われなくても動けないんだが?)
「鳩が、潤を『岩』だと認識してる。すごい。生命オーラが完全に消滅してる」
帆夏がスマホで写真を撮るシャッター音がした。俺は鳩の爪の感触と、彼の体温を感じながら、死体役としての極致に達したことを悟った。鳩に認められてこそ、一人前の無職だ。
◆
数日後。撮影を終えた帆夏が、再びテラスに現れた。表情は晴れやかだが、どこか遠い目をしている。
「どうだった? 名演できた?」
「ん。潤の教え通り、重力に降伏したよ。監督にも『君の死に様は、現代社会の虚無を体現している』って絶賛された」
「それは良かった。鳩は乗った?」
「ふふっ、乗らなかったけど、ハプニングはあった」
帆夏はバッグから、コンビニのおにぎりを取り出しながら言った。
「本番中さ、すごい静かなシーンだったの。刑事が死体の私を覗き込んで、シリアスな顔で証拠品を探す場面」
「ほう」
「カメラが私の顔に寄ってきて、私も完全に『物質』になりきってたんだけど……鳴っちゃったの」
「何が?」
「腹の虫」
帆夏は恥ずかしそうに言うでもなく、淡々と事実を報告した。
「グゥゥゥ〜って。すごい重低音で。スタジオのマイクが拾っちゃうくらいの音量で」「……それは、NGだな」
「私もそう思った。ああ、終わったな、って。死体が消化活動をしてるなんて、ゾンビ映画じゃないんだから」
帆夏はおにぎりのパッケージを剥いた。海苔のパリパリという音が、テラスに響く。
「でもね、監督が『カット!』って言わなかったの」
「なんで?」
「あとで聞いたら、『素晴らしい! 今の音、死後硬直によって体内のガスが抜ける音だね! リアルだ!』って感動してた」
「……深いな」
俺は感心した。深読みもそこまでいくと芸術だ。帆夏の空腹音が、リアリズムの演出として昇華されたのだ。
「オポッサムもびっくりだね。匂いの代わりに音で死を演出するとは」
「うるさいなぁ。狙ってやったわけじゃないよ」
帆夏はおにぎりを一口かじった。モグモグと動く頬が、彼女が生きていることを証明している。
「結果オーライだけどさ。オンエアで私の腹の音が全国に流れると思うと、ちょっと複雑」
「誰も気づかないよ。せいぜい『効果音がこだわってるな』くらいにしか思わない」「そうかな。……まあ、いいや。死体役、意外と楽しかったし」
「潤の言う通りだったよ。床に転がってると、天井の照明とか、スタッフさんの足元とか、普段見えないものが見えるの。世界を下から見上げるのって、なんか安心するね」
「でしょ? それが底辺の特権だよ」
俺たちは並んで、空を見上げた。今日の空は高く、雲ひとつない。死んだように生きる俺と、生きるために死体を演じる彼女。矛盾しているようで、どこか似ている。
「ね、潤」
「ん?」
「次に死ぬ時は、もっと上手く死ねる気がする」
「縁起でもないことを言うね!?」
「比喩だよ。役者としての話」
帆夏は笑って、最後の一口を飲み込んだ。その喉の動きを見ながら、俺は思った。人間は、腹が減るから生きているのではない。生きているから、腹が減るのだ。そんな当たり前のことが、ひどく愛おしく思えた。
「ごちそうさま。……あ、また鳴った」
「今度は俺だ」
俺たちの腹の虫は、今日も元気に共鳴している。それはきっと、どんな名演技よりも確かな、生命の証拠だった。




