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場外馬券場の朝は教会よりも厳粛だ。ここには、神に祈るのではなく、確率論という名の気まぐれな暴君にひれ伏す男たちが集っている。
彼らは皆、耳に赤い鉛筆を挟み、新聞という聖書を読み込んでいるが、そこに救いが書かれていないことを心の底では知っている。
床には外れ馬券という名の叶わなかった夢が散乱し、独特の埃っぽい匂いが充満している。それは、人間の欲望が乾燥して粉末状になった匂いだ。
「……ね、潤。なんで馬は走るんだろうね」
場内にある食堂でカツカレーを突きながら、帆夏が哲学的な問いを投げかけてきた。彼女は今日も全身黒ずくめだが、場所柄、誰も彼女が最近バズり気味の女優だとは気付かない。
ここでは、モニターの中のサラブレッドだけがスターであり、人間の女になど誰も関心がないからだ。
「走らないと、馬刺しになるかもしれないという危機感からじゃない?」
「ふふっ。シビアだね。雇用契約が命がけすぎる」
「人間だって同じだよ。走るのをやめたら、社会的な死が待っているんだから」
俺はモツ煮込み定食の汁をすすった。濃い味噌の味。胃袋の粘膜を直接コーティングするような塩分濃度だ。
「わ、結構深めだね。……でもさ、この馬の名前見てよ。『ドリームパスポート』だって」
帆夏が新聞の出走表を指差す。
「夢へのパスポートを持ってるのに、なんで泥んこの中を走らされてるの? 飛行機で行けばいいじゃん」
「パスポートの発行元が怪しい国なんじゃない?。入国審査で止められて、走って国境を越えるしかないんだよ」
「なるほどね。かわいそう。私なら名前を変えるね。『ジタクケイビ』とか『コタツムリ』にして、一歩も動かない馬になる」
「変な馬」
「ふふっ。でしょ?」
二人でぼーっと中継映像を見ながら朝食兼昼食をつつく。
ふと、帆夏が周囲を見渡し「ここはさ」と呟いた。
「ここは……プラスイオンが充満してるね」
「プラス? マイナスじゃなくて?」
「や、潤はここが滝つぼレベルの癒しスポットだと思ってる?」
「全く思わないかな」
「でしょ?」
帆夏は目を細めて前のめりになる。
「だから、ここに溜まっているのは癒しの真逆。怨念がこもって……おんねんな」
唐突なおやじギャグに空気が凍り付く。正確には、俺が笑えばいいのだが、ぴくぴくと痙攣する程度にしか顔が動かない。
「……度胸だけは認めるよ」
「ん。さんきゅ。でさぁ……プラスイオンが集まってるし、どこか行かない?」
「どこか?」
「そ。これこれ」
帆夏はクイクイっとグラスを手に何かを飲むジェスチャーをしてきた。
「昼から……いよいよダメ人間になってきたね。帆夏さん」
「や、私はこれから芸能界にはばたくわけ。こういう生活もあと少しだよぉ?」
「相変わらず気が早いなぁ……」
◆
場所を変えて、高架下の居酒屋。正午を回ったばかりだが、赤提灯が既に灯り、店内には昼飲みを楽しむ大人たちがポツポツといた。
俺たちはビールケースをひっくり返したテーブルに向かい合い、生ビールと冷やしトマトを注文した。
「で、最近どうなの? 無職さん」
帆夏がビールの泡を唇につけたまま、何気なく聞いてきた。まるで今日の天気を聞くような軽さだ。
「特に何も。強いて言うなら、アパートの隣人が引っ越した」
「へえ。どんな人だったの?」
「一度も顔を合わせたことがないよ。ただ、たまに聞こえるくしゃみの音が爆音で、しかも『ハクション』じゃなくて『ヘブシッ』っていう独特のリズムだった」
「ふふっ……コカ・コーラのアンチじゃないの?」
「ペプシの宣伝されてたの!?」
「刷り込みだよ、刷り込み。サブリミナル効果とかもあるじゃん?」
帆夏はそう言いながら俺の前でボクサーのように左右に動き始めた。
「サブリミナルってほど早くないよ!?」
「ふふっ……で、後は?」
「あとは、スーパーの棚の配置が変わった。おかげで30分もひきわり納豆を探して店内を彷徨う羽目になったよ」
「店員に聞いたら早いのに」
「聞ける?」
「や、私も聞けないけど」
「でしょ?」
「ふふっ。コミュ障同士だ」
「コミュ障同士で仲良くしているのも変だけどね」
「そりゃあ――」
そこまで言って帆夏が言葉を止めた。顔が赤くなり、言葉の逃げ先が見つからず困ったように首を傾げた。
「えっ……な、何?」
驚いて尋ねるも、帆夏はいつものポーカーフェイスに戻った。
「や、なんでもないよ。報告は以上? 一週間の出来事が、くしゃみの音と納豆の配置変更だけで完結してるけど?」
「これが無職のリアルだって。波風の立たない凪のような日々なんだよ。分かるでしょ?」
「ん。わかるよ。平和だよね。世界遺産に登録できそう」
「登録されたら観光客が来て迷惑だよ……で、そっちは?」
俺が水を向けると、帆夏は冷やしトマトに塩を振りかけながら、気怠げに答えた。
「んー、いくつか決まったよ。まず、来月から地上波でドラマに出る」
「……え?」
「役柄は、天才外科医。メスを持ったまま、愛と正義について語るの。私、血を見るだけで貧血起こすのに」
「医療事故確定だね!?」
「それから、清涼飲料水のCM。全編、沖縄ロケ。青い空、白い雲、弾ける笑顔。私、太陽光を浴びると皮膚が溶ける体質なのに」
「吸血鬼なの!?」
「あと、映画の主演。ミニシアターで流れるような小さいやつだけど。余命三ヶ月の花嫁役。毎日泣く練習させられてる。涙腺が干からびて、もう目から砂しか出ない」
帆夏が並べる単語のスケールが、俺の納豆の話と違いすぎて、脳の処理が追いつかない。『地上波』『CM』『映画主演』。
エナジードリンクの案件は前触れで、瞬く間に仕事が舞い込んでいるようだ。
世間一般なら、祝杯を挙げて狂喜乱舞するようなニュースだろう。
しかし、彼女はそれを燃えないゴミの分別ルールが変わったくらいのテンションで語っている。
「すっ、すごいね……人生のインフレ率がバブル崩壊前夜みたいだ」
「インフレしてるよねぇ。私の実体経済は、まだ冷やしトマトなのに」
帆夏はトマトを一切れ口に放り込み、咀嚼した。
「ね、潤。私、どんどん遠くに行っちゃう気がする」
俺の思っている事と同じことを帆夏も思っていたらしい。
「……沖縄に行くだけでしょ?」
「や、物理的な距離じゃなくてさ。私という人間が、私の知らないところで勝手に膨らんで、巨大なバルーンみたいになって空に浮いていくんだ」
彼女の目は、酔っているわけではなかった。
ただ、漠然とした恐怖を見ている目だった。自分の名前が、自分という個人の所有物ではなく、公共の記号になっていく恐怖。
俺はジョッキに残ったビールを見つめ、それから言った。
「大丈夫だよ。そのバルーンの紐を俺が椅子にくくりつけておいてあげるから」
「……椅子?」
「そう。このビールケースの椅子だ。汚くて、ガタガタしてて、底辺にある椅子。ここに繋がれていれば、どんなに浮力が働いても、成層圏までは飛んでいかない」
俺は自分の冷やしトマトを箸でつついた。
「天才外科医になろうが、余命三ヶ月になろうが、ここではただの『ニート仲間の女の子』だよ。その事実は変わらない」
帆夏は俺の顔をじっと見て、それからフッと力を抜いて笑った。
「そっか。そうだね」
「うん」
「じゃ、この椅子から離れないようにしなきゃ。私、握力弱いから」
「安心していいよ」
「なんで?」
「人を引きずり下ろすことに関してはプロだから」
「ふはっ……悪魔みたいな人だ」
帆夏は嬉しそうに頷き、「すみません、焼き鳥の皮、タレで五本!」と店員に向かって叫んだ。その声は、天才外科医のような理知的な響きも、清純派ヒロインのような透明感もなく、ただの酒飲み特有の、少し掠れた声だった。
「ごっ、五本も食べるの?」
「ん。脂質でストレスをコーティングするの」
俺たちの昼飲みは続く。外の世界では、彼女の写真やポスターが街を彩り始めているかもしれない。そして、街を埋め尽くすまで時間はかからないんだろう。
けれど、この高架下だけは、電車の通過音が全てをかき消してくれる。俺たちは、馬券も買わず、夢も見ず、ただ目の前の焼き鳥の串を数えることだけに集中した。
それが、今の俺たちにできる、唯一の現実逃避だったからだ。




