24 天へ還る女神(終)
荷馬車がゴトゴト道をゆく。
車体は、どこでも見かける、小さなものだ。
乗っているのも、御者台に座る老いた行商人がひとりだけだ。
しかし、引く馬が、三頭もいる。
一頭は癖の強そうな老馬だが、他の二頭は見事な体躯の若駒だった。
渓谷を流れる川沿いの道を、馬車はゆく。
その背後、左右の崖の向こうには、雪をいただいた山々が連なっている。
まだ麓に降ってきてはいないが、時間の問題だ。
「いやあ、ありがたいねえ。この二頭、高く売れるよ。ここまで立派だと馬車は引かせられないよ、騎士とか軍隊に売るさ。それで新しい馬が買えるねえ。おお落ち着けいやいやお前を捨てるわけじゃないよ。でももう一頭いればお前だって楽ができるだろう? そうだよお前とはずっと一緒だよ安心おし。しかしこの二頭、ただでもらえるなんてねえ。あそこの薬草や茸はよく売れるのに、さらにだよ。迷惑料にしても助かるよ。盗賊どもが乗ってたにしても売るには関係ないからねえ。いやほんと商売は信用と、運だねえ。やつらに捕まった時はどうなることかと思ったし、森の中を延々歩かされて死ぬかと思ったけど、生きのびてこそだよねえ」
御者台に座る老商人は、ほくほく顔で臨時収入のことをひたすらしゃべっていたが、ふと、背後の白い峰々を振り向いた。
「しかしこうして見ると、あんな土地があるなんてわからないよねえ。そこでついこの間まで殺し合いしてたなんて」
老人だけなので、ひとりごとか……と思いきや、荷台で身じろぎする妙な姿があった。
ぼろぼろの布をかぶった、人間かどうかも怪しい存在だ。
ちょっと目を離せば積んである荷物と同じものと思えてしまう、異常なほど気配のない、おかしな相手だが……。
その布の中から黒い色をした長剣がにょっきりと突き出ているので、老人もそこに人がいることを忘れはしない。
まして、たまたまとはいえ一度乗せたことのある、とてつもなく印象的な相手とあらば。
「それにしてもあんた、ブルンタークの人だったんだねえ。助けに来てくれたんだろう? 騎士さまたちが来てくださったおかげで命拾いしたよ。ありがとうな」
「ああ、まあ……」
けだるげな声が応えた。
「騎士さまたちはもう帰っちまったってのに、今になって、わしなんかのこんな馬車でいいのかね」
「まあ……構わない……知らない仲でもないからな」
ブルルと老馬が鼻を鳴らした。
「ほんとろくでもないやつらだったねえ。騎士さまたちが、逃げてたやつらもみんな退治してくださった。ざまあみろだ。森の中を逃げ回ってて、隠れ場所からやつらの姿が見えたときはもうおしまいかと思ったけどねえ」
「冬になる前に片づいてよかった」
「ああ、解放軍とか言ってたあの若い連中、森の中は隅から隅まで知ってるからな。あれだけ道案内がいりゃ、簡単だっただろうさ」
「みな、首をはねられたと聞いたが」
「ああ。むごいけど、仕方ないねえ。そうされて当然の連中だからねえ。見たかね、首がちょうど百、並べられたよ。すごかったよ。あそこは子供の肝試しにいい場所になるだろうね」
「…………」
「でもやっぱり、リージェだよ。わしはちっちゃいころから知ってるんだけど、あのぼんやりした坊ちゃんが、鬼みたいなやつらに、先頭に立って向かっていって、とんでもなく強いゲールをやっつけたんだってな。女のあんたは見てないだろうけど、すごい戦いぶりだったそうじゃないか。全員一致の、新しい領主さまだよ」
「ああ、まあ、いい男だし……いい国王になるだろう、あれは」
「間違いないねえ。人はぐんと減っちまったけど、その分腹一杯食えるから冬越しも問題ないだろうし、リージェはちょいと頼りないけど、兄さんがついてりゃ大丈夫だろうよ。アルツェさんも可哀想にな、やつらに頭を燃やされるなんてなあ。ひどいよねえ。でも生きててほんとよかったよ。あの人は前から頼りがいあったし、頭もよかった。あそこはこれからひらけるよ」
「ああ、それは間違いない」
「……しかしなあ、新しい領主さまは頑張ってて、人はいくらいても足りなくて、ブルンタークからも新しい人がどんどん来てるってのに、あんた、帰っちまうのかい」
「まあ…………色々あってな」
黒剣を抱くぼろぼろの角度が変わった。
空を見上げたようだ。
※
「いたか!?」
「いないよ! どこにも!」
「探せ! もっと探すんだ!」
建てられたばかりの館の中を、若い国王が駆けずり回っていた。
髪は切りそろえられ、生え始めた髭もきれいに整えて、清潔な衣装を身につけた長身は文句なしに立派なものだが、顔つきにはまだまだ少年の面影が残っている。
ついこの間まで村娘だった第一王妃も、未亡人だった年上の第二王妃も、側室候補の三人の女性も、国王にならって走り回る。
国王は蒼白だ。
出くわした者はみな、あのゲールが亡霊の国から舞い戻ってきたのかと慌てふためいた。
「もうすぐ雪が降る、だから屋外じゃない! 人の近づかない、でも温かくて食べ物もすぐ手に入る、寝やすい場所だ! いるとすればそういうところだ! 物陰とか倉庫の隅とか、そういうところを徹底的に探せ! 棒でつつけば動くからわかる!」
ひとしきり駆け回った後、若王は館を飛び出すと、自らの足で城下の街を横切り、外れにひっそりと建っている、一見家畜小屋のような、大きいが何の飾り気もない粗末な建物に突っこんでいった。
「兄上!」
「あ~、来やがったよ鬱陶しいやつが」
禿頭をゆったりした神官衣につつんだ、黒い口髭を伸ばしかけている長身の男――国王の兄たる神官は、肩をすくめて国王を迎えた。
同じ屋内には、腹の大きな女性が何人も、体を伸ばせる長椅子に身を休めつつ編み物や小物作りなどの手作業に励んでいる。
みな、悪鬼の子を孕んでしまっている上に、受け入れてくれる相手を見つけられなかった者たちだった。
生まれてくる子は、この土地の住民たちに仕えあらゆる下働きをする従僕となることがすでに決められており、神官が全員の父となりこの『神殿』で責任もって育てることを引き受けている。
ちなみに、神官自身の子を最近孕んだ女性もふたりいて、どちらもここに居座っている。彼女たちの悩みは、神官の子供を欲しがる女性がさらにもう一人いることである。
「やっぱり、いなくなったか?」
「やっぱりって! 知ってたんですか!?」
「知らねえよ。でもまあ、そうなるだろうなとは思ってた」
「なんで!? ブルンタークの人たちにも隠し通したのに!」
「毎日押しかけてたくせになに言ってやがる。お前ら全員がだ。女房どもがどういう顔してるか知らねえのか、スケベども」
「………………」
悪鬼に雄々しく立ち向かった男たちはみな、新しい国の中枢を担う本物の『騎士』に任命され、秋の収穫の後は、この土地では貴重となった若い男ということで、大幅に減った人口を回復させるための義務として複数の妻を娶り、日々色々と励んでいる。
だが、妻たちとは別に、彼ら全員の心に宿っている、麗しい女神の姿があった。
国王の心の深い部分にも、その女神は鎮座している。
王妃たちのことはもちろん愛しているが、それとは別なところ、誰にも触れられない最も深いところに入りこんでいる絶対的な存在だ。
「お前にしたって、何かにつけて相談に行ってただろうが。いや相談じゃねえな。言い寄ってた、ってんだよ。自分だけは迷惑かけてないとでも思ってたのかよ。嬢ちゃん……じゃねえ、第一王妃さまが何度俺んとこに愚痴りに来たか教えてやろうか」
「う……」
「聞いてるだけでも、その様子じゃすぐ逃げ出す、もって一月だろうなとは思ってた。
大体当たったな。今頃は外だろうよ」
「そんな………………そんなぁ…………!」
「ま、いいんじゃねえの」
神官は、懐かしいものを思い出すように、遠い目をした。
「俺たちみたいなただの人間にゃ、扱えねえやつよ。
天から来てくれて、役目が終わったから、天に帰っていく。
そういうものだったんだよ。そう思えよ。
本当にそうだったのかもしれねえぜ」
「天から降りてきて…………天へ……」
若い国王も、遠くを見つめる目になった。
麗しい女神を思い浮かべているのだろう、その少年の瞳に、涙がにじんだ。
ひとつの別れを受け入れ、若き王は、大人になった。
――そこへ『兄』が気配りのかけらもなく言った。
「どのみち、いたところで、これからのこの国にゃ、何の役にも立たねえよ」
「…………」
「とりあえずだな………………」ひとつ息を吸い「新しい村の建築と水路の工事と開墾計画と各工事への人の配分と兵士の訓練と武芸指導と教育全般と外からの技術者招聘と人集めの交渉と受け入れ準備と金勘定と、全部俺に投げるんじゃねえ! 墓守の仕事もあるしもうじき子供ぼろぼろ産まれるその準備もしなきゃならねえんだ!」
「めんどくさい!」
「あいつの真似すんなこのボンクラ! 思い出させるんじゃねえ! 全部押しつけていきやがったぐうたらが! あんなのに負けたなんて思い出すたびに腹が立つ! 尻尾振ってるお前もだ!
だいたいな、人の上に立つってのは楽なもんじゃねえんだよ! もっと鍛えてもっと学んで、とっとと使える人間になりやがれ! でねえとこの国が潰れるぞ! 今度潰したら許さねえからな! わかったら女の尻追っかけてねえで、働け! もっと働け! やんなきゃなんねえことはいくらでもあるんだぞ!」
※
「……いい相手を見つけたと思ったんだがなあ」
馬車の荷台で、けだるい女の声がする。
「私に思いっきり楽をさせてくれる、理想の相手だと思った。
だからいいところをいっぱい見せて、がんばった。
うまくいったはずだった。私は女神として祀られて、これからずっと、のんびりさせてもらえるはずだった。約束させた。誓わせた。
なのに、少年だけじゃない、みな、全然、楽させてくれない。話が違う。これだから人間ってやつは」
どうしようもない愚痴を聞いて、老人は苦笑した。
「ああ、そんなぐうたらな神様じゃ、あの国にはいられないねえ。
あそこはこれから、何もかも全部、作り直さなきゃならんからな。誰も彼も目が回るくらい忙しい日が、何年も続くだろうさ。
どんなぐうたらだろうと蹴飛ばして、女神さまだって働かせるよ」
「働く…………ああ、おぞましい」
「で、ぐうたらな女神さんは、気楽なふるさとへ帰ると」
「それが……一応、ごはんをくれる親戚はいるんだが、あそこは、色々、とにかく、めんどくさい。なので他の、あてはないが、まあ、どこか、楽ができるところを探す」
「そんなとこ、あるもんかね。あるならわしも行きたいもんだが」
ぼろぼろの中から、長いため息が漏れた。
「どこかに、ないかなあ……めんどくさくない、楽な場所。何もしないでいいところ。困ってる人を助けなくてすんで、誰も斬らなくていいところ」
ぼろぼろは、ぐにゃりと高さをなくした。
横たわったようだ。
「……やめた。寝る」
「ああ、街についたら起こしてやるよ」
「頼む」
空は澄み、風は涼しい。
はるかな高みを、列を成した鳥の一群が悠然と横切ってゆく。
希望に満ちた忙しい国につながる峡谷を出た馬車は、だらしなく寝こけるぼろぼろを乗せて、広々とした晩秋の野をゆっくりと進んでいった。
読んでくださってありがとうございました。
感想、評価などいただけると嬉しいです。




