狂血のバッシ
〝結界が破られた 教授の結界が破られた 教授の結界が……〟
ゴブリン軍筆頭の将〝軍師〟の頭の中で、警告が鳴り続ける。パニック状態に陥った女王が、子らに危機信号を放ち続けているのだ。
強制的に湧き出す脳内物質が体温を上げ、嗅いだ事のない汗に焦燥感を募らせる。
〝女王の魔力を用いて、教授が構築した都市結界を破った者がいる〟
想定外の事態と、それに勝る信号の訴求力に動揺しつつ、冷静な軍師は魔導触覚を伸ばす。
枝分かれして都市部を覆い尽くした不可視の触覚は、女王の無事と同時に、戦慄すべき結界の穴を知覚した。
軍師の近くに開いた穴を何者かがくぐり抜ける気配ーーそれを察した瞬間、得意とする転移陣を展開して、目先の脅威を一時的に移動させた。
〝消費魔力拡大による、遠隔転移魔法の可及的速やかなる行使〟によって、ごっそりと削られた魔力と引き換えに、教授の結界を破る存在を排除した安堵を得る。
軍師はふと、傍にある闇龍の軛が気になった。何者かが自分を狙うとしたら、これが原因ではないか? 闇から隔離したせいで、何かの信号を発するようになった可能性も、無いとは言い切れない。
封じられた獄火の巫女は彫像のように直立し、周囲を黒ゴブリン兵士に包囲されて、何の変化もないように見えたが……何かが気になる。
防御反応を示さない魔導師の衣とは反対に、転生と共に得た魔導触覚の予感がジクジクと心を蝕んだ。
結界破りと、軛に封じ込めたリロを結びつける根拠は無いが、両者が関係している幻が、軍師の脳裡にこびりついて離れない。
教授の設置した結界は都市全域を網羅し、髪一本通す隙すらないはずだ。その強大な結界は、味方ですら決められた暗号がなければ転移できないほど複雑である。
そんな理論上はあるはずの無い穴を、更なる気配が通り抜けようとした。
軍師は咄嗟に魔法壁を唱えるが、いつの間にか発生した熱によって、出来つつある魔法壁に大穴が開く。
焼ける穴から現れたのは一人の女。炎に清められた地に足をつけると、ローブ姿のまま一切の熱害を受けずに穴を抜け出た。
涼しげな顔には汗ひとつなく、背筋を伸ばして左手で眼鏡を押し上げると、鋭い視線を軍師に向ける。
素早く魔力を錬成した女は、赤に輝く石の嵌った右手を差し出しながら、軍師に歩み寄った。硬いヒールの足音が響く中、周囲を真っ赤なエネルギーの渦が取り巻き、甲高い音を立てて五つに収縮していく。
圧縮した魔法の炎は、多大な質量を伴い、ハイヒールを石畳みにめり込ませる。その負荷で踏みしめた石畳が剥がれると、魔力の影響を受けて浮遊した。
ゆっくり漂う渦巻きの魔力が極に達した瞬間、爆発して全てを跳ね飛ばす。
咄嗟に展開した魔法壁をも吹き飛ばされ、軍師の周囲で熱風を浴びた者達が唸り声をあげながら焼失した。
引っ詰め髪の魔女は、白く輝くメガネを、再度人差し指で押し上げると、全身から湯気を発する。髪に馴染んだ香油が闇に揮発した。
「その子に手を出したのはあんたかい?」
凛々しくも年季の入った声が響く。大気を揺らす燃える瞳を、無事だった黒ゴブリン達に向ける中、転移門より逃れようと、軍師が衣を展開した。
だが、女が軽く指先を擦ると、転移門の中心から火が起こり、瞬く間に燃え広がった。同時に起こった炎が闇龍の軛にも燃え広がり、軍師が隠密に発動させていた第二の転移門も焼失する。
「それに気づくか」
苦々しく漏れた軍師の言葉に、
「へぇ〜、喋れるのかい」
と、女が感心したように呟く。眉間に皺を寄せる軍師に人間と変わらぬ感情を見て取った女は、転移魔法の威力とともに警戒心を強め、魔法戦を覚悟した。
その時、無意識に軛を隠そうと動いた軍師の衣が掠り、リロが転倒する。受け身もとれずに地面に叩きつけられた姿に、女ーーライザベルは肝を冷やした。すぐ元に戻ったが、水でも詰まっているかのように肩の部分が陥没したのだ。
〝バチッ〟
ライザベルの放つスナップが乾いた空気を切り裂くと、軍師が閃光に包まれ、轟音とともに黒煙が広がる。
視界を妨げる薄闇の中に、ぼんやりと浮かぶ赤い円。視界がハッキリするほどに、軍師の魔導盾に描かれた微細な紋様が浮き上がる。
高度な魔法技術を表わす円の内側で、獣が唸り声を上げる。転移によって増え続ける気配、その手綱を軍師が離した瞬間、円形が押し出され、ライザベルに迫った。
大きく手のひらを擦り合わせたライザベルによって、魔導盾の前面に魔力が張り付くと、茫漠たる炎が生み出される。赤に照り返す部屋が温度を上げる中、黒煙を放つ盾は勢いを変えずに進んだ。
向けられたライザベルの両手が下がると、黒煙が取り巻いて、自重を増したように盾がズズズ……と地面に押し付けられる。
魔光散り、そのまま黒煙が部屋を汚染し尽くすかと思われた矢先、新たな円形魔法陣が生まれると、縦の円柱状に空間を転移して、下階に獣を逃した。
部屋に穿たれた穴の向こうで、苦々しげな軍師の視線が怒気に染まる。
「きさま……」
と声を放った瞬間、
「バチィッ」
スナップとは思えぬ硬質な摩擦音とともに、階下に轟音が響くと、穿たれた穴から火柱が噴き上がった。
*****
強制的に転移させられたバッシは、その直前、
「リロの仲間ね……」
という女の声を聞いた気がした。
ポコの感覚鱗にも知覚できない存在に戦慄を覚えるが、鋼睡蓮を通して、別空間からの干渉であることを知る。
思考の僅かな間に、魔力的干渉が襲いかかり、リロへと至る転移先が捻じ曲げられた。
金環の能力を睡蓮鋼に取り込んだものの、操作もままならないバッシには抗する手立てがない。魔力を分解する事はできても、操る魔力を持っていなかった。
飛ばされた先には、黒ゴブリンが形作る陣列があり、何者かに襲いかかろうと、中心に向かって身構えている。
集団の外側に放り出されたバッシは、リロの元へ向おうと感覚鱗の感度を上げた。
先ほど声をかけてきた女の気配がする。
気のせいかもしれないが、他に行くあてのないバッシは音を立てずに移動し始めた。
黒ゴブリン達の包囲陣形が紫の煙に包まれ、騒乱の気配が濃縮する。悲鳴とも怒号ともつかない絶叫を孕み、紫の霧が魔素となって空中に散った。
バッシは直感的に紫煙と紫光の大剣の、破魔に対する共通性を感じ取る。一瞬、外縁部の黒ゴブリン達の注意が逸れた。
その機を逃さぬように、気配を殺して移動するバッシを、周囲のゴブリンが一斉に見た。
あまりにもタイミングが揃った異様な反応に、黒ゴブリン達を警戒したバッシは、一刻も早く離脱しようと金環の力を探る。そこで使い切った魔力を補充する手立てが無いことに気づいた。
バッシは一切の魔力を持たない体質である。もし魔石があれば、それを利用できたかもしれないが、将軍に殺されかけた時に、全ての荷物を失ったバッシは、ドワーフ達に渡された食料しか持っていなかった。
ジリジリと距離を詰める黒ゴブリンの集団。状況悪化を告げる雄叫びが、暴力の気配を滲ませる集団から放たれる中、バッシの視神経に繋がるポコが、とある情報を可視化した。
即座に意図を汲んで承認すると、歯の裏を起点に極薄の鋼睡蓮が広がり、口内粘膜から喉奥へと覆っていく。
金臭い舌を口蓋に当てると、滑らかな金属同士が擦れる異音がした。
鋼睡蓮の皮膜は声帯に達して完全に覆いつくす。ポコの吸収した力ーー鋼睡蓮に取り込んだ狂血のシオンの能力が、バッシの声帯に渦巻いて疼いた。
「退け」
思うと共に吐き出された言葉が低く重く響き、そこに狂血の、そして龍玉の魔力が篭る。鋼睡蓮の声帯が生み出した振動を鋼の粘膜が増幅し、空中に放たれると爆発的な魔力が生まれた。
凶暴な黒ゴブリン達が魔力に圧されて円形に退く。その影響は、バッシが歩を進めるごとに浸透して、集団の形を変えた。
バッシの目の前には道が拓かれる。しかし魔力の及ばぬ範囲には、一層濃度の高い集団が形成されて、壁のように行く手を塞いだ。
両手から振り出すように、一本づつの鎌鉈を表し、無造作に放つ。双刃が黒ゴブリンに吸い込まれ、鋼に触れた血肉がポコによって分析されると、黒ゴブリン達の性質が知覚された。
鋼睡蓮によって操られた刃が群れの一部を削っていく。その過程でポコの分析によって黒ゴブリン達の連動性が解析された。それと共に、魔法王国時代の戦友とも言える存在、爆薬小鬼との共通性を理解する。
「退け」
二度目の発動に狂血が疼き、視界の一部が赤く染まる。ポコの示した警告の証は、能力が発揮されると共に、龍玉の魔力が尽きる事を示していた。
目の前の集団は、教授の作り出した人造兵団、いわばバッシの兄弟のような者達だ。そう思うだけで振るう刃が虚しくなる。
だが、今は仲間を救わねばならない。あの華奢で、理知的で、優しくて、何者にも代えがたいリロを助けねばならない。
狂血の魔力と二つの刃によって、目の前に空白地帯ができあがる。その中に一体だけ、狂血の魔力に抗う黒ゴブリンが屹立していた。




