銀光の中の剣聖
光の中にあって全てが視えない、しかし視覚など必要としない濃密な気配に、凝り固まった緊張の芯が解れていく……バッシはぬくもりを感じていた。ほんの少し前、闘争の渦中にあったとは思えぬほどの安らぎ……それを与える存在は、
〝バッシ〟
といつもの声をかけながらゆったりと寄り添い、短かくなった体を包み込む。
体液のような……動物の乳のような液に満たされ、手足を失い身動きの取れないバッシは、重力を失って緩く回転する。全身に形を変える精霊を感じていると、一瞬リリの匂いが鼻をかすめた。
視覚ではない何かでーーいつの間にか芽吹いた蕾から見事な睡蓮火が咲き、無いはずの自重に身を委ね大輪の花弁が開くのを〝見た〟
それはしかし、リリのものでは無い。鋼の精霊が取り込んだ睡蓮火の力ーーその証拠に花弁に走る脈には鋼の冷たい風合いが剝き出しになっている。
銀光の甘いミルクの中に浸る重篤者は、自身の脈と睡蓮火の葉脈が同調していくのを静かに受け入れた。呼吸しなくとも良い肺に浸潤したミルクが全身に循環すると、銀光の世界とバッシとの境界は、極限まで薄くなってゆく。
本来ならば激痛にのたうち回る重篤な状態だが、それを感じさせない鈍麻がバッシの自我をふやけさせ、常に胸を占めていた飢餓の念が薄れると、肉体を失う事も悪く無いと思えて、緩く笑みが漏れる。その頃には思考が結びつくのを辞めて、精神すらも分解しはじめた。
「このまま死んでも良かろう」
いつの間にか隣に立つ剣聖が優しく語りかける。そこは地面のある、しかし奇妙に知覚できない空間だった。バッシは肢体を失ったまま、安定して浮かんでいる。
「良くやった、あれには俺ですら敵わなかったのだ。もう戦う必要もなかろう、肉体を離れてゆっくりと溶けるが良い」
耳に優しい言葉に己の死を知覚する。そうだ、俺は将軍に貫かれて死んだのだ。死んだのならば、受け入れるしかあるまい。
「そうだ、死は誰にでも訪れる。やがて将軍ですら、衰えて死ぬ時が来るのだ。死を恐れて逃れる術を探し求める教授にもな」
笑みを深める剣聖の左目がいたずらそうに細められる。空中で肉体を解き始めたバッシも、反射的に笑みを浮かべた。
〝貴方はだれ?〟
バッシを繋ぎ止めようとする鋼の睡蓮火が、その者との間に立ち塞がった。銀に縁取られた睡蓮火が威嚇するように花弁を伸ばす。
「私はウォード、彼の中にある認識としてのウォードだ」
と語るのは、ウォードの姿を借りた何か。だが見ようとしてもピントが合わないように、意識の焦点が外されてしまう。バッシの薄れゆく自我と反比例して明現した鋼の精霊は、正体を確かめようと滑らかな葉脈状の指先をウォードに伸ばした。
光が弾け、銀光のミルクに濃淡の滞留が生まれた。そこに浮かんだバッシは激しく撹拌され、そんなはずではなかった精霊は動揺して、分解するバッシを留めようと四肢を伸ばす。
「何故生かそうとする? その者は死を受け入れたーー繋がりを消したくない故に生かすのか?」
光を強めるウォードの声が精霊を撃ち、
〝このまま殺させない〟
と念じる精霊は必死に抵抗を試みる。その手を止めたのは、他ならぬバッシだった。見れば再結合し始めたあらぬ方向に折れ曲がった手で、中空の葉脈でできた精霊の腕を掴んでいる。
バッシの意思が目に宿り、それは深い茶色を透過してミルクの濃淡をさらに撹拌した。
「そうだ、このままでは死ねない」
芽生えた意識が血流に乗って全身に循環する、その熱は散り散りに浮かんだ肢体を呼び集めた。
精霊を掴んだ指先から葉脈の体が裏返り、バッシの表皮に張り付いていく。その薄い境界をもって、バッシと銀光の世界は完全に分離した。
「精霊は俺だ……俺の一部は納得していない」
全身を包み込んだ鋼の葉脈、手のひらを覆うそれを握り込んだバッシが、
「死を受け入れる事が完成ならば、そのために生きたい。死を受け入れるために生きる」
と呟く。
「傲慢だな……だが今はそれに免じて機会を与えよう」
とウォードの声が響くと、周囲の風景は一変した。一瞬気を失い、再び意識を取り戻した時には、ウォードも地面も全てが搔き消え、上下も分からぬ暗黒の中に居る。
手を伸ばしても何も無い。自分がどんな状態かも分からない中で、表皮となった葉脈が、
〝大丈夫、今はこのまま眠って……今は陽の光や空気すら刺激が強すぎるから。元の体は、切り刻まれる前から、度重なる超回復によって限界に達しようとしていた……今は少し休んでいて。その間に私が、私の力で再生させる。貴方自身として、ね〟
精霊の声はほんの少し流暢になり、バッシは語らずとも感情を伝えられた。それでは眠ってしまおうか、と意識を手放すと、肉体を再編する粘着質な音が、虚空に吸収されていった。
*****
「お主も甘いな、傲慢といったがまだまだ足りぬ、緩いヒヨッコだ。傲慢とは俺くらいの物言いをせねば値せん」
と新たな左目を授かったウォードが呟く。左目奥に仕込まれた生体真銀は、鋼の睡蓮火を形造る時に消費されていた。
「…………」
「そうか、お主がそう言うならば文句は言うまい。俺は自分さえ良ければいい、そうして生きてきた」
「…………」
「うるさい、おしゃべりはここまでだ、早く俺の全身を癒せ。精霊の父の機嫌が変わる前に」
話はここまでとばかりにウォードが眠りにつくと、銀光の世界は静寂を取り戻した。
*****
概ね素体を作り上げ、龍装に自身を忍び込ませた精霊は、龍装を伝ってバッシの内臓にも浸潤して行く。そうして脳内にまでその指先を伸ばしたとき、明らかに不自然な呪いの形跡を発見した。
それは一見解除された元軛の跡、しかし焼き切れた筈の器官から滲み出てくるのは、いまだに変わらず存在する軛の気配である。
〝二重の軛〟
表面的な軛とは別に、存在そのものに掛けられた呪い。バッシが生まれる前から仕込まれていたそれに気づいた精霊は、何とか除外しようと体をいじくった。だが軛を消滅させようとすれば、バッシという存在そのものが消えてしまう事に気づいて愕然とする。
洗い流す事のできない〝しみ〟そのものがバッシという存在なのだ。
〝どうすればいい?〟
と思考を巡らせる内に、剣聖が将軍に手渡した聖なる玉の事に思い至った。剣聖は将軍に、
「軛は消せるが、副作用として己の力をも失う」
と言っていた。ならば魔力を持たないバッシに取り込ませれば、何も失わずに真の意味で軛から解放されるのではないか?
唯一とも言えるバッシの能力【超回復】を龍装や鋼睡蓮の表皮側に再編すると、素体としてのバッシを再生させていく。
養分は銀光と睡蓮火の誘い水に引き寄せられた精霊界の深大なる力。この世界そのものの力を背景に、潤沢な素材によって形作られたバッシは、傷一つない綺麗な体を横たえた。
体表には鋼の睡蓮火が葉脈を伸ばし、解かれた龍装が再び全身を覆っていく。その上には、鋼の大剣が添えられた。形は同じだが、先ほどウォードの中に顕現した者の力によって定着魔法を剥がされたそれは、目の前で分解すると、ある時点で反転するように再結合していく。
生体真銀の力を取り込んだ鋼の精霊が、大剣を元と同じように組み上げると、再び分解して葉脈の中に吸収する。目の前には双槌紋の拵が浮かんでいた。
〝バッシはこれにこだわっていたわね〟
と呟いた精霊は、それすらも睡蓮火で焼き尽くすと、その要素を自身の中に組み込んでいった。
*****
「貴方は何故引き上げてきたの? もう少し場をかき乱す予定じゃなかった? 少なくともカースが大司教を殺すまでは」
教授の声は将軍の操る冷気のように鋭く刺さった。帰還した将軍はすぐに教授の元に参じて経緯を説明したが、その中で肉男に封じた聖なる玉の件には一切触れていない。
無言でこうべを垂れる将軍に冷眼を落とした教授は、側に侍らせた女王の頭部をゆっくりと撫でる。
「グルル……」
と喉を鳴らした女王は、強力な思念波で将軍を包み込むと、その思考を読もうとした。だが冷気の結界が逆流して、女王の脳を浸食すると、悲鳴をあげて思念波を回収する。
「ダメージを受けた、鬼子によって」
既に回復した腹にはいまだに薄っすらと傷跡が残っている。完璧と思われた将軍の生体真銀に傷跡を残し続けるとはーーこれまでにない現象に興味を抱いた教授は、女王を払うように立ち上がると、
「すぐに研究室の用意を! こんな事があるなんて。その鬼子とはいったいだれ?」
と興奮した様子で将軍を連れて立ち去った。
取り巻きも去った部屋には残された女王がたたずみ、瞳に嫉妬の炎をギラつかせている。その思念波に誘われた子供達に運ばれながら、去っていった将軍の真白の肌を長く思ったーーいつか殺す相手として。




