幼オウとフェンリル
静謐な森の奥深く、凍りついた滝裏にある洞窟に、その魔獣は潜んでいた。
他者の生気を吸い取る事で生となす、あらゆる生物の天敵とも言える伝説のライカンスロープ〝銀狼族〟
食欲旺盛な彼らの操る銀風は各地で猛威を振るい、同じく伝説的魔獣ながら、土地を富ませ、知的生物の良き導き手たる金豹族とは相反する存在とされた。故に力無き者達の集団によって追い討たれ、誇り高きが故に集団の暴力に飲まれていった。
その中でも極めて凶暴な個体として世界史にも〝女帝〟の名を残す存在が彼女、名をフェンリルと言う。
遥か昔はこうではなかった。獣人達は彼女を神のように敬い、従ってはその庇護下に生活を送っていた。
それは獣人達を活性化させ、一時的に獣憑きと呼ばれる超常の力を授ける事のできる能力に依るところもあり、その支配は盤石と思われていた。
だが人間なる多産の種がのさばりだし、獣人達を従えるようになると、立場は逆転する。
力有る魔獣を嫌った彼らは、銀狼族を罠にかけ、得意とする生命力奪取を逆手にとって、死霊魔法の餌食とし、滅ぼしにかかったのだ。
フェンリル一人がなんとか逃れたものの、数少ない同族は皆討たれてしまった。今後にさしたる展望も無く、自暴自棄に洞窟へと退避した彼女は、傷付いた体の回復を待つのみ。
こうなれば人間の都市部に襲撃をかけて、一人でも多くの人間の命を啜ってくれようか? それとも人化の能力を研ぎ澄まして、人間社会に取り入ってから、芯から最も深い傷跡を残してやろうか?
物騒な想像に凍てつく洞窟はさらに凍え、辺りから生物は姿を消し、森は息を殺したように静まりかえっていった。
「奪われた力を取り戻す気はないワフ?」
不意の声にうなじの毛が逆立つ。それはまるで耳元で囁かれたかのような大きな呟き……
全ての感覚を研ぎ澄ませていたフェンリルが、隙を突かれるはずは無い。特に嗅覚と聴覚には魔力が働き、何者の接近をも許すはずがなかった。
異常事態に即立ち上がると、いつでも跳びかかれるように身を沈め、周囲に気を張り巡らせて鼻筋に皺を作る。
荒んでいたところに不愉快な状況が重なり、喉からは、
「ゥルルルル……」
と唸り声が漏れた。湧き上がる魔力に洞窟の温度がさらに奪われる。
「お前は呪われた。無軌道に力を使いすぎて、方々で姿を盗まれているワフ」
またもや男の声が耳元で囁く。だが魔力に研ぎ澄まされた鼻や耳にはなんの反応も無かった。そう、その言葉は音であっても空気を振動させず、頭に直接響いてきたのだ。
「何者だ!」
漏れる銀風を吐き出しながら、それを全身に纏いつつ詰問する。だが囁きは続き、
「百の姿を盗まれた、その縛りがお主の運命を狂わせているワフ」
と告げた。とうとう我慢ならずに、銀風を爆発させると、閉塞空間は吸生の暴風に荒れ狂い、出口を求めて洞窟を駆け抜ける。だがいかなる生物の手応えもなく、力は虚しく空を扇ぐのみ。
精神体や魔法生物にも効果を発揮する銀風が、何の効果も発揮しない事にさらなる苛立ちを覚えると、うなじにチリリと痒みを覚えて反射的に振り返る。
そこでフェンリルが見たものはーーどこの風景であろうか? 家々からは煙があがり、住人は無残に打ち倒された、略奪の跡も生々しい寒村の姿だった。
どこかで見た光景に、森を出て一日駆けた辺りにある村である事を思い出す。
幻術か?……だが魔獣フェンリルをこんなにも簡単に嵌める幻術など、この世に存在するものだろうか?
こんなものを見せてどうするつもりか? 姿を見せぬ何者かへの警戒心が強まる中、遠くに光るものを見た。よく見ると、戦火を免れたのか、真っ白な毛並みを持つ犬人族の子供が、呆然と辺りを見回している。
その様子は泣くでもなく、怒るでもなく……裏返って放心状態といった佇まいである。
「この子と一緒に取り戻すワフ」
「取り戻す?」
「そう、自由で何の縛りもない自分を取り戻すワフ」
その時、自身の体から生える沢山の縄が幻視された。黒く粘着するそれは身を縛るでもなく、しかし纏わりついて離れない。
「何をする!」
身を捩ろうが回ってみようが、絡みつく縄に苛立っていると、
「特別に一体の複製を斬るワフ」
と、視界に入らぬ何者かが斬られた気配がすると、一本の縄が切れて空中に搔き消えたーー瞬間ーー
〝ふっ〟
と身軽になる。それは頭を縛り付けていた鎖が外れたような不思議な感覚。絶句するフェンリルに、
「その子と共に全ての複製を……呪いを断ち切るワフ、その先に魂の解放が待っているワフ」
と告げる正体不明の声……まさか神仏の顕現という訳でもあるまい? しかし亜神とまで謳われるフェンリルをここまで弄ぶとは、そうした存在であってもおかしくはないのか?
「悪神か狂神か、何者かは知らぬが、お主の思い通りになる我と思うなよ」
力を溜め込んだ四肢を駆って、洞窟を飛び出したフェンリルは、銀色の衝撃波を放ちながら山野を駆けた。
本来ならば一日かかる道程をほんの二刻ほどに縮め、半ば飛ぶように辿り着いた村は、映像に見たまんまの荒れようを晒している。
その中心部に……いた! 小さな真っ白い毛の塊が、細い手足を伸ばして屹立している。フェンリルはその命を刈り取ろうと駆け迫る。ぐんぐん近づいて見る犬人族の子供は、目を瞑り、まるで死ぬのを待っているかのように平静だった。
その柔首に鋭く魔力を籠めた牙を突き立てるーー直前のフェンリルを、柔らかな乳の香りが打つ。それを無視して顎に力を込めると、柔らかい純白の毛に牙の先端が触れた瞬間ーーフェンリルの全身を痺れが貫いた。
これまで経験したことも無いような甘い衝撃に、フェンリルは狼狽え、跳び退く。見れば小さな犬人族は目を硬くつぶり、微細に震えていた。
「その刀は振るわぬのか?」
手にした小さな白刃は、しかしフェンリルに向けるのを恐れるように後手に隠されている。
その様子にまたもや全身を駆け抜ける甘い衝撃。さっきとは違い、愛おしさの余り噛み付いてしまいたいような、暴虐的衝動に身震いが起きた。
震え続ける子に近づき、巨大な口を近づけたフェンリルは、次の瞬間ーーペロペロと子の頬を舐める。最初は耐えていた子も、次第にくすぐったがり、
「やめるワフ、くすぐったいワフ」
と笑いながら身をよじった。その幼い声に、先の幻の声を重ね合わせたフェンリルは、得体の知れぬ予感を覚えながら一際濃い銀風を纏い、二メートルを超す人型となって子の前に立つと、
「我は魔狼フェンリル、お主は?」
と問うた。後手に光る刀の柄を撫でた子は、
「オウ……オウ・スイシ・カニディエ」
と答える。
「長いな、ではオウよ、お主が我の呪いを解くというのか?」
と問えば、何の事か分からぬという風に首を傾げるのみ。そうか、先の声はこの子のものであって、今この時のものでは無いのだな……
何故かそう思えて一人納得すると、しゃがみ込んで無垢な少年の顔を撫でた。
不思議と違和感が無いのは何故だろうか? この少年への感情も元からそうであるかのように、いささかの疑いもなく、確信に根付いている。
ただ何となくこう思うのだ、
〝この子について行くのも悪くない、この子の成す事を見届けたい〟
その想いはすぐに言葉となり、
「オウよ、我はお主の力となろう、成すべき事を成すがよい」
言葉は気持ちの輪郭をより明確にし、もはや定まった運命となった。それを聞いたオウは小さな頭をコクリと下げると、霊刀持つ手を東に伸ばす。
その先にはーー暗黒大陸と呼ばれる戦乱の地が広がっていた。
「長くなるワフ」
と告げるオウを抱きしめると、
「時間はたっぷりある、私はな」
成すべき事の定まった喜びを胸に、銀風を纏ったフェンリルは狼の姿に戻ると、いまや愛しい存在であるオウを負って走り出した。
*****
それからの二人の旅路……大陸に渡った獣人達を一人、二人と集め、傭兵団を立ち上げると、奴隷となった仲間達を解放して回り、その輪の内にハンガウ達のような現地部族をも取り込み……資金力を付けながら転戦に次ぐ転戦。
少年は青年、そして中年期を迎え、冴え渡る霊感による的確な指揮は、仲間に連勝を呼び込んだ。
そうして溜め込んだ少なからぬ資金と傭兵団をもってヤマタに戻ると、奴隷獣人達を解放しながら反王軍を立ち上げ、北部の街を占拠し、以南のヤマタ王朝に仕える獣人達の一斉蜂起を促す。
「ざっとこんなところだ」
大雑把に事の経緯を話し終えたフェンリルに、満足のため息を吐くリロ。
「ハァ〜ッ、そんな事があったんですねぇ、素晴らしい、とても参考になりました」
獣人とはいえ、銀狼族が他種族に仕えるとは想像もつかなかったが、二人の過去を知ることで、その謎も解けた。
「それで全ての呪いは解けたのでしょうか?」
と問うリロに、
「いや、そう簡単にはいかない。今回の戦闘で喰らった複製が七十九匹目……か?」
遠い目で語るフェンリルに、
「そうですか、まだ二十一体の複製が居るんですね、この世のどこかに」
想像もつかないが、世界は広い。その中から二十一体の複製を探し出すとは……オウには霊感があるとはいえ、容易な事ではあるまい。
「どこかに……だが一体の居場所は分かっておる」
「え? どこに?」
と驚くリロに、人型への転身を見せたフェンリルは、
「ここに封じておる」
と銀毛の中から小さな封書を取り出した。
「ここに?」
「そう、余りにも頑強な奴での、封じる事しかできなんだ。だがお主の、迷宮の床すら溶かしてしまう、獄火の火力ならば……」
「溶かせる、と?」
「ああ、最初に見せた桁違いの炎」
「紅炎ですか?」
「そう、それでこいつを溶かし殺して欲しい」
「なるほど、それがこのお話のお礼という訳ですね?」
リロが心得たとばかりに言うと、黙って頷くフェンリルはその封書を指先で摘み、
「我が身より離れれば封印が解けてしまうやも知れぬ、このままやれるか?」
と腕を最大限に伸ばして聞いた。それに黙って頷くと、タンたんから魔法陣を照射して精神を集中しだす。
赤黒く不気味な紋様がフェンリルの爪先、封書を捉えると、
「この火は紅炎と対をなす陰の力。集中しますので、そのまま動かないで下さい」
額から汗を流したリロを見て、フェンリルも生唾を飲み込む。それは紅炎と同じように底の知れない力の渦であったが、超高熱を放つ恐ろしさよりも、底の知れない沼に足を踏み入れるような不気味さを放っていた。
『P 665 暗状紅炎』
地の底から響くような言葉に硬直していると、魔法陣の中心から赤黒い炎の触手が伸びてくる。
禍々しい力の先端は、封書を捕らえると煙を上げながら包み込んだ。
偽銀狼が封を解かれて暴れ出る。特別な処理を施された、岩のような表皮を持つそれは、しかし暗状紅炎の捕縛から逃れる術を持たずに、魔法陣へと引きずり込まれた。
最後の抵抗に、あらん限りの魔力を振り絞って耐える偽銀狼、しかし炎の触手が全身を包み込むと、無音のまま取り込まれていく。
残ったのは有機物の焦げた臭いのみ。その中で、自身と拮抗するほどの力を持つ複製を簡単に消滅させられたフェンリルは、知らずに固めていた拳をゆっくりと解いた。
「ありがとうよ」
硬直した口から言葉を吐き出すと、その場を立ち去ろうとするフェンリル。その背中に、
「何時でも、もし体が空いていたら、何時でも協力しますよ」
とリロが声をかける。振り向いてその真意を探るフェンリルに、
「戦友、ですからね」
と笑いかけるリロ。それを受けてフッと口角を上げたフェンリルは、
「そうか、一度でも一緒に戦ったら戦友か?」
「はいっ」
明確に答えるリロに背を向けると、心の中で〝とんでもなく物騒な戦友だな〟と呟きながら、剣璽と地宮の力を使い、あの時のフェンリルに干渉しているであろうオウの元に向かった。




