6/28(SUN)-6/29(MON)
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6/28(SUN) 17:40
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俺はコインランドリーのベンチに腰かけたまま、ぼんやりとしていた。
広くない空間には二十代と思われる女性が一人。でも、実際こうして来てみると見向きもされなかったし、俺自身もほとんど気にならなかった。
他に気がかりなことがあったせいだ。
「………」
洗濯物が乾くにはまだ時間がかかる。
俺は荷物の中からMayさんがくれたお菓子を取り出して、ラッピングのリボンを解いた。するり、とリボンが一本に戻ると包みの口が開いて、中身が取り出せるようになる。
チョコレートに浸かったと思しき一口大のクッキーが、透明な袋に入っていた。
一つを手に取って口に放り込む。
「……美味しい」
客観的に評価すれば「普通に美味しい」といったところだろう。
でも、俺には何よりも美味しく感じた。
Mayさんの手作り。
俺のために作ってくれたお菓子。
――ぶるっと、スマホが震えた。
しばらく前に送ったチャットの返信が来ていた。
『ミウ プレゼントの件、どうなりましたか? 今日あたり渡しちゃったり?』
『寒ブリ うん、渡しちゃった。……黙っちゃって、喜んでくれたのかよくわからないけど」
やっぱり、心配させてしまった。
ずき、と胸が痛む。
『ミウ 大丈夫です! 男って恥ずかしがり屋ですから、照れくさかっただけだと思います!』
『寒ブリ そうなのかな……。ありがとう、ミウちゃん』
ミウの言うことは正しいです。
だって、俺の分身ですから。
スマホをしまって、クッキーを一つずつ口に放り込む。
ゆっくり食べたつもりだったけど、あっという間になくなってしまった。もったいない。食べ物じゃなかったら家宝として置いておきたいくらいだったのに。
こんなことなら食べ物を薦めるんじゃなかった。
Mayさん。
Mayさんが、俺のことを好き。
『店長。Mayさんって、俺のことが好きなんでしょうか?』
店長は明確なアドバイスをくれなかった。
『さあ……?』
『さあ、って』
『だって、私が何か言っても意味ないでしょ? 結局はMayがどう思ってるかと、君がどうしたいか、それだけなんだから』
『それは』
その通りだった。
店長に「そうだ」と言われても「違う」と言われても、多分、俺は納得しなかっただろう。ごちゃごちゃと理由をつけてぐるぐると思考の堂々巡りを続けたはずだ。
俺はどうしたいのか。
Mayさんのプレゼントが「そういう意味」なのかどうかは関係なく、今の俺が、どうしたいと思っているのか。
彼氏になんてなれないと思ってた。
なれなくていいと思ってた。
でも、クッキーをもらったことで、俺は夢を見てしまった。幸せを感じてしまった。感じてしまったら、もうそれを忘れることなんてできない。
もっと。もっと欲しい。
抑え込んでいた欲求に手を伸ばしたくなってしまった。
ピーッ、ピーッ。
乾燥終了を知らせる音で意識が現実に戻ってきた。
包装を丁寧に折りたたんでスポーツバッグのポケットに入れると、俺は乾いた服や下着をバッグに放り込んだ。
あまりにも適当な手付きに女性が不思議そうに振り返ったけど、俺は会釈だけしてさっさとその場を離れた。
頭の片隅で、もやもやはまだ続いている。
考えて。
考えて。
考え続けて。
意を決してスマホを手に取ったのは、午後九時を過ぎてからのことだった。
『ミウ Mayさん、起きてますか?』
『寒ブリ うん。どうしたの?』
『ミウ 羽丘君から伝言があるんです』
反応に間。
『寒ブリ どうしてミウちゃんのところに?』
『ミウ 先輩経由で伝言が来たんです。私なら確実に伝わるからって』
『寒ブリ そうなんだ』
『寒ブリ どんなこと?』
ごくりと、唾を飲み込む。
『ミウ 明日。二人だけで会いたいそうです』
『ミウ 七時か八時くらいに』
『ミウ 大切な話らしいんですけど、どうですか?』
また、間があった。
『寒ブリ 八時』
『寒ブリ 八時に北口の駅前で』
『寒ブリ 絶対行くから』
『ミウ わかりました。伝えます』
それで話は終わった。
俺もそれ以上は送らなかったし、Mayさんも送ってこなかった。
その日、俺は女装をしなかった。
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6/29(MON) 17:30
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部活の後、用があるから遅くなると言って家を出てきた。
授業中は割と普通にしていられたと思う。
心が決まってしまったから、迷う余地はもうない。その代わり、胃が盛大に痛かったけど。
部活にもちゃんと出られた。
ゆっくりめにやってきた先生とオセロをして、一勝一敗の成績をつけて、
「そろそろ終わりにしましょうか」
いつもの部活終了時間よりも早く告げる。
札木先生もそれに「うん」とただ頷いた。
「ごめんなさい。我が儘言っちゃって」
「気にしないでください。大事な用なんですよね」
「……うん。大事な用なの」
用があるから早めに部活を切り上げたい。
今日、部室に来るなり、先生は真剣な顔をしてそう言った。それなら今日は無しにしようって言ったんだけど、そこまではしなくていいというので簡単なゲームを選んだわけだ。
どんな用事なのかはわからない。
そこまでは聞かなかったし、聞けなかった。大事な用があるという意味では俺も同じだ。俺は逆に、手持ち無沙汰な時間が増えてしまうけど、それはまあ、多いか少ないかという話でしかない。
「それじゃあ、私は行くね」
「はい。戸締りは任せてください。……それと」
「?」
「頑張ってください」
「……ぁ」
先生はぽかんとした顔になった後、こくんと頷いた。
「……うん」
扉が静かに、余韻をもって閉じられた。
一人になった部室で俺は呟いた。
「俺も、頑張らないとな」
いつもの時間に部室を閉めて、職員室に鍵を返した。
空いた時間はどうしようか。
せっかくだから店に寄っていこうかと思ったけど、気持ちが鈍りそうなので止めておいた。これは、ミウじゃなくて俺がやらないといけないことだから、女装のことを考えない方がいい。
家に帰るのもやめておく。
持ってきていた私服に公園のトイレで着替えて、ハンバーガーのチェーン店で軽くお腹を満たして、スマホをぼんやりといじった後、席を立った。
約束の時間はもうすぐだった。
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6/29(MON) 19:50
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服は変じゃないだろうか。
手持ちの中では格好良く見えそうなものを選んだつもりだ。皺が寄っていたりしないかもトイレで確認してきたから大丈夫だとは思うんだけど。
ええい、落ちつけ。
深呼吸して無理やり気持ちを鎮め、姿勢を正して立つ。
来てくれるかな。
絶対行くって言ってくれたけど、仕事とか、急な用事が入ることだってある。
来てくれなくても待とう。
時間的にあまり長くは待てないけど、一時間くらいなら大丈夫なはずだ。
でも、きっと来てくれる。
Mayさんは約束を破らない。
予定が変わったなら、ミウのところに連絡が来るはずだ。
「……Mayさん」
思わず、口に出して呟いた時、
「はい」
声が聞こえた。
振り返ると、そこに彼女が立っていた。
「Mayさん」
「お待たせ。待った、かな?」
「いいえ、全然」
俺は首を振って答え、彼女を見つめた。
前にも見た仕事帰り姿。清楚で可愛くて、でも凛々しい、Mayさん。
こんな。
こんな綺麗な人が、俺のために来てくれた。
「平日に呼び出しちゃって、すみません」
「ううん。私こそ、遅い時間にしか来られなくて……。時間、大丈夫?」
「大丈夫です。最悪、友達のところに泊まるって言えば帰らなくても」
「っ」
ぴくん、と、Mayさんの肩が震えた。
泊まりっていうフレーズに反応したのかもしれない。
そこまで考えて言ったわけじゃないんだけど。
「Mayさん」
「待って」
「……っ」
「場所、変えない?」
言って、Mayさんは返事を聞かずに歩き出す。
ヒールがこつこつと床を叩く音。
顔を上げて周りを見れば、駅前だけに人気がある。確かに、ここじゃ恥ずかしいかもしれない。学校とは反対側だから俺はセーフだけど、逆に言うと店のある方面で、買い物帰りのお客さんと鉢合わせる可能性もある。
Mayさんの半歩後ろをついていくように歩く。
わざと足並みは揃えなかった。
気持ちを整える時間が必要だと思ったからだ。
お互いに。
「ここなら、大丈夫だよね」
辿り着いた場所は近くの公園。
一週間ちょっと前、先輩と着替えをしたところだった。
でも、朝と夜では全然印象が違う。
他に人のいない公園に入って、自販機で飲み物を買う。何がいい? と聞かれたのでレモンティーをお願いした。
奢ってもらってしまった。
Mayさんは「そのレモンティー、私も好き」と微笑んで、同じもののボタンを押した。
並んでベンチに座って缶を開ける。
「話って、なに?」
「はい」
こんなシチュエーション、自分が体験するとは思わなかった。
なんとなく月を見上げながら口を開く。
「俺、前からMayさんのファンだったんです」
「うん」
「一年ちょっと前、高校に入学した後にたまたま見かけて、一目でファンになって――それから、ずっとファンです」
「ありがとう」
Mayさんの声は落ち着いていて、柔らかい。
俺の用件はもうわかってると思うんだけど、どう思ってるのか全然読み取れない。
「だから、実際に会えた時は本当に嬉しかったんです。嬉しすぎて挙動不審になるくらいで」
「私なんて、大したことないのに」
「そんなことないです。どのレイヤーさんより、俺はMayさんが好きです」
「―――」
嘘偽りない俺の気持ち。
「クッキー、食べてくれた?」
「はい。すごく美味しかったです。いくつでも食べられそうでした」
「そっか。嬉しいな」
「嬉しかったのは俺の方です。嬉しすぎてわけがわからなくなって、何も言えなくなってました」
沈黙。
息を吸い込んで、告げる。
「どうしてなのかって言われたら、理由なんてありません。一目惚れです。でも、実際のMayさんに会った今も気持ちは変わりません。むしろ、前より気持ちは強くなってます」
顔を横に向けて、Mayさんを見つめる。
「あなたが好きです。俺と、付き合ってくれませんか?」
答えなんて最初から決まっていた。
好きだって気持ちを自覚してしまった時点で、告白しないなんていう選択肢はなかったんだ。
小数点以下でも確率があるか、それともゼロか。
言わずに終えることなんて、できっこなかった。
「ありがとう」
Mayさんが振り返る。
月明りに照らされた彼女は輝いていた。誇張じゃなく天使や女神にさえ見えるくらいに、彼女は綺麗だった。
微笑んでくれる。
俺に向けて、俺だけのために、微笑んでくれた。
「ごめんなさい」
表情が曇って。
夜の静寂の中、俺にだけ聞こえるように、その言葉は紡がれた。
「私は、由貴くんとは付き合えません」
「……ぁ」
なんて、言われた?
自問した俺は、「そんなことわかっているだろう」という冷たい声を聞いた。
わかってる。
ただ、俺は理解したくなかっただけだ。
認めた途端、ぐらり、と平衡感覚が失われた。
どこまでも落ちていくような、逆に上に引っ張り上げられているような現実感のなさを味わいながら、俺はなんとか言葉を紡いだ。
「そう、ですか」
俺はどんな顔をしているだろう。
わからないけど、ろくな顔をしていないことだけは確かだった。
「あはは。……ありがとうございました、すっきりしました」
本当に俺は駄目なやつだと思う。
昨日、同じようなことをしたばかりだっていうのに、また、その後のことが記憶から飛んでしまった。
何かを言って帰ったんだとは思う。
気づいたら家に居て、ベッドの上に寝転がっていて、スマホの震えで気がついた。
正直、何をする気力もわかなかったけど、何か予感があったのか、俺はぼんやりとスマホを持ち上げて操作していた。
『寒ブリ 由貴くんから告白されちゃった』
ああ。
Mayさんからのチャットだった。
ミウ宛ての。
顔文字も絵文字もスタンプもない文章からは、彼女がどう思っているのかは伝わってこない。
たぶん、ミウも関係してるから教えてくれただけなんだろう。
でも。
「……知ってますよ。振ったんですよね」
俺にはそれが、無慈悲な宣告としか思えなかった。
どうして。
どうして俺を振ったんですか、Mayさん。
振るならどうして、あんな思わせぶりな態度を取ったんですか。
「あ、あああ……っ!」
いったん思考が戻った途端、せき止められていた涙が溢れてきた。
わかっていたはずなのに。
諦めはついていたはずなのに。
我慢できなくなって告白した結果は、無慈悲だった。
いくら止めようとしても、涙は全然止まらなかった。
※前振りです




