奴隷の少女は公爵に拾われる 94
夜の闇が支配する町に雨が降っている。月明かりは雲にかき消され視界はすべて闇に覆われていた。耳から聞こえるのは人の話し声すらかき消しかねない土砂降りの音だけだ。もし外に人がいるなら、石畳に茫然と立ち尽くしながら公爵邸の窓からほんの少し漏れる小さなランプの光がやけに目立って見えるだろう。雨以外の存在をほぼ感知できない、そんな夜だ。
激しい雨粒が窓を叩く音を響かせながら、国守の公爵の執務室にあるランプが部屋を照らす。広さはそれなりにある。丈夫さだけが取り柄の石作りの壁、分厚いカーテンに覆われた窓、床に乱雑に積まれた大量の本と書類、簡素なベッド、ランプが乗っている執務机。殆ど色の無い空間の中にいる男も鮮やかな色とは無縁の外観をしていた。
その男の顔には、幾度とない深い沈黙と困難を乗り越えて築かれた知性と揺らがない冷静さが滲み出ている。皺が目立ち長めの銀髪には白髪が交じっていた。下を向いている灰色の瞳にランプの光を反射させながら一枚の書類を確認している。その書類をしばらく見つめてから、少し息をついて指で眉間を揉んだ。表情には僅かに険しさが乗っている。
その部屋に、ノックの音が響いた。男は顔を上げながら口を開いた。
「誰だい」
「公爵さま。ラトでございます」
「ラトか。入ってくれ。どうしたんだい?」
大きな扉を開いて入ってきたのは、豊かな白髪を後ろにしっかりと撫で付けた執事だ。白い口髭を蓄え背筋を伸ばし、真夜中にも関わらず全く隙の無い出で立ちで執務室に入ってきた。
「公爵さま。お客様が参られました」
「こんな時間に?誰?」
公爵は書類に指を当てながら一瞬だけカーテンに覆われた窓の方に目をやる。夜遅くまで仕事をこなす公爵ですら、普段ならまどろんでいてもおかしくない程の時間だ。客が来るどころか、人が起きている時間では無い。
「国守3の侯爵閣下です。応接室にお通ししております」
その言葉を聞いた公爵は訝しげに眼を細めるが、すぐに椅子から腰を上げる。
「分かった。すぐ行こう。ここに連れて来てくれてもよかったのに」
そう言いながら公爵が椅子から立ち上がる。
「ずぶぬれでしたので、暖炉の火でローブと服を乾かしてもらっています」
「ずぶぬれ?まさか歩いてきたの?この雨の中を?」
「その様です。お連れの方と一緒に」
「連れ?」
公爵はラトの先導のもとに足早に冷たい廊下に出た。廊下には雨の音が響いておらず、足音がやけに遠くまで響く。芯まで体を冷やすような冷気が足元から昇ってくるが、全く意に介さないように闇の中を慣れた歩調で歩いていった。
「護衛官かな?」
「分かりません。ですが、3の侯爵閣下はなるべく早くお話ししたい事がある、と仰っておりました」
「緊急の案件か。ぞっとしないね」
「悪寒ですか?お体には気をつけてください。年なんですから」
「風邪を引きかけてるわけじゃない。それにラトの方が年上じゃないか」
「私の年齢は確かに公爵さまより上ですが、その事で公爵さまが若くなるわけではありませんよ」
「手厳しいね」
ラトは少し目を細めながら口を開いた。
「冬は早めにお休みください、と言った筈です。公爵さまの代わりはまだいないんですから」
部下の小言に思わず笑みがこぼれる。
「少し難しい案件があってね。またラトにも話すよ」
「無理はなさらないでください。お嬢様も心配されます」
「ツィルに心配をかけてはいけないね」
肩の凝りをほぐすように自分の肩を揉み解す。
「でも確かに、そろそろ私も年だね。休みがほしくなってきたよ」
「休まれたらいかがですか。2,3日程度なら何とかなりますが」
「休んだらその分仕事が貯まるだろ?それに数日休んだ程度では何ともならないさ」
「そんなこと言って。本当に倒れても知りませんよ」
公爵は軽く笑ってその心配の言葉をいなす。そんな会話をしている間に応接室の前に到着した。ラトが手早く数回ノックすると、すぐにその扉を開く。
応接室の中には二人、暖炉の近くで暖をとっている者たちがいた。
一人は癖の強い黒髪を無造作に伸ばした、どちらかと言えば陰気な男だ。全く日焼けしていない青白い肌に落ちくぼんだ目。痩せた体に神経質そうな表情をしている。しかしその眼の奥には大量の知識を以て日々戦っているもの特有の、深度の深い光を揺蕩わせていた。
彼は公爵の姿を認めるとすぐに丁寧な礼をして見せる。その拍子に肩にかかった大きなタオルがずり落ちた。
「3の侯爵君。こんな雨の中、寒かっただろうに」
公爵は親しみを以て声をかけると、足早に彼に近づいていく。
「いえ。むしろこのような雨の日を待っていまして」
幽鬼の様な低い声で答えた。その声には公爵に対する心からの尊敬の念が感じられる。ずり落ちたタオルで未だに乾ききっていない服を軽く拭うと、予想以上に湿ったタオルを見て困ったように笑った。
「ですが、このような無様な姿で公爵閣下にお会いするのはいささか無礼ですかね」
その言葉に公爵は呵呵と笑った。
「私がそんなこと気にするわけがないだろ。風邪をひかないかどうかだけが心配だ」
「それに関してはご心配なく。事前に薬湯を飲んでおりますので」
「それは良かった。で、今日の用事はそちらの人についてかな?」
公爵が応接室にいるもう一人の方に目を向ける。
そのことに気付いたのか、その男が少し顔を隠すように頭にかけていたタオルを払って公爵の方に向いた。
大柄な体格だ。身長だけならそこそこある公爵よりもかなり高いだろう。胸板などは、ぴったりと着込んだシャツがはちきれそうになっている。かなり短く刈り上げた髪の毛に、さらに刈り込みを入れてこめかみから後頭部にかけて幾何学的な模様を入れている。まるで芝生の上で庭師が遊んでできた模様の様だ。装飾品は耳につけた小さなピアスだけだが、そのピアスと同じくらい目がキラキラと輝いてこの状況をとても楽しんでいることがうかがえる。
公爵はその男の姿を見て一瞬頭の中で誰なのかを考えたようだが、すぐに思い出したようだ。かなり驚いている声を上げた。
「これは、これは。久し振りだね」
彼は無言で丁寧な礼をして見せる。礼からゆっくりと直ると、彼は公爵にあいさつの言葉をかけようと口を開いた。
その言葉が出るのを遮るように応接室の扉からノックの音が聞こえた。
「誰だい?」
応接室の扉が外側から開く。そこにいたのは寝間着姿の少女だった。
「ツィルか。起こしてしまったかな」
陶器のように透き通る白い肌と対照的な黒くて長い髪、そして生きたルビーのように光を反射する赤い瞳が特徴的な少女だ。年齢は初成人前だろうか。綿が入った厚手の上掛けを肩からしっかり羽織り、その上掛けのあわせの中に自身の手を隠していた。寒そうにしているがその表情からは何の感情もうかがえず、良くできた人形のような印象を初見の者に与えた。
「これはツツィーリエ公爵令嬢」
3の侯爵が流れるように礼をする。その言葉を聞いて驚いたのは先程喋ろうとした男だ。彼はツツィーリエの方を見て大きく目を開きながら近くにいた3の侯爵の方に耳打ちをする。耳打ちされた方は普通に返答した。
「そうだ。公爵閣下は数年前にあちらにいるツツィーリエお嬢様を御息女として引き取られた」
男はツツィーリエから目を離さずに固まっていたが、しばらくして口をひらき、そこから言葉があふれ出した。
「や~~ん、可愛い!!もう、公爵閣下ったらあんなかわいい子を娘にしたの?もう、羨ましい!!なんで教えてくれないのよ!!」
体格相応に低い、しかし口調だけ若い女性の様だ。むしろ女性よりも女性らしいといえるかもしれない。
「え?なになに!?あの子を養子にしたの?あんなお人形さんみたいな子を?もう!閣下ったら隅に置けないんだから」
と言いながら、彼は公爵の肩をペシペシと叩き始めた。
「こら、タレンス!公爵閣下になんてことをしているんだ!」
3の侯爵が幽鬼のような顔に怒りの表情を浮かべて男を叱責した。
「あら、ごめんなさい。あんまりかわいいもんだからつい興奮しちゃった」
「相変わらずだね、タレンス」
「人は早々変わらないわよ?閣下もお元気そうで何よりね」
ツツィーリエはその男の外観特徴のギャップを目の当たりにしても、眉一つ動かさずに公爵の方にぺたぺたと歩み寄っていく。
「ツィル、ごめん、起こしてしまったかい?」
問いかける公爵に対して少女は言葉を発するわけではなく、返答代わりに指と手を動かした。
「門が開く音で起きた?この雨の中で気付いたのか。耳がいいね」
『若いから』
公爵はその返答ににやっと笑って見せた。
「ねぇねぇ、閣下。私にもそちらのお嬢ちゃんを紹介してもらえる?」
興味津々といった表情で少女を見つめる男の言葉を聞いた公爵は、その言葉に答えてまず少女の方に手を向ける。
「タレンス、ここにいるのはツツィーリエ。私の娘として、数年前に私が引き取った。今度の初成人の儀で正式に私の後継ぎとして認定させるつもりだ」
続いて、公爵はタレンスの方に手を向けて少女の方に顔を向ける。
「ツィル。こちらはタレンス」
一拍おいて、よどみなく続けた。
「2の侯爵の二男だ」




