奴隷の少女は公爵に拾われる 92
肌で感じられるほどの気温の低下がじきに来る冬の厳しさを予感させる。だが、今は厳しい寒さの気配だけで冷気と共存できる穏やかな気候だ。大きな窓から外を見ると、広い中庭の中で一際目立つ大きな朱果の樹が夏の頃より落ち着いた日の光を受けながら鮮やかに赤く色づいている。広い中庭の中でも一際目立つ朱果の樹はただ静かにそこに立っていた。
そこに何の前触れもなく弱い雨が降り始める。その雨は地面や木の葉、芝生のように生える草を楽器にして密やかな音を奏でた。太陽はその細い雨に気付かずに変わらぬ日の光で庭を照らし続ける。光を受けた眇眇たる雨粒が幾筋もの白い筋の形をとって大きな樹の葉を叩き、雨粒に揺られた赤い葉は仄かに眩しさをます太陽の中で幻想的に舞っていた。
その不思議な共演は、大きな窓のすぐ近くにある椅子に座り分厚い本を開く少女の瞳を通して記憶の中に刻まれる。
少女の年齢は初成人前だろうか。陶器のように白く滑らかな肌、吸い込まれそうに深い黒髪は何の装飾もなくただまっすぐおろしていた。服は灰色のシャツに少し厚手の毛皮のケープを羽織り、膝の上に綿のひざ掛けをしている。少女は細い指で本のページを捲りながら紙面の上に視界を戻した。その少し俯いた瞳は鮮やかな紅葉の様に混じりけのない赤で、瞳全体がかすかな光を反射するように光っている。その少女の表情からは何の感情も読み取れず、動いていなければ作られた人形のようにさえ見えた。
広い図書室の中はしばらくの間、雨粒の音と本をめくる音、時折図書室の樹の只が軋む以外の音が聞こえない時間が過ぎる。
そこに遠くから大きな扉が開く音が聞こえた。少女は特に気にすることなく本を一定の速度で読み進めていく。入り口から聞こえてくる足音は次第に大きくなり、幾分かの時間を経てその音が少女の耳に直接入ってきた。
「お嬢。ここにいたんですか」
本棚で出来た通路から顔を出したのは、本当に人かどうか疑わしい程に巨大な体躯を持つ女だった。上半身だけで、椅子に座っている少女を数人覆い隠すことができるだろう。胸の膨らみから女性であることがわかった。割と余裕を以て作られているシャツの下から筋肉がはちきれんばかりに盛り上がっている。少女の体ほどに太い足には革製の脛当てを付け、腕には装飾性のない金属の腕輪を嵌めていた。髪は錆びた血のような赤茶色で目の色は冬山の狼のように金色をしている。
その巌のような大女をみて、少女が口を開かず会話をするように手を動かした。その手の動きを見て、大女が頭を掻く。
「たまには外に出ないと体力が落ちてしまうと、思いまして」
それを聞いた少女はふっと窓の外を見て、もう一度手を動かした。
『雨が降ってるわ』
「すぐ止みます。外に出て体動かしましょ」
少女は本を開いたまましばらく動かないでいたが、肩にかかるケープの位置をわずかに直しながら椅子から立ち上がる。
「お嬢、どこ行きましょうか」
『マーサに聞いてお使いでもしましょ』
「ついでに何か服を買いましょう!」
『モヌワ。また服やぶけたの?』
少女は嬉しそうに跳ねて近づいてくる戦士のシャツを摘まんだ。
「違いますよ、お嬢の服を買うんです」
モヌワは2回り以上違う大きさの顔を少女の方に近づける。
『あぁ、寒くなってきたし何か厚手の上着がほしいわね。でもまだ去年のものが着れると思うの』
「違います!実用的なものじゃなくて、もっと着飾る様な服を買いましょ!」
そういうモヌワに対して、少女は自分の服装を無表情に見下ろす。
『モヌワ。私は見苦しい?』
「お綺麗です」
『じゃあ新しいもの着る必要はないじゃない』
少女は机の上に乗った本の方に自身の掌を向ける。その細い指をした手から僅かに青い燐光が零れ落ちた。その青い燐光に反応して分厚い本が魔法のように机から浮かび上がり、宙を滑るように図書室の入口の方に向かって飛んで行く。
「もうそんなこと言って。もっとお嬢も外見に気を使った衣装を身に着けても良いと思うんです。パーティーで着てた礼装はとてもお綺麗でしたよ」
『じゃあ、またそれ着ようかしら。普段着にするには首元がきついんだけど』
「そういうことじゃないんです」
モヌワは腰に手を当てて、鼻から息を思いっきり吐き出す。
『何か月かに一回でいいわよ、あんなに着飾るのは』
「あそこまで着飾らなくてもいいんです。ちょっとオシャレな服を着るだけでいいんです」
『誰も見ないんだからそんな必要ないんじゃない?寒くなければ』
「またそんなこと言って」
モヌワは口を尖らせて不満を表情に出す。と、図書室の入り口の大きな扉が開く音が二人の耳に届いた。モヌワが僅かに警戒したように表情を引き締める。
「ツツィーリエお嬢様。おられますか?おられたら何か音を立ててください」
図書室の静かな空間に、落ち着きのある年配の男性の声が響き渡った。その声を聴くと、モヌワがとどろくような大声で返事をした。
「ラトさん!お嬢はここにいますよ!」
入り口でモヌワの声を聞いたのか、落ち着いた声の主が返事を返してきた。
「こちらにおいででしたか。少しお待ちください」
カツカツと革靴が石の床を叩く音が始まり、特に待つこともなく速やかにその足音の主が現れた。
白い口髭を蓄えて黒い燕尾服を着こなした老執事だ。背筋はしゃんと伸び、その瞳の光からは深い英知がうかがえる。
「国富の公爵の使いの者が、お嬢様にお伝えしたい事があるといって尋ねてきました。お心当たりはありますか?」
ツツィーリエは少し考えてから、思い出したように何回も小さく頷く。
『わかったわ。内容だけ伝えるのでもよかったのに』
「お嬢様に内容をお伝えしますといったのですが、使いの者がお嬢様に直接お伝えしたいといっていまして」
ツツィーリエは意外そうに顎に指を当てた。
『なんでかしら。まぁ、でもそういうことなら』
ツツィ―リエは落ち着いた足取りで本棚の列が織りなす複雑な通路の方に向かっていった。
「そう言えば先程お嬢様の部屋に飛んでいく本とすれ違ったんですが」
『えぇ。途中だったから寝る前に部屋で読もうと思って』
「何の本を読まれていたんですか?」
『世界の豆の成長機構とその育て方大全集』
「…………面白いんですか?」
『全然』




