奴隷の少女は公爵に拾われる 89
その男は飾り気のない白いシャツと黒いジャケットを羽織っていた。ズボンも非常にラフでほぼすべての人間が正装しているこの会場では非常に目立つ。眼は垂れ気味で顔には終始にやっとした皮肉屋の笑みを浮かべている。黒い髪の毛は短めに切ってあるが寝癖のように髪の毛が数房頭の上で踊っているように見えた。顔立ちと少し猫背気味な姿勢、顔にかかる前髪のせいで少し幼い印象を受ける。だが、体についている筋肉はパワーのためでなくひたすら体を動かすに当たって理想的な付き方をしている。
「何もするなったって、俺が何かしようと思って簡単にできるような女じゃないっすよ、この筋肉の塊は」
へらへらと笑いながらモヌワの腕をはじいたと思しき手を痛そうに振って見せた。
「こりゃ先輩が簡単にやられるわけっすわ」
モヌワは目の前にこの青年が現れた時点でツツィーリエを抱えるように守って距離を遠ざけている。
「………てめぇが公爵の言ってた非正規の兵士ってやつか」
「ん?あ、やっぱり国守の公爵は俺たちのこと気づいてるんだ。首領の言ってた通りだ」
青年はケラケラ笑っていた。
「イーマ。失礼な口のきき方をするな。それにあの護衛官が怒って当然なことを僕はしたんだから、一発位殴られても良かったんだ」
「普通の奴が殴る程度なら俺も別に坊ちゃん守ったりしないっす」
「そこは守れよ」
「大怪我にならない程度にね。でも、俺が払わなかったら坊ちゃん最悪死んでますよ」
イーマと呼ばれた青年は面白そうにファフナールを見ながら言った。
「だいぶ本気で殴ってきてたし。見てくださいよ、あの体。指先で坊ちゃん突いただけで坊ちゃんの頭へこみますよ」
「そんなわけないだろうが、いい加減なこと言うな」
「お、賭けます?俺はへこむ方に一回分の給料と貯金の半分を賭けますね」
「む……」
ファフナールは突然現れた男に対して特に驚くこともなく自然に会話している。ツツィーリエはモヌワに抱きすくめられながら視線をその男に向けているがこちらも特に驚いた様子はない。
「気になってたんで結構あの女見てましたけど、あいつ護衛官にしては雇い主を信奉しすぎっすわ。普通の護衛官じゃないっすよ」
「そんなことはどうでもいいだろ」
「まぁ、そうっすね」
警戒しまくっているモヌワの方にイーマが声をかける。
「そちらの護衛官さんも坊ちゃんのこと許しちゃくれませんか。坊ちゃんが死んだら今後俺たちを雇ってくれる人がいなくなって路頭に迷っちまう」
「そんなことこっちには関係ないだろ」
「そりゃそうだ。まぁ、でも、さっき狐みたいなおっさんの毒牙からそちらの御嬢さんを守ったのは坊ちゃんですよ?チャラにしてあげてくださいよ」
モヌワが何か言おうと口を開いたところ、その唇をツツィーリエが指でつまんだ。
「みゅぐ」
変な声を上げて口の動きを止めたモヌワが被さるように守っている自分の主の方を見る。
ツツィーリエは赤い瞳でじっとモヌワのほうを見つめた。モヌワの体は、その瞳を見た瞬間に脂汗を吹き出す。
モヌワが何か言う前にツツィーリエが短く手を動かした。
『だめでしょ』
モヌワの汗の量が一段と増える。ツツィーリエは力の抜けたモヌワの腕を退けるとファフナールのほうに歩いていった。
『うちのモヌワが大変失礼なことをしました。ごめんなさい』
という紙を見せてから、深々と頭を下げた。
「謝る必要はない。何一つ怪我はない。これ以上謝った謝らないが続くと面倒なことになるし、それが今後のケンカの原因になったら困る」
「謝られるくらいいいじゃないっすか。お礼にキスの一つでも貰っとけばいいんすよ」
「なんだと!」
モヌワがそれを聞いて突っかかろうとするのを、ツツィーリエの目が止める。
「イーマ、黙ってろ!」
ファフナールが顔を真っ赤にして怒鳴りつけるが、青年は肩をすくめて全く意に介さない。
「いいじゃないっすか。なに?お嬢さんじゃ不満?」
それを聞いたモヌワは、先程よりもさらに髪を逆立てて激昂した。
「お嬢の何に不満だってんだ!その腰にぶら下がってるものをねじ切ってからぶん殴ってやろうか!」
『モヌワ。黙って』
「いいえ、黙りません。お嬢の何が不満なのかじっくり話を聞かせてもらいます」
モヌワは興奮気味な口調で喋る。ファフナールは努めて冷静な声でその質問に答えた。
「何も不満なんか抱いてない。ちょっと落ち着いてくれ」
「不満じゃないっていうんならキスしてほしいんっすね?」
「なんだと!!」
「どうすればいいんだよ…」
『あなたにキスすればいいの?』
見せられた紙を見たファフナールはすごい表情でツツィーリエを見た。
「………お前も大概だな」
『何が?』
「いや………なんでもない」
ファフナールは肩を落として小さく諦めたように言葉を発する。その様子を見てから、ツツィーリエが新しく言葉を記す。
『まぁ、冗談は置いておいて』
「おい」
『さすがに実害を被らなかったとはいえ、私の護衛官があなたに殴り掛かったのは事実だわ。何か御詫びをしたいんだけど』
「別にいらないって言ってる」
『あなたのお父さんも、私がこういってるのにしきりにお詫びしたいっていうのよ。』
「………」
ファフナールは口をへの字に曲げてツツィーリエの方を見た。
『まぁ別に本気で言ってるわけではないから気にしないっていうのなら―――』
とツツィーリエが紙に書いている途中で、ファフナールが叫ぶように言葉を放つ。
「よし、わかった。父上の話までされたら引き下がれない。お前にお詫びとして何かやってもらう」
ツツィーリエは文字を書きかけの紙を持ったままファフナールの方を見て目をぱちぱちさせた。
「お、キスっすか」「なんだと!」
『「黙って」』
二人の主がほぼ同時に同じ単語を部下に伝えた。
ファフナールはツツィーリエのほうに向きなおると、軽く血走った目でツツィーリエに指を突き付けた。
「僕と踊れ」
ツツィーリエは目を再度瞬かせて、懐から紙を取り出そうとして途中で止めた。
「なんだ。不満か」
『私踊れないし』
「だろうな。僕も国守の公爵の令嬢が踊れるとは思っていない」
『じゃあどうする?』
ファフナールは胸を張って自信ありげに答える。
「僕が教える。このパーティーのダンス、最後の曲のダンスは全員が参加できるようにかなり簡単なステップで構成されているんだ。それに僕と出ろ」
ツツィーリエはしばらく無言でファフナールの方を見る。少年はその赤い視線をしばらく見返していたが、自信満々の表情が少し揺らいだ。
「……別にどうしても嫌なら―――」
『教えてくれるんならお願いするわ』
「―――別に御詫びなんか…って、え?」
ファフナールの表情がコロコロと変わっていく。
「了承するのか?」
『あなたが言ったんじゃない』
「いや、お前が断ると思ってたから」
『教えてくれるんなら踊れそうだし。あなたなら別に私に何かしようとは思わないでしょ?』
「そりゃそうなんだけど」
拍子抜けしたように呆けた表情になったが、すぐにその表情を引き締める。
「よしそうと決まれば話は早い。そこにいろ」
ファフナールは距離を一歩後ろに下がると、ツツィーリエの前で恭しく膝をついた。そして少女の方に手を差し出すと、厳かに言葉を紡いだ。
「ツツィーリエ国守公爵令嬢。私と一曲踊っていただけますか」
『………頭に虫でも湧いたの?』
「こういうのが決まりなんだ。嫌なら断って、踊るんなら僕の手を取れ」
怒ったように早口で喋ると、ファフナールがまた表情を引き締める。ツツィーリエは一回首を傾げて何か言いたげにしていたが、小さく息を吐いて姿勢を正す。
しばらくファフナールの緑がかった青い目を見つめると、ツツィーリエは自身の手をファフナールの綺麗な手の上に乗せた。




