奴隷の少女は公爵に拾われる 88
「ツツィーリエ公爵令嬢。よろしいですか?」
モヌワとツツィーリエが喋っているところに一人、また男が話しかけてきた。
狐のような印象を相手に与える男だ。先程の青年よりもいくぶんか年が行っているが、まだ中年というには若すぎる。仕立ての良い燕尾服をわざと少し着崩して、ネクタイの類も付けていない。僅かに茶色がかった前髪を一方向に流して固めているようだ。その顔にはしっかりとした笑顔が張り付いている。
「私は国富の2の伯爵でございます。よろしければ一緒に一曲踊っていただけないでしょうか」
ツツィーリエはそれを聞くと口の中のものを飲みこみながら懐から先程と同じ紙を出して見せる。
「踊れないようでしたら私が教えますよ」
狐顔の伯爵がすっと一歩近寄ってくる。ツツィーリエはまったく表情を変えないが、慣れたものからみれば少しおざなりに紙に新たな文字を記した。
『その申し出は大変嬉しいのですが、あなたに迷惑がかかってしまうと悪いので遠慮させていただきます』
それを見た伯爵は細い目の奥をキラッと光らせる。
「迷惑だなどとんでもない。ぜひ、公爵令嬢にダンスを教えるという栄誉に浸らせてはもらえないでしょうか」
ツツィーリエは相手の返答に一瞬だけ文字を記す動きが鈍った。モヌワの顔がかなり険しいものになっているが、2の伯爵は全く意に介さない。
ツツィーリエが新たな文字を記そうとする前に伯爵が畳み掛ける。
「もちろん優しくお教えいたします」
伯爵は笑みを崩さないままツツィーリエの方へさらに一歩近寄る。モヌワがあからさまに威嚇しているがそれに対しても全く意に介さない。護衛官が貴族を傷つければどうなるのか、はっきりと分かっているからだろう。
「ぜひ、私と踊っていただけないでしょうか、公爵令嬢」
ツツィーリエが何とかけばいいのか少し迷っている間に伯爵との距離が詰まる。
伯爵はツツィーリエの腕を半ば強引につかもうと手を伸ばした。
「2の伯爵!」
その手を止める様に、少し高めだがよく通る声が響き渡った。伯爵は細めた目の奥にほんの僅かな苛立ちを見せながら声のする方向を向く。
「2の伯爵。公爵令嬢とダンスの約束をしているのだったら諦めろ。僕が先約だ」
つかつかとツツィーリエたちのほうに歩いてきたのは、親譲りの金色の髪に緑がかった青い瞳、パーティー会場中にあふれる綺麗で美しいものの中にあっても埋もれることのない存在感を示す整った顔立ちをした少年だった。
「これはこれは、ファフナール殿。ご機嫌はいかがですか」
伯爵は目の奥に苛立ちを引っ込めて熱のこもっていない言葉を発した。国富の公爵の息子はその言葉を完全に聞き流す。
「伯爵。何度も言うようで悪いんだが、彼女は私と先約があるんだ。わかったらその手を引っ込めて自分の腰にでも当てていろ」
ファフナールはあからさまに不機嫌さを晒す様子で言葉を投げかけると、ツツィーリエの手とそれを掴もうとしていた腕の間に体を割り込ませる。
「失礼ですが、もしそのような約束があるのなら公爵令嬢の方から私の方にそのようなことを言うのではないでしょうか。ですが御令嬢の方からはそのようなことは何も」
少し小馬鹿にしたような伯爵の言葉を聞いたファフナールは鼻で笑いながら、自身よりも背の高い伯爵を見上げる。
「伯爵。君はなんだい?僕が嘘を言っているといいたいのかい?」
狐のような顔にあからさまな苛立ちが浮かぶ。
「もし僕が嘘を言っていると君が主張するのなら、僕は君に正式に抗議させてもらう」
「そんなことをしなくとも御令嬢に聞けばいい話では?」
「それをするということはつまり君は僕を疑っているということか。君の考えはよくわかった。だが、忘れているのならしっかりと思い出させてやろう」
ファフナールは伯爵の腹に細い指を突き立てて、生意気な少年の顔に言葉遊びに長けた老獪な笑みを浮かべる。
「僕はいずれ国富の公爵の後継ぎとして正式に認められる身だ。現在の爵位がないにしてもな。君の爵位はなんだったかな?2の伯爵だったかな?3の伯爵だったかな?」
「………」
「一時のすけべ心に身を流さないほうが身のためだぞ」
2の伯爵は細い目をより細めながら、ファフナールの緑の目をまっすぐ見下ろす。ファフナールもその視線を全く意に介さずに挑戦的に見返した。
「……国富の公爵の御令息を疑うなどとんでもない。ただ普段の業務の癖でそういう風に確認することが多くなってしまっただけです」
「それなら良かった」
ファフナールはツツィーリエを自身の体で後ろに少し下がらせながら伯爵に言葉を続ける。
「あちらの方にいる女性の方が君にとっては都合がいいんじゃないかな」
伯爵がそちらの方に目を向けた。確かにそこには酔いで顔を赤らめた女性が数人楽しそうに話しているのが見える。
「僕たちはこれで失礼させていただく」
ファフナールは一礼もせずに伯爵に背を向けると、ツツィーリエの手を掴んでその場を逃げるように速足で歩き去った。伯爵は一瞬だけ追いかけようとしたが、すぐに動きを止めてその場でじっと立ち、歩き去る獲物の背中をじっと見つめる。
ファフナールがツツィーリエを連れてしばらく歩き、ツツィーリエも特に抵抗せずについていった。ファフナールは壁際の人ごみからまた離れたところにまで来てからようやくツツィーリエの手を離した。
少年はツツィーリエの方を振り向くと、先程伯爵相手に見せた表情を一変させ気まずそうな顔でうつむく。
「……余計だったか?」
ボソッと少年がいう言葉をツツィーリエが聞き取ると、返答を記した。
『ありがとう。さっきはとても助かった』
それを見た少年はふうっと息を吐いて安心したように笑みを浮かべる。が、すぐにその顔を引き締めてツツィーリエに指を向けた。
「これはさっきの無礼に対する謝罪だ。礼には及ばん。それにお前、踊らないならちゃんと断らないとまずいだろ。国富の2の伯爵からはいいうわさは聞かないぞ」
『噂って何?あんまり父以外の貴族については知らないから』
「知らないじゃすまないぞ。さっきの伯爵は適当な女性を見つけて手籠めにするのが趣味の男だと聞いたことがある」
わざとらしく厳めしい顔を作って忠告する。
『モヌワがいるわ』
ファフナールがこちらを睨むように見てくる護衛官の女性に視線をやる。
「モヌワって、この護衛官のことか。確かにお父さ――――失礼。父上の兵士を軽く倒すくらい強いんだろうけど、それでも攻略法などいくらでもある」
「ほう、そりゃ聞きたいね」
モヌワが僅かに怒気をはらんだ言葉を投げかける。
「人が動くのは何も力や命令によるものだけじゃない」
『まったくそのとおりね』
そう書かれた紙を見せられたファフナールがギクッと体を震わせる。が、すぐに気を取り直して喋り続ける。
「例えばこいつが誰かに恋したらどうする?お前はそれを邪魔するか?」
モヌワが目をぱちくりさせる。
「こい?」
「そうだ。お前はそれを邪魔するのか?」
モヌワはだいぶ混乱したように視線をきょろきょろと動かした。
「お、お、お、お嬢が……」
モヌワの手がわなわなと震える。
「伯爵が考えていたのは大方、まだ若い公爵令嬢を籠絡することくらいこの私にかかれば簡単なことだってところだろ」
「なんだと!?」
「僕はもうそんなこと考えていない」
ファフナールが言った言葉の端っこのニュアンスにモヌワが気づいた。
「もう?もう、だと?」
「言葉の綾だ」
「聞き捨てならんな。確かお前は国富の公爵の息子か。さっきもいたな。その時は私は事が終わってからのことしかわからなかったが、お前お嬢に何したんだ」
モヌワが精神をぐらぐらと揺さぶられた反動をファフナールにぶつけるように詰問する。
「なにを、って………お前、言ってないのか?」
ファフナールはツツィーリエの方に困ったような表情を向ける。ツツィーリエはしっかり頷いた。
「何したんだ。あぁ?」
モヌワがファフナールの方に鬼のような形相をズイッと近づける。
「………顔が怖い」
「ほっとけ。生まれつきだ」
少年の端正な顔が気まずさと後悔の念からゆがんだ。
「何やったんだ、てめぇ」
「………」
ファフナールは一瞬モヌワの方に顔を向けようとして、すぐに逸らした。
「………魔法を使ったんだ」
「魔法?それがどうした」
ファフナールはぐっと言葉をのどに詰まらせてしばらくうつむくと、自棄になった顔をモヌワの方に向けた。
「その魔法で、こっちに来いって命令したんだ」
「………」
モヌワは顔色一つ変えずにファフナールの頭の方に巨大な掌を打ち込んだ。ツツィーリエが制止する暇もない。最短距離で進む掌をファフナールが感知したのは、
その巨大な質量は目的地にたどり着く前に小気味良い音と共に横へと払われてからだった。
「やめてくださいよ、坊ちゃんにけがされたら困るんですから」
つい一瞬前まで明らかに人がいなかったところに人が現れ、その人がモヌワの怒りを横にうち流した。
モヌワとファフナールの間に煙のように現れたのは、見るからに軽薄そうな青年だった。
「イーマ、やめろ」
「やめろって、何もしやしないですよ」
その青年はにやにや笑いながら肩をすくめて見せた。




