奴隷の少女は公爵に拾われる 86
ランプの光が贅沢に使われた会場の中、華やかな音楽と共に数多くの男女が軽やかなステップを踏んでいた。音楽は舞台の上の楽団が、陽気な曲の時は意気揚々と、落ち着いた曲の時には静かに笑みを浮かべながら、音楽とともにさまざまな表情を見せながらそれぞれの楽器を弾いていた。
そこで踊る人も様々だ。難しいステップを軽やかにこなし息の合った動きを見せる中年の夫婦もいれば、緊張のためか双方ともぎこちない足運びを見せる若者もいる。中にはその世界には二人しかいないといわんばかりにパートナーと見つめあったままゆったりとした曲に乗せてゆっくりと足を動かしあう老夫婦もいた。
そんなダンスの会場の中心から離れた壁際には、杯を片手に持ち談笑に耽る人や特に何もせずぼーっとダンスをしている人たちを見つめている者が、ダンスの誘いを少しためらいがちに受けたり、または頑なに断っている姿が見られる。その中心から離れた場所に少し疲れた様子の者が二人いた。
一人は白髪交じりの銀髪に皺の浮いた顔、灰色の目をした壮年の男性で片手には赤い液体の入った透明なグラス、黒を基調にして細身な体格に合うようにあつらえられたパーティー用の正装を着ている。
もう一人は隣の男性よりかなり若い少女だ。初成人前だろう、真っ黒い髪を長く伸ばしその中に銀糸を織り込んでいる。肌は白く、ドレスは夕日のような赤と黒を組み合わせて作られていた。そのドレスが少女の赤い瞳を引き立てる。
その二人に共通しているのは、ダンスをしている男女の方を見てかなりげんなりしている様子を見せていることだ。二人ともあまり感情を表に出す雰囲気ではないのに、今はあからさまに目を濁らせている。
「お嬢!あっちから食べ物取ってきましたよ」
その二人に近寄ってくる巨大な人影があった。その大きさは周囲のどの人間よりも巨大で、高さは少女が二人か三人分、横幅に至ってはそれ以上ある。そしてその巨体がほぼすべて鍛え上げられた鋼の筋肉でできていることと、胸の膨らみからその人物が女性であることが周囲の注目を集めていた。護衛官の青い制服を着ているが、その服は盛り上がる筋肉ではちきれそうだ。短く刈り込まれた赤髪と金の目が血に濡れた巨大な狼のような印象を与えるが、満面の笑みで少女に駆け寄る姿を見るとむしろよくしつけられた人懐っこい大型犬にしか見えない。
少女は大きな皿を片手に近寄ってくる護衛官の方に目をやって、少しだけ目を輝かせる。
「お嬢、疲れてますね」
モヌワが少女に新品の皿とフォークを丁寧に手渡しながら心配そうに言う。
『だって、私が踊れないって言ってるのに何人も誘ってくるんだもの。一々断るのってすごく疲れるわ』
受け取る前に少女が無言で手を動かすと渡された食器を受け取る。
「私も同じだよ」
その隣の男もうんざりした表情で言った。
「公爵さんはこういう場では踊らないといけないんじゃないのか?」
「高位の貴族は踊らないといけないっていう風潮を変えるのに何年もかかったんだ。今更足をくねらせて踊るつもりはない」
モヌワはそれを聞くと肩をすくめて見せる。
「まぁ、私は関係ないけどな」
「どうだか。君にも誘いがかかるかもしれないよ。君も魅力的な女性だ」
その言葉にモヌワは鼻で笑って見せる。
「私より弱い男はお呼びじゃないね」
『モヌワより強い人っているの?』
少女は皿に盛られた食事を頬張りながらフォークを持った片手で問いかける。
「少なくとも一対一で戦って負けたことは今までありません」
『凄いわ』
モヌワは心底嬉しそうに胸を張ってみせる。
『初めて会ったとき血だらけだったから負けたことがあるのかと思ってたけど』
「あ、あれは…かなりの人数相手で不覚を取っただけです…」
膨らんだ風船から空気が抜けるようにモヌワが小さく項垂れる。
「まぁ、でもモヌワは相当強いと思うよ。この会場の警備兵、簡単に負かしてるわけだし」
「ん?あぁ、あれか。ちょっと悪いことをしたと思ってるんだ。見舞いとかした方がいいのかな」
「しないでいい。というかしないほうがいい」
「なんで?」
公爵は先程からまったく口を付けていないグラスの酒をゆっくりまわしながら言った。
「彼は―――国富の公爵のことだけど、2種類の私兵を有していてね。突然姿を現したっていうんなら、それはおそらく普通じゃないほうの私兵だろ」
「普通じゃない?」
「諜報活動を専門にしてる集団かな。私も正式に紹介があったわけじゃないからわからないけど、彼がそういう集団を持っていることは知ってる」
『それって、違法じゃないの?』
「だから、私は正式には知らないんだ」
モヌワが少女がとりやすい高さに皿を固定しながら、もう片方の腕を腰に当てる。
「まぁ、正式じゃないとして。その知らないはずの私兵をなんであんたは知ってんだ?」
「国富の公爵との付き合いは長いからね。彼が警備の人員を決定した会場の警備配置を見れば、通常の警備兵だけを配してるだけでは足りないところっていうのがわかる。でも、この類のパーティーでの保安面が今まで万全だったことを考えると、おそらくそういうことだろうって」
「そんなことも分かるのか」
「そりゃ、警備とか兵士とかは私の専門分野だから」
公爵は苦笑しながら言う。
「私にはわからないけど、国富の公爵の近くにも誰かいるんじゃないかな。身辺に警備兵が一人もいないなんてありえないし」
『そんな人見えなかったけど』
「隠れてるんだよ」
少女が興味深そうに頷いていると、彼らの方に一人の男性が踊っている人たちがいる方向から緊張した面持ちで歩いてきた。まだ若い青年だ。後成人を迎えた直後くらいだろうか。
彼は少女の前に立つと、無理やり落着けたような声でツツィーリエに喋りかけた。
「ツツィーリエ公爵令嬢殿、私は国富3の伯爵の息子で、名をワイーナルと申します。もしよろしければ、次の曲で一緒に踊ってもらえないでしょうか」
ツツィーリエはフォークと皿をモヌワに渡すと、人形のような表情で彼を見つめ、懐からすでに文言が書かれてきれいに折りたたまれた紙を見せる。
『お誘いいただいてありがとうございます。ですが、申し訳ありません。私にはダンスの教養がないので踊ることができません。他の女性をお誘いください』
「そうですか…」
残念そうに肩を落とすと、何か食い下がろうと顔を上げる。その彼の視界に、ツツィーリエの後ろで仁王立ちになり焼け爛れそうな殺気で以て睨み付けるモヌワと、永久に凍りつきそうな冷たい目で視線を向ける国守の公爵の姿が目に入ってしまった。
それが目に入った瞬間、彼の口から二の句が紡がれることはなかった。何やら口の中でもぐもぐと言いながらそそくさと退散していく。
ツツィーリエはその後ろ姿を見て小さく溜息をついた。




