奴隷の少女は公爵に拾われる 85
ツツィーリエ達の前に示されたのは、周囲より数段高くなっている白くて巨大な円形舞台だった。舞台には大きな大理石の一枚岩を用いており、その大理石にはまるで生きているかのように精巧な彫刻が刻まれている。その大理石の中で息づく生物たちは何か一つの物語を象っているようだ。
舞台には5本の白い石柱があるだけで全ての方向から演者が見られるようになっていた。その柱は舞台の上でドーム状の屋根を支えている。
「少しお待ちください」
ブィールルが舞台の近くで姿勢を正して立っている青年に合図を送る。その青年は小さく頷くと、舞台の傍に隠れたレバーをゆっくりと回していく。すると上の屋根から分厚い緞帳が降りて、そのうちに緞帳は舞台を覆い隠す様に囲っていた。
「閣下、中で主がお待ちです」
「中って、舞台の上?」
緞帳で囲われた舞台の方を見た。
「この舞台にはいろいろ仕掛けがありまして」
ブィールルが不思議な笑顔を浮かる。公爵は興味深げな眼で中で鳥が眠る鳥籠の様な舞台を見つめた。
「こちらへどうぞ」
続々と集まり始めている観客たちの大部分は緞帳が降りて何かが始まることを予感させる舞台の方に向き、幾人かは舞台の方に近寄って行く公爵の一行を目敏く見つけていた。
「ここから中に入れます」
ブィールルが大理石の台に刻まれた女神の背中に指を引っ掛け少しだけ力を入れて引っ張る。先程まで継ぎ目など全くなかった美しい女神の彫刻が音もなくスムーズに脇に退き、女神の開けた空間から大理石の台の内部に入る事が出来るようになっていた。
女神が開けた空間は明るい会場とは違うランプの赤い光が灯っていた。そこにも壁画の様に多数の模様が彫られており、語られる物語はさらに深みを増している。一行はブィールルの先導のもとにその幻想的な道を進んで行った。公爵たちが口を閉ざして興味深そうにその廊下の物語を堪能していると、彼らの耳にランプの中で燃える火の音が一際大きく響く。そちらに意識を向けようとした瞬間、彼らの前に広い空間が開けた。
会場の光も届かない中、大理石に反射する月光がその空間を照らしていた。その空間の大理石には全く彫刻が施されておらず滑らかな表面を晒している。見るとその空間には先程まであった天井が無く、上を見ると見えるのは舞台の上に据えられたドーム状の屋根だ。
その空間の中央に星でも見上げているような姿勢の国富の公爵がいた。
「主、国守の公爵とその御令嬢をお連れしました」
「ありがと。下がっていいよ」
公爵はブィールルに視線を合わせて軽く手を振る。 ブィールルはさっと一礼してきた道に下がって行った。
「どうですか、公爵閣下。この舞台の下の仕掛けは」
国富の公爵が笑みを浮かべながら自慢げに言った。
「こういった装置があるなら教えてくれないと。警備に支障をきたす可能性があります」
国富の公爵の表情を見た国守の公爵はほんの少しだけ苦味を帯びた言葉を投げ返した。
「人生には驚きが必要ですよ」
その言葉に対して毛ほども悪いと思っていない悪戯っ子のような反応を返してきた。
「十分足りていますよ、お陰さまで。それよりも今日はわざわざこのような場所をお貸しいただいてありがとうございます」
「何を仰る。先も言いましたが国守の公爵閣下からのお願いなら僕は全力で答えさせていただく所存です。ましてや今回は閣下の御令嬢の晴れ舞台です。光栄に思いこそすれ、その逆の感情を抱くはずもありませんよ」
「ありがとうございます。それにしてもこの舞台、中央にこのような穴が開いているんですね。演者にとっては不便ではないのですか?」
国守の公爵が疑問を口にした。その言葉を聞いた国富の公爵は口角を嬉しそうに吊り上げる。
「まぁ、それについてもおいおい分かります。もう少しだけお待ちください」
「まだ時間になっていないのですか?待たせている方々に悪いのでもしよければ早めに終わらせてしまいたいと思っているのですが」
「予定されていた時間はすでに来ていますが、多少遅れたほうが箔がつきます。それに少し待った方が演出上非常に有意義なことがあるので」
「閣下がそういうならお任せしますが」
国守の公爵はそれ以上何も言わずに口を閉じた。碧眼の公爵は次に黙って周りの大理石を見つめるツツィーリエに声をかける。
「ツツィーリエ公爵令嬢。僕に汚名返上の機会を与えてくださる願い事はお決めになられましたか?」
そういわれたツツィーリエは国富の公爵の目を見て、そのままピタッと動きを止めた。
「お忘れでしたか?」
ツツィーリエは素直に頷いてから紙に文字を記していく。
『別に私は気にしていませんから無理に私の願い事をかなえてくださらなくて結構ですよ』
「あなたを困らせるつもりはありません。もしなければまたお考えください」
国富の公爵はその美貌に優しい笑みを浮かべてツツィーリエに向けた。
『あなたの御子息は一緒では無いのですか?』
「えぇ。今はまたこの会場のどこかにいるのでしょう。もちろんあれからきつく言いましたしまたやんちゃをすることもない筈です」
国富の公爵は苦笑しながら自身の頭をカシカシと掻く。
「どうにも、僕は息子の事になると甘くなってしまいます。本来なら軟禁にでもする所ですが、いやはや血を分けた息子というものに厳しくなりきれない」
銀髪の公爵はその様子を細めた灰色の眼で見ていた。が、少し視線を上に上げて会場の天窓から取り入れられる月の光を見上げた。
「まだあなたの言う時間にはなりませんか?」
「もうそろそろです」
金髪の公爵が唇に指をあてると、何かのタイミングを待つように視線を周囲に配った。白い空間は月の光を蓄える杯の様に、移り変わる月の光によって炎のそれとは違う揺らめきを見せている。
最初にその反応に気付いたのはモヌワだった。
「…お嬢。この場所、なんだか少しずつ上がっていませんか?」
『上がる?地面が?』
ツツィーリエは赤い瞳を舞台の上縁に向けて少し細める。
『あら、本当ね。ちょっとずつ上にあがってるわ』
「ほんとだ。凄いね」
公爵たちが立っている場所は何かに引っ張り上げられるように音一つ立てない静かな挙動で少しずつ上昇していた。歯車による軋みなどは微塵も感じられない無機質な動きだ。
「これが、閣下の見せたかった事ですか?」
「その一つです」
そう言っている間に4人が立っている所が舞台の高さと同じになるまでせり上がり、僅かに風を吹き上げてどこの部分が下がっていたのか継ぎ目が分からなくなるほど精密に舞台にはまった。周りは暗い色の緞帳に囲われている。
「では緞帳が上がったら最初に私が軽く紹介いたしますので、それからは閣下にお任せします。時間は好きなようにお使いください」
よろしいですか?と国富の公爵が確認してきた。
「ツィル。大丈夫かい?」
ツツィーリエはゆっくりと頷いた。
「大丈夫ですか」
国富の公爵は目をキラキラと輝かせた笑みの表情を浮かべてから、よく響く鋭い音をさせて手を打ち鳴らした。
その音を合図に緞帳が上がり舞台にランプと月の光が混ざった会場の光が入ってきた。緞帳が上がり切らないうちから舞台の下の喧騒が舞台の上にまで届く。どの方向を見ても、舞台を囲むように会場中の人間が集まっているような規模で人がいるのが見えた。
「ツィル。私が軽く喋るけどあとは最初に決めたとおりに。円形舞台だから、なるべく全員に見えるようにね」
公爵が緞帳が上がりきる直前にツィルの耳元にささやく。ツツィーリエは公爵の方に少しだけ顔を向けて小さく頷いた。
「お集まりの皆様!」
国富の公爵が、朗々と響く声を舞台からあげた。その声は決して張り上げているわけではないにもかかわらず、その場にいるすべての人間の意識を完全に惹きつける。
「本日はこのパーティーにお集まりいただいてまことに恐縮です。僕はこのパーティーの主催者をさせていただいています国富の公爵です。皆さま、パーティーを楽しんでおいででしょうか」
彼から発せられる声からは自信が満ち溢れ、魔法など使う必要がないほどに魅力があった。
「本来なら皆様に楽しんでいただくためにいくつか催し物を企画していたのですが、その予定を少し後ろにずらしてでもこの場所を使うべき人物が、今日このパーティーに参加しています!」
観客から発せられる音にどことなく熱が帯びる。短い間に国富の公爵は大量の観客の心を完全に掌握してしまった。
「紹介しましょう。我が国が誇る矛にして盾、国防の要として静かなる大虎の紋をその身に掲げし者、国守の公爵閣下、そしてその華麗なる姿に見とれていただきましょう、国守の公爵令嬢です!」
金髪の美男子は劇がかった仕草で後ろに立っていた国守の公爵とツツィーリエの方に注目を浴びせた。
『彼はやりすぎだよ』
国守の公爵がツツィーリエにしか分からないようにうんざりしたような表情を浮かべて指を蠢かせる。だが、すぐに表情を整えるとゆったりとした動きで国富の公爵に示された場所に歩みを進めた。靴の底が舞台に当たり、周囲を鎮める威圧的な音を舞台の下で興奮した観客たちに聞かせる。
銀髪の公爵は目立つ場所に立ってしばらく何もしゃべらず、たっぷりと時間をとって全方位を見下ろした。皺の目立つ顔と月明かりに照らされた白髪交じりの銀髪が醸す威厳、見るものを凍らせるほどに冷酷な灰色の視線が観客をひと撫でするだけで、あれほどに興奮していた観客の喧騒がぴたりと止み国富の公爵とはまた違った集中を観客に強いた。それを確認すると、国守の公爵が口を開く。
「皆さま。お久しぶりな方が多いと思います。国富の公爵閣下より過分な紹介を賜りました、国守の公爵です」
彼の声はまるで冬の夜に雪が降りしきる音のように他の音を消し去り、圧倒的な静けさで観客の意識を支配した。
「私が久し振りにこのような華やかな場に出てしかもこのように素晴らしい場所を借りているのは、一人、紹介したい人物がいるからです」
ふわりと上げた手で少し離れた場所に控えていたツツィーリエを手招きする。観客の注目がツツィーリエに集まった。
「私は一人の少女を、私の娘としてそして次代の国守の公爵とするために引き取りました。今から彼女自身に自己紹介をしてもらうつもりです」
すでに知っているとはいえ、最高位貴族が跡継ぎとして女性を引き取ったというのは衝撃的なことなのだろう。静まり返っていた会場内にざわめきが広がる。
そして姿を見せた少女が線の細い人形のような出で立ちであったこともざわめきの要因の一つだ。その父親も細い体格をしているが少女は女性としての線の細さを有している。透き通るような肌に思わず息を飲む程の黒髪、服装によって引き立てられた鮮紅の瞳は今代の国守の公爵と同じように無機質だ。よくできた人形なのではないかと思わず勘ぐってしまう。国防の頂点に立つ者への印象はどうしても戦い慣れた戦士や筋骨隆々な男というイメージが強くなりがちなだけに、ツツィーリエの少女然とした姿に驚きを隠さない。
ツツィーリエは観客のその様子に全く動じた様子はない。いつも通りの人形のような表情でその場に立って、赤い瞳でその様子を見つめていた。
公爵がツツィーリエの方に目配せをする。
ツツィーリエがその目配せを合図にゆっくりと手を上げる。その手は何かを抱えるように顔の高さまで上げられ、自然とその場所に注目が集まった。
変化は徐々に、だが確実に現れる。明るい筈の会場内が少しずつ暗くなっていったのだ。
ランプの中で火が踊りながら煌々と燃えているにも拘らず光だけがどこかに吸い込まれているかのようだ。明かりの徴収は会場の外側から始まり、一定の速度で中心の円形舞台の方に進行していた。広い会場全ての光がその場から離れるまで、そう時間は要さない。
いまや光はちょうどツツィーリエが立つ場所を照らす空からの月明かり。そしてツツィーリエが掲げた手の上に浮かぶ光の結晶のみとなった。
光の結晶は光を集結しきると、三方向にゆっくりと光の道を作る。その光の道は円形舞台の縁辺りまでゆっくりとした動きで伸びると、突然三つの羽ペンの形をとった。
『初めまして。私の名前はツツィーリエ。ツツィーリエ・ナイアート・フォン・クフラールと言います』
そのペンは光をインクとして舞台の周囲にいるすべての人間に見えるように文字を綴っていった。
『私は喋ることができないので若輩者でありながらこのように仰々しい真似をする事、お許しください』
それからはツツィーリエの独壇場だった。
ツツィーリエの手の上で漂う光の結晶、そして光の流れによって記された流麗な文字は整っていながらも機械的ではない。まるで人の言葉のように文字の端から書き手の感情の細かな部分が読み取れるようだった。白い大理石の上で冷たい月の光を一身に浴びるツツィーリエの姿は無機質な外観をより美しく引き立たせ、観衆は息をするのを忘れて彼女と彼女の紡ぐ文字に集中する。そのツツィーリエの自己紹介は月明かりがずれて舞台の中央を照らすのをやめるまで観衆を魅了し続けた。
最後にツツィーリエが文章を締め手を振るとパッと会場内に光が戻る。正常な光を取り戻した会場でツツィーリエが優雅に礼をした。
数拍遅れてから皆が思い出したように惜しみない拍手を舞台に向けて送っていった。
その万雷の拍手を背に受けてツツィーリエが舞台の少し外れたところで待っている父親の所に戻る。
「良かったよ」
国守の公爵は目を細めて笑いかけると、観衆に見せたものと全く違う優しい雰囲気を纏った手でツツィーリエの頭を撫でる。
ツツィーリエは無言でそれを甘受すると、年相応の少女のように花が咲いたように嬉しそうな顔で笑った。




