奴隷の少女は公爵に拾われる 84
しばらく三人は大使の消えた方向を見続けていると、後ろの方からまた誰かが近づいてくる音が聞こえてきた。モヌワがぬぅっと振り向くと腰にナイフを帯びた彫の深い男が近づいてきているのが見える。モヌワが警戒する前に公爵が振り返ってその男の姿を確認した。
「あれ、ブィールル君じゃないか」
公爵が近づいてくる男性の名前を呼ぶ。呼ばれた男性は嬉しそうに微笑むと、一瞬だけ周囲を見渡して三人と会話できる位置にまで近づいて来た。
「お久しぶりです、閣下」
「久しぶりって程じゃないけどね」
目鼻立ちがはっきりした彫の深い青年だ。肌は先程の大使と同じように少し褐色がかっていて、少し細身のしなやかな体つきをしている。少し長めの髪の毛をターバンの後ろから尻尾のように垂らし、顎に生えた髭は刈り込まれて清潔感がある。
服装は踝丈まであり腰が絞られた黒いコートタイプの上着だ。前面は太い糸で幾何学模様が刺繍され、縁取りはわずかに緑がかった絹糸を大量に用いている。その下に革のブーツを履き、腰には象牙の柄がついた小さなナイフを帯びている。
ブィールルは自分の胸に手を当てると、一歩引きながら膝を折る独特な礼をした。
「閣下。お嬢様のご紹介をするための準備が整いましたので、僭越ながら私がこうして閣下とその御令嬢をご案内する役割を仰せつかりました」
「仰々しいね」
公爵は苦笑する。
「そんな礼をするなんて故郷が懐かしくなりでもしたのかな」
「私の心の一部は常に母国の海と砂のもとにあります」
肩をすくめながら礼を直す。
「ただ他の殆どすべてがこちらにあるだけです」
「国富の公爵のもとに、ね」
「主に対しては常に感謝と尊敬の念を持っております」
鷹のような精悍な顔つきで言い切る。その顔を見て、公爵は思わず笑ってしまった。
「どうされたのですか?」
「いやいや、さっき国富の公爵が『私には人望がありません』なんて言ってたから、それを思い出してつい笑ってしまったよ」
それを聞いたブィールルもつられて笑った。
「それはおもしろい冗談ですね。主に人望がないのであれば他の誰が持っているというのですか」
「国富の公爵閣下はユーモアのセンスがおありだ」
ブィールルは公爵の斜め後ろでじっとこちらを見つめるツツィーリエの方に目をやる。
「閣下。こちらの美しい女性が国守公爵令嬢でしょうか」
「そうだよ」
「挨拶させていただいてもよろしいでしょうか」
公爵が手をツツィーリエに向けて、無言で意思を示した。ブィールルは公爵に一礼してからツツィーリエの前に立つと、躊躇いなく膝を折り首を垂れる。
「お初にお目にかかります。私はブィールル・アジン、国富の公爵のもとで補佐官をさせていただいているものです。このパーティーでは中央舞台の管理を任されているので、幸運にもこうして御令嬢に個人的にあいさつする機会を得られました。御令嬢がこうして公に紹介される大事な場を私が整えることができるということで非常に恐縮ではありますが、御令嬢のお気に召すよう尽力を尽くさせていただく所存です。もし気に入りましたら、これからも末永く私どもとお付き合い願えましたら幸いです」
この長口上を一息にしかし早口になりすぎない絶妙な口調で言い切る。
そして厳かにツツィーリエの手を取りその甲に恭しく口付けをした。モヌワが髪の逆立つほどに怒気を滾らせるが、ツツィーリエに恥をかかせるような行動はさすがにまずいと考えたのか膨大な努力を以てその場から一歩も動かず少々鼻息を荒げるだけにとどめる。
ツツィーリエは特に表情を変えることもなく口付けに対して特に抵抗を示すこともない。だがブィールルが唇を離してこちらを見上げてからも、ブィールルのほうを人形のような顔で見下ろすだけで微動だにしなかった。そのまましばらく空気が固まったようにツツィーリエたちは動かない。
が、やがてツツィーリエは空いている左手をブィールルの方に動かしかけてそれを止め、しばらく逡巡するように手を彷徨わせると振り向いて横に立つ父親の方に左手を動かす。
『右手が塞がってるから返事ができないって言ってくれる?』
「………あぁ、なるほど」
公爵はそのことにやっと気づいたように声を上げると、何かを待つようにツツィ―リエの方を見上げたまま動かないブィールルに声をかける。
「ブィールル君。申し訳ないけど、娘の手を離してあげてくれるかな。娘は喋ることができないから筆談しないといけないんだ。右手がふさがっていると文字が書けない」
「え!?あ、それは大変失礼いたしました」
ゆっくりと手を外すと優雅なしぐさで立ち上がる。ツツィーリエはようやく空いた手で流れるように美しい文字を記すと、ブィールルに手渡した。
『初めまして。私は喋ることができないのでこうして筆談で紹介させていただく失礼をお許しください。後程改めて紹介させていただきますが、私の名前はツツィーリエと言います。大きな場で紹介させていただくのは初めてなので少し緊張していますが、何卒よろしくお願いします。』
「失礼だなんてとんでもない。私の方こそそのことを察することができずに間抜けのように手を握り続けた無礼を許しください」
『私の手を握っただけで私が喋ることができないことを察することができたら、あなたは神様よ』
ツツィーリエは少し微笑みながら、自身の顔の横にそう書いた紙面を掲げてみせる。それを見てブィールルもにやりと笑う。
「あと突然の挨拶をお許しください。この国の人を困らせてしまう事が多いのですが私の母国での癖が抜けなくて」
『別に構わないですよ。少し驚きましたけど』
「驚いておられたのですか?まったく表情が変わらないのでさすが公爵閣下に見込まれた女性だとこちらが驚いていたのですが」
『あら、じゃあ全く動じなかったことにしてもらえますか。その方が父にとって私が誇りに思ってもらえるなら』
ブィールルはそれを見るとくすくす笑い、公爵のほうに視線を移す。
「いやはや、何とも父親思いの良いお嬢様ですね」
「奇遇だね。私もそう思いながら毎日過ごしているところだ」
それを聞くとブィールルがさらに楽しそうに笑った。
「ずっと閣下と御令嬢との会話を楽しんでいたいです」
「それは困る。慣れないパーティーに出席したんだから、目的を果たさないと」
「次回も来られたらよろしいじゃないですか」
「出来れば遠慮したいね」
「それを聞いたら主は残念がるでしょう」
「そういうふりをするだけさ。あの人は私がどう思っているかすでに察しているよ」
「だとしてもです。主は閣下と喋ることを非常に楽しみにしています」
「それはまた光栄な話だ」
公爵が目を閉じながら肩をすくめる。
「それはそうと、君が調整を任されたという舞台を私たちに案内してもらえるかな?」
「はい。かしこまりました。ここから少し歩きますが、とても目立つ位置にありますのですぐにわかると思いますよ」
そう言うと、ブィールルが先導して広い会場の中央部分へと一行が進み始めた。見ると、他の参加客のほとんどが同じ方向に進んでいるのが分かる。
「確かに多くの人に知ってもらった方がいいんだけど、いささかやり過ぎな気がするね」
公爵が自分の周りで動いている人間の数を見て溜め息交じりでそうつぶやいた。
「主も気合が入っているのです。もう一人の公爵が自分を頼りにしてくれているというのが嬉しいのではないでしょうか」
「前者は正しいかもしれないね。後者に関しては違う意見を推す所だけど」
そう言いながらしばらく歩いていると、ブィールルが前方に指を伸ばし誇らしげに一向に告げた。
「みなさん、こちらがこの会場の第一舞台です!」




