奴隷の少女は公爵に拾われる 77
ツツィーリエは公爵と離れた後、人波の隙間を抜けてまっすぐに食事を提供するスペースに行った。数人の男性がツツィーリエを見て話しかけたそうにグラスを持ち近づいて来ようとするが、すぐさま後ろに控えるモヌワの異様な巨体に圧倒されてその場から動けなくなってしまっていた。
(軟弱者どもめ)
『何か言った?』
「何も言っていませんよ、お嬢」
モヌワは普段通り周囲を警戒しながら、特に問題もなく食べ物の気配が濃厚なスペースに来た。
ドーナツ状になっているその台では、内側に数人の料理人がいて各々担当のスペースで料理を作っていた。鉄板の上で茹でた麺を広げ、定期的に何かの液体をかけ赤紫色の炎を立ち上げさせ周囲をどよめかせている者や、大きい果物や小さな果物をナイフで器用に切り取り一つの彫刻のように組み合わせている者、色取り取りの野菜を手のひらサイズの小さなボウルに入れ酒や食事の箸休めとして提供している者、他にもツツィーリエやモヌワが見たことのない食べ物を包丁で薄く切り皿に盛りつけている者。
だがその中でも特に人目を引くのが、熱した鉄板の上で肉汁を鳴かせながら分厚い肉を焼き、中の赤味が目立つうちから一口大に切り提供している小太りの料理人だ。まったく表情を変えずにモヌワの身長ほどもある鉄板の上に所狭しと肉を焼き、すべての肉に関して最高の焼き加減を調整して客に提供していた。その肉は刃が通るときにまるで空気を切っているかのようにその料理人の意に沿って分かれる。充満する香ばしさが人の意識を侵食し、近くで喋っている人たちは最低一回そのテーブルに足を向けていた。料理人は人の多さに動じることなく並んだ人に最高の肉を提供している。
ツツィーリエは迷うことなくまっすぐその肉の所に向かって歩いて行った。
料理人はツツィーリエの姿を確認すると、細長いヘラを使い一動作で肉を皿に盛り付け手渡した。ツツィーリエが軽く会釈してその皿を受け取る。
「お嬢、毒見します」
さっそく口に運ぼうとするツツィーリエを制しながらモヌワが言った。ツツィーリエはフォークを口に運ぼうとした所で動きを止めると、何か言いたげにモヌワのほうを向く。
「私はお嬢の護衛官ですから」
ツツィーリエはフォークを持ったまましばらくモヌワのほうを見ていたが、そのフォークを皿に置いて肉を焼いている男の方に向かった。男は皿に残った肉を見て一瞬だけ目を細める。だが、ツツィーリエがモヌワのほうを指さして皿の上の肉を示してから皿を差し出すと、すぐに合点がいったといわんばかりに表情を緩め、抑え目に入れていた皿の上の肉の量を数倍に増やした。
「お嬢、もしかして私が食べて量が減るとか思いました?」
ツツィーリエは迷いなく頷くと、もう一本フォークを持ってきてモヌワに渡した。
「…………いや、一緒に食べようってわけじゃなくてですね」
モヌワは困ったように首元を掻くが、山盛りの肉を先に食べようとするツツィーリエを見てそれを慌てて制する。
「だぁっ!わかりました。でも、私が食べて少ししてから食べ始めてくださいよ」
モヌワは渡されたフォークで下にあった肉を突き刺し、ひょいと口に放り込む。
そして、2,3口噛んだだけで飲みこんだ。
「……なんだ、これ」
モヌワが絶句する。
「肉を噛んだ気がしない」
基本的に筋張った肉を噛みしめて食べることの多いモヌワにとっては初めての経験だろう。今その場で焼かれている肉は、肉の脂をバランスよく配して旨みと口溶けを極限まで追求した肉だ。口に入れて噛んだ瞬間に脂が溶け、焼き色のついた表面と甘い脂の乗った肉のうまみだけが口の中に残った。
「今まで食べた肉とは違いますね、ってあ、お嬢!……もう……」
モヌワの反応を見て、ツツィーリエもすぐにその肉を口に入れる。あまり表情は変わらないが、二口目を食べる速度だけを見てもどれだけそれが気に入ったか分かった。
皿の上に山盛りになった肉はあっという間に消費され、ツツィーリエはモヌワを引き連れて円形に並んでいる卓をまんべんなく味わって行く。モヌワはもちろん体格に応じた食欲があるが、ツツィーリエのそれはモヌワが足元に及ばない程のものだった。ツツィーリエは食事を出す料理人に後ろにいるモヌワを示して大量の食事を一回で確保し、その山盛りになった食事の半分以上をぺろりと平らげていく。細身のドレスを着ているにも関わらず食べても食べてもお腹は膨れた様に見えず、食欲は食べるに従ってむしろ増進されているように見える。
「お嬢、ほんとよく食べますね」
広い台をもう少しで一周しそうなくらい食べつくして、2週目に行こうと既にツツィーリエの眼が最初に肉の料理人の所に向けられていた。その言葉に対して皿をモヌワに渡しながら肩を竦める。
『皆もっと食べればいいのよ。ここにいる人あんまり食べないのね。おいしいのに』
「マナー違反になるリスクを減らしてんじゃないですかね?食べなければ食事の作法であれこれ言われることもないわけですし」
『退屈ね』
「お嬢もそう思うかもしれないですよ?」
『相手に失礼でなければいいんでしょ?だったら失礼じゃない方法でしっかり食べるわ』
白いクリームの乗った一口大のケーキをこじゃれた皿に山盛りにしてもらうと、それを並べている職人に微笑みを浮かべて会釈し、モヌワと分けながら周囲を見渡した。
「お嬢、食べながらだと手話し辛いでしょ」
小さい甘青果の乗ったパイを口に入れて咀嚼しながら頷く。パイ生地のサクサクとした音がモヌワの高さにまで聞こえて来る。
『お皿持ってると手が塞がるわね。喋れたとしても口になんか入ってたら喋れない訳だけど』
「でも、こういう立食形式だと不便ですね」
『モヌワとかお父さん相手ならある程度仕種だけでも分かるんだけど』
「そもそも手話で通じない人も多いですから」
『まぁ、そういうもんでしょ』
既に3個目になった甘青果のパイを頬張って肩を竦める。
『モヌワ、このパイ美味しい』
「お嬢を見てたらなんとなくわかりますよ。てか美味しくない食べ物ないでしょ」
『そうね』
ツツィーリエは口の中のモノをしっかり飲み込むと、寄ってきた給仕の少年に使い終わった皿を渡す。
『じゃあ、もう一周回ってから他の所行ってみましょ』
「お供しますよ。公爵も私を目印にすればすぐに見つけられるでしょうし」
『あなた便利ね』
モヌワは大袈裟にお礼をして見せる。
ツツィーリエはモヌワを引き連れ、嬉々として最初の小太りの料理人の所に歩いて行った。
その途中、ツツィーリエは人の流れを避け損ね肩を女性の腕に当ててしまった。
「あら、ごめんなさい」
ツツィーリエもすぐに振り返って謝罪のために頭を下げる。そのツツィーリエの視界に入ってきたのは、鮮やかな赤色だった。
「お怪我はない?」
ツツィーリエが顔を上げる。ツツィーリエも決して背の低い方ではないが、その女性は女性として羨ましくなるような理想的な背の高さだった。ツツィーリエが見上げる高さだが、決して男性を威圧する程でもない。靴はヒールだが、それも決していたずらに高いものでもない。ドレスの裾から見える足だけを見ても彼女の足の計算された絶妙な細さが分かる。ツツィーリエのドレスと同じく体の線が見えるスマートなものを着ているが、ツツィーリエとは違う女性として磨かれ洗練された美しさが燃えるような橙色によって引き立てられていた。
そして彼女の髪はそのドレスよりも更に強く燃え盛る赤だった。炎がもつ本能に訴えかける魅力と同じものをその髪は持っていた。僅かに波打つその髪は丁寧に手入れされ、その艶が更に彼女の炎を燃え立たせている。
「少しよそ見をしていたものだから」
彼女は明るい茶色の瞳を僅かに細めて申し訳なさそうに笑顔を作った。
「それに凄い人でしょ」
ツツィーリエはまっすぐその目を見ながら相槌を打つ。
「あら、あなたの眼」
その女性が自身を見つめる目を覗きこむ。
「とっても綺麗。こういう赤はとても素敵よね」
決して厭味に聞こえない混じりけのない賞讃をツツィーリエの眼に送った。ツツィーリエは少しだけ微笑みを浮かべてみせる。
「あ、ごめんなさい。引きとめてしまったわね」
彼女はゆったりと動きながらツツィーリエに手を振る。
「じゃあね、赤い目の素敵な人」
そう言って彼女は人混みの流れに乗ってその場を離れた。彼女の髪がその持ち主の動きに応じて僅かにたなびき、まるで燐光でも帯びているかのように魅力的な光を放っていた。
「お嬢、大丈夫ですか」
ツツィーリエはモヌワに頷きかけながら、顔をその女性が去った方向にずっと向け続ける。
「さっきの女、さっき公爵が言ってたうちの一人ですね」
ツツィーリエはその言葉を聞いて再度頷く。ふと、その目線が先までその女性がいた場所に向く。
そこには綺麗な赤い玉の付いた髪留めが転がっていた。




