奴隷の少女は公爵に拾われる 70
「マーサは台所の方にいると思います。私は公爵さまにいくつか報告することがありますので、モヌワよろしくお願いします」
「わかった」
「あとモヌワ。それが終わったら護衛官の制服を着なさい。お嬢様の護衛官として随行する以上、私服での参加は認められませんよ」
モヌワは首を縮めるように肩をすくめて小さく返答する。
「じゃあ、お願いしますね。出発の時間は公爵さまが決められるのですが?」
「うん。出発する頃合いになったら私が呼びに行くよ。男爵君とモヌワ、ツィルは台所にいておくれ」
ツィルたちは軽くうなづくと、モヌワの先導のもとに邸宅の方へと歩き出す。
「お嬢、裾踏まないように気をつけてください」
ツツィーリエはそう言われると、ドレスの裾をたくし上げた。
「なんか、優雅じゃないですね」
『そう?』
首をかしげる。
「家の中まで抱えて行きましょうか」
『モヌワは私のこと抱えるの好きね』
「なんかお嬢が近くにいる感じが凄く落ち着くんです」
『子供の人形じゃないんだから』
言ってる間に邸宅の玄関ホールにたどり着いた。数日ぶりのそこは当たり前だが特に代わり映えもせず高い天井に殺風景な石造りの空間だ。
「早く行きましょ。護衛官の制服着るの久し振りだから、ちゃんと着れるか確認して来ないと」
『そうね。私はお腹がすいたわ』
玄関ホールを抜けてまっすぐ台所に向かうと、その道中甘い臭いが三人の鼻に入り込んできた。
「良かったですね、お嬢。何か作ってるみたいですよ」
ツツィーリエは大きく頷きながら歩く速度を速める。その匂いはだんだん強くなっていき、食堂に通じる木製の扉の前で一等に強くなった。モヌワが身を屈めながら扉を開ける。
公爵の邸宅にあるとは思えない程素朴な食堂だった。少し上にある窓から入る光がテーブルの上に掛けられた白いクロスの上を照らす。テーブルもその周りの椅子もしっかりとした作りではあるがどちらかというと農民や職人の家で使われているモノよりも少しだけ質が良いものといった感じだ。ツツィーリエ達が入ってきた扉の向こう側にもう一つ扉が見え、そこから甘い匂いを出す存在が感じられる。食堂には誰もおらず、その扉の向こうで誰かが動く気配がした。
「マーサさん。いますか?」
モヌワが奥の扉に向かって声を発した。すぐにその声に反応して動いていた気配がこちらに向かってくるのが分かる。
「はいはい居ますよ。なにモヌワ?」
扉を開けて顔を出したのは頭の上で髪をまとめたふくよかな女性だった。農民が着るスモックを着て体の前にエプロンをつけていた。優しい女性であることが察せられる顔立ちだが、全体的にきびきびとした雰囲気を纏っている。
そのマーサがモヌワの脇に立っているツツィーリエに気づいた。
「あらお嬢様!良かった、衣装間に合ったんですね。一時はどうなるかと思いましたけど」
扉の奥からエプロンで手を拭きながらツツィーリエの方に近寄ってくる。
「あらまぁ。お綺麗ですよ。もっと顔を見せてくださいな」
ツツィーリエが顔を少し上向きになるくらいに上げる。その顔を、マーサの少し丸みを帯びた顔をが覗く。
「少しだけ紅を引いてるんですね。服にもお嬢様にもよく似合ってます。流石デックさんとムクラね」
マーサがツツィーリエの顔を撫でまわす。
「まぁ美人になって」
ツツィーリエはマーサに顔を揺らされながら手話でありがとうと伝える。
「今ちょうどおやつ作ってるところなんです。衣装出来てなかったらデックたちの所まで持っていこうと思ってたんですけど、ちょうどよかったわ」
マーサが男爵のほうを向く。
「男爵様も食べられます?紅茶も入れますけど」
「もしよろしければお願いしてもいいですか?マーサさんの作るものを食べずに公爵邸をあとにするのは悲しすぎます」
「そんなこと言うのはいつもちゃんとしたものを食べてないからですよ。早く奥さんもらっておいしい物作ってもらいなさい」
「マ、マーサさん…」
男爵がその言葉に少し狼狽する。
「まだ1の侯爵の御令嬢に何も言ってないんですか?早くしないと取られちゃいますよ」
「あちらにも縁談がありますから…」
「でも御令嬢は断ってらっしゃるんでしょ?早くしないと」
「他に想い人がおられるのではないでしょうか」
と、寂しそうに言う男爵の背中をマーサが思いっきり叩く。
「大の男が意気地のないこと言わないの!振られたら振られたで新しく見つけるなりなんなりできるでしょ。うちの公爵さまみたいに一人でふらふらしてられると何かと面倒ですよ」
マーサは男爵の背中をもう一度強くたたいてから台所の方を向いた。
「もう少しでできるから少し待っててくださいね。お嬢様とモヌワも紅茶でいいですか?」
「あ、私は一回自分の部屋で着替えてくるんで紅茶はいらないです」
「あらそう?じゃあ、着替え終わったらこっちに戻ってきなさいな。何か見繕うわ」
「ありがとうございます」
モヌワはそのまま身を屈めて廊下に出ると、足早に自分の部屋の方向に向かって歩いていった。
「卵がたくさん手に入ったんでプリンを作ったんですよ」
「いいですね!楽しみです」
「すぐに用意しますよ。あとちょっとだけ手を加えるだけですから」
マーサがそう言いながら台所の方に引っ込んだ。
男爵がツツィーリエに羨ましそうに話しかける。
「お嬢様は毎日マーサさんのご飯が食べられて羨ましいです」
『そう?確かに美味しいけど、あんまり他の人が作ったご飯食べないから分からない』
ツツィーリエが手話で伝えた意思をしっかりと読み取る。
「マーサさんの作るご飯は絶品ですよ。私があまり良い食事を取っていないというのも確かにあるのかもしれないですが」
『1の侯爵令嬢を奥さんにすればいいじゃない。そしたらその人が作るんじゃない?』
「貴族の令嬢は普通料理をしません。よっぽど趣味なら別ですが」
ツツィーリエは意外そうに眉をあげる。
「お嬢様も料理しないでしょ?」
『マーサに教えて貰ってるから少しならできるわよ』
「趣味ですか?」
首を横に振る。
『なんかあった時に料理位作れるようにって』
「なるほど」
『そう言えば今日のパーティーにはどんなご飯が出るの?』
ツツィーリエが思い出したように自身の興味の対象について尋ねる。
「それはもうたくさんの料理が出ますよ。古今東西、ありとあらゆる地方の料理が食べきれない位だされます」
『食べきれない?余ったらどうするの?』
「使用人が食べて、残りは捨てるんじゃないですか?」
ツツィーリエは、心の底からショックを受けた様に目を大きく見開き血の気が引いたように顔の色が変わった。
震える腕で話を紡ぐ。
『す、すてる?食べれる物を?不味くもないんでしょ?』
「それはもう。国富の公爵が自身の情報網と唸る金にモノを言わせて世界から優秀な料理人をパーティーのために呼び寄せますから。どれも好みの問題はありますが美味しい筈ですよ」
ツツィーリエの体があまりのショックで震え始めている。
「お嬢様?」
『なんてひどい……食べれる物を捨てるだなんて…』
椅子の背にもたれかかるように身体を傾けた。普段との余りの変わり様に男爵が心配して背中をさする。
「お待たせしました。プリンですよ……ってお嬢様、どうかされました?」
マーサがお盆の上に乗ってきた優しい甘さが伝わるプリンをテーブルの上においてツツィーリエの方に駆け寄る。
『マーサ。今回のパーティーで余ったご飯って捨てられるの?嘘よね?』
マーサがその言葉を見て一瞬で状況を把握したらしい。ツツィーリエの体を優しく抱きしめながら諭す様に話しかける。
「いいえ、お嬢様。悲しいですが本当の事です」
『ひどいわ…ご飯を捨てるなんて罰が当たってしまう』
顔をあげたツツィーリエは普段なら何があっても揺るがない表情を歪め、瞳に涙の幕を作り悲しみを表現する。
「ですがお嬢様。世の中にはそういう事もあるんだと知る良い機会です。流石にお嬢様一人ではあの規模のパーティーで用意される料理の余りを食べきることはできません。その悲しみを乗り越えないと前には進めませんよ」
「……そんな大げさな話なのかな………」
男爵の呟きは宙に漂って消えた。目を潤ませたツツィーリエは尚も悲しげな表情を下に向ける。
「とりあえず今お嬢に出来る事は、目の前のおやつを食べる事です」
マーサがツツィーリエの前に差し出したのは、木の容器に入った黄色い滑らかな膜だ。
「食感を変えてみたんです」
そう言いながら小さな容器を取り出し、中に入っていたとろみのあるソースの様なものをプリンにかけて行く。濃い茶色の液体で、深い苦みの中にしっかりとした甘みが匂いから感じられる。
「これはカラメルソースです。どうぞ召し上がれ」
ツツィーリエの手に渡された容器からほんの少し温もりが感じられ、その温かさがよりカラメルと甘いプリンの匂いを引き立たせる。
ツツィーリエは受け取ったスプーンを手に取り少し考えていたようだが、輝く黄色の膜を破って一口分カラメルと一緒に掬い取るとゆっくりと口の中に含んだ。
「美味しいですか?」
ツツィーリエは迷うことなく頷いた。プリンに粗熱を残すことで少しとろみのある食感になり、しっかりと焦がして苦みを少しだけ強めたカラメルソースと絡みやすくなっている。舌の上で複雑に混ざって、ふんだんに卵を使った優しい甘みとともすれば単調になりがちなその甘みにアクセントをつけるカラメルの仄かな苦みが広がって行った。
「とりあえず少しお腹の中に入れておいた方がいろいろ食べれるでしょ」
先程の悲しみがウソだったように嬉しそうな表情を見せると、ゆっくり味わうようにプリンを口の中に運んで行く。
「男爵もどうぞ」
「ありがとうございます」
いそいそと木の容器を受け取ると、男爵も負けず劣らず嬉しそうな表情になってプリンをつつき始めた。




