奴隷の少女は公爵に拾われる 60
公爵邸を出て市街地の方ではなく農地のほうに続く方向にマーサとラトが走っていった。それを追ってモヌワが走る。モヌワはかなり本気で走っていたがそれでも追いつくことができない。走りながらモヌワは何か気配の薄いのが追いかけてくるのを感じたが、今はそれを意識するより先に先行する3人に追いつく方が先決とあまり意識せずに走り続ける。
朝早くの道は太陽は照っているものの強い温度は感じず、石で舗装されている道路に足音が吸い込まれていく。途中の道でであったのは農作物を売り出しに来る農民が数人とそれ目当てでやってくる市街の主婦数人だけだ。一行は彼らの注目を集めながらひたすら市街を離れた方向に進んでいく。
しばらく走っていると舗装された道が終わり、多くの人が歩いたことによってできたまっすぐな土の道が現れる。道の左右には遠く広がる山々が見え、その山裾には一面に何かの野菜を植えている広大な畑が見える。
その道が現れてすぐの所に木造りのそこそこ広い家があった。木の壁にはヘラで塗りたくられたように彩り鮮やかな色が混在している。屋根にもその色は侵食していて、唯一無事な正面の扉には書きなぐったような文字で以て、”服作ります、応相談”と書いてあった。市街地とはかなり離れた場所で激しい色の壁を見て、進んで服を注文しようという気にはなれないだろう。だがマーサとラトはまっすぐその家の扉の前に立つと、周囲にほかの家がないのをいいことに大声で中の住民を呼びながら扉が壊れるくらいの勢いで叩き始めた。
「デックさん!起きてください!急ぎの仕事です!」
そこでようやくモヌワが追いつく。モヌワが少し息を乱しながら扉の方に近づくと、座り込んでいるツツィーリエの姿があった。いつの間にか靴は履いていたので良いものの顔は赤いのを通り超えて軽く白くなっているし、焦点が定まらないままほとんど咳をするくらいの勢いで息をしている。
「お嬢………大丈夫ですか?」
ツツィーリエは声をかけられてようやくモヌワに気づいたというように顔を向けると、返事をするのも億劫といわんばかりに項垂れる。
「マーサさん、ラトさん、起き抜けのお嬢に無理やり運動させるもんじゃないぞ。お嬢が死んじまうよ」
モヌワがツツィーリエの顔より広い手で背中をさすってやりながら非難めいた口調で、扉をたたく二人の年長者に話しかける。
「………あら、お嬢様。大丈夫ですか?」
そのことに今気づいたといわんばかりにマーサがこちらに声をかける。が、すぐに朗らかな表情で。
「この程度の距離走った程度で死ぬ人はいませんよ。大丈夫大丈夫」
「…………」
モヌワが呆然とした表情で尋ねた。
「…何かあった?」
「次のパーティーのためのお嬢様の服を用意していないんです。すぐに用意しないと間に合わない」
ラトが答える。
「買えばいいじゃん」
「そんなわけにはいきません。それは戦場の騎馬兵がロバに乗っているくらい滑稽です」
ラトの目が真剣みを帯びる。
「私たちの大事なお嬢様にそんな滑稽な目には合わせません」
「その大事なお嬢の息が乱れまくりだけどな」
ツツィーリエは赤い目をカッと見開いて苦しそうに息を吸っていた。
「………不可抗力です」
と、騒々しいノックの音にようやく中の住民が反応したようだ。中で下品な悪態をつく男のだみ声と、大きなげっぷの音が聞こえる。
「今何時だと思ってんだ!俺が起きてから出直してこい!」
ドアが蹴り開けられ、建付けの悪いドアが180度開いて壊れそうに軋んだ悲鳴を上げた。扉の奥からは古いインクと埃の匂い、後公爵邸の図書館とは少し違う紙の匂いが漂ってきた。
「ん?なんだ、発情した牛みたいな声でがなり立てる馬鹿がいると思ったらマーサか。また妊娠でもしたのか?」
「仮に妊娠したとしてなんで仕立て屋にくると思うの」
中から出てきたのは、顔中を縮れた黒髭で覆った小男だ。背の高さはツツィーリエより少し小さいだろうか。片手には酒瓶を持ち、空いた方の手で自身の髭で覆われた顔を掻いている。髭か髪か分からなくなっている位茫々に生えた髭を逆立てながらどなり声をあげていたが、マーサを見た瞬間その激昂が収まった。丈夫な皮張りのエプロン、よれよれになって黄ばんだシャツ。毛玉がかなり目立つズボンをはいていた。髭の中から覗く眼が店の前にいる4人をざっと見渡す。
「マーサとラトは顔覚えてんだけど、そこの小さいのとでっかいのは見覚えないな。おれもぼけたか」
「見たことないんだから覚えてるわけがないでしょ、デック。急いでるって言ってるでしょ。冗談言ってないで中に入れて」
「まだ寝てんだよ。こんなに朝早い時間に来られても」
「パーティーに必要な衣装を作ってほしいの」
デックの耳がぴくっと震える。
「………なんのパーティーだ」
「国富の公爵の開くパーティーよ」
「あと数日しかねぇじゃねぇか!」
唾を飛ばしながら叫ぶ。
「だから急いでるって言ってるじゃない。お願いよ、ディック」
「私からもお願いします」
ラトとマーサが思いっきり頭を下げて髭もじゃの小男に懇願していた。
「おいおい、やめてくれよ!朝っぱらから人に頭下げるもんじゃねぇぞ」
と小男が言っても二人は頭を下げるのをやめない。小男の方は困ったように顔をしかめて腕を組む。
「あんたらから頼まれると断りづらいんだよな」
小男の目が、まだ息の荒いツツィーリエと背中をさするモヌワのほうに向く。
「誰の服作りゃいいんだ」
「公爵とそのご令嬢のパーティー用の衣装を整えてもらいたいと」
「公爵の分はまぁいい。あいつの分はもうだいぶ前に構想練って生地の準備もしてる。あとは作るだけだ。問題は……って、ごれいじょう?」
小男はラトのほうに向きなおる。
「あいついつの間に子どもなんか拵えたんだ」
「養子をとられたんです」
「なんだよ、言ってくれりゃ、しゃれた子供服の一つや二つ、適当に作ったのに」
「そういったことに気のまわるお人ではありませんから」
「あぁ…そうだったな。まぁいいや。それで、その娘ってのは、そこにいる二人のどっちだ」
「小さい方に決まってるでしょ、デック。脳みそまで酒に浸されたの?」
デックは笑いながら答える。
「あのでかい方なら首を横に振って板金屋までの地図を書いてやろうと思ってたんだ。服より鎧のほうが似合いそうだ」
「冗談を言ってる時間はないでしょ」
マーサが目を吊り上げてデックの胸に指を押し当てる。
「いいじゃねぇか。久々に娘以外の人間と喋るんだから、多少の遊びは大目に見てくれよ」
「お受けしてくれますか?」
「あんたらの頼みならしょうがない。何とかしてみらぁ」
デックは酒瓶を外に投げ捨てると、どたどたと騒々しい足音を立ててあいたままのドアをくぐる。その後を追ってマーサとラトが入る。
「お嬢様、モヌワ。早く来てください」
ラトが顔だけ出して二人を呼ぶと、さっと引っ込む。一連の流れを蚊帳の外で眺めていたモヌワとツツィーリエは顔を見合わせてしばらく座っていたが、再度ラトがドアの奥から動いてくる気配がしたので急いで立ち上がり扉をくぐって中に入った。




