奴隷の少女は公爵に拾われる 56
国富の公爵が広大な公爵邸の中にある自分とその家族、一部の者だけにのためにつくられたどこよりも豪華な私邸の中に入り、執務室に向かって歩いていた。屋敷の中は廊下から使用人のための控室、トイレに至るまで全ての床が最高級の絨毯に覆われている。毛足はそこまで深くないが精密に編まれたがらはまるで長い御伽噺を読んでいるかのように、頭の中に様々な想像を掻き立てられる。そんな、飾り絨毯が使われている。その公爵専用の屋敷の絨毯だけで国守の公爵邸を、中にある全ての物品を含めて買い取ることが出来る値段になるだろうか。
「そんなことはしないけど」
「何をしないんだ」
その絨毯の上を一人で歩いていた国富の公爵の真横で低い男の声が聞こえる。
「フーガか。なにか用か」
公爵は声の方を見る事もせずに声をかける。
霞が解けるように空気に揺らぎが浮かび一人の男の姿になってまとまる。そして、その男はずっとそこにいたかのように公爵の横を当然のように歩いていた。
「ほれ」
その男は公爵に、先程女性の手から奪って放った水差しを渡す。
「ものを粗末にするな」
「気がきくね」
「睡蓮の滴を好んで飲むのは構わんが、わざわざそれを出汁に女性を寝所に誘う事はあるまい」
引き締まった体を黒いピッタリとした服で覆った男だ。年の頃は中年だろうか。常に細めた眼の中には黒い瞳が常に周囲を警戒し、傷だらけの険しい顔は不機嫌そうに引きしめられている。黒い髪は指の厚み程度の長さまで刈り込まれ、首筋から僅かに見える鎖の模様の刺青が印象的だ。だが、そんな印象的な風貌とは真逆に体を動かす様には全く音がなかった。鍛えられた戦士なら隙のない動きをするのは当然だが、彼の動きはそれとは全く性質を異にしている。絨毯の上を歩いている足音も公爵のモノだけで、筋肉一つ動かす時の音すらどこかに捨て去ってしまっているようだ。
「僕としては女性を寝所に誘わないのは最早無礼の域に達していると思う訳だ」
「勝手にしろ。だがわざわざ滴を集めるように設えられた水差しをポンポン投げるな。もったいない。姿を消したまま周囲に気取られぬように空中で受け取るのがどれだけ神経を使うか分かるまい」
「ごめんごめん」
公爵よりも年上に見えるその黒い男に金髪の公爵が唇をあげる皮肉な笑みを浮かべた。
「フーガを試したんだよ」
「悪いと思っていないなら謝るな。それより報告することがある」
「なに」
「国守の公爵の所から、娘と女が出て行った」
その情報に興味を示したように緑の眼をキラっとさせる。
「詳しく」
「一人はお前の所の息子と同じ位か少し年嵩の少女だ。髪の色は黒。眼は赤い。少し細身で、白い服と帽子を着用。もう一人はあんたの上半身を私に乗せたくらいの背丈に、あんたが3,4人分の横幅の大女だ。武芸の嗜みがある身のこなしで、髪は赤、眼は金だ。配下に見張らせているが、大女の方がやたらと警戒心が強い。数人体制にしているが、もし本格的に見張るなら手数を増やす必要がある」
「どこに向かってる?」
「目的地は特にないようだ。散歩じゃないか」
「なるほどね、天気もいいし」
「公爵邸から執事と飯炊きと公爵以外の人の出入りがあったら報告しろという事だから報告した。先も言ったがこれ以上見張りを続行するなら他を切って人を回さんといかん」
「とりあえずそのままでいい。散歩だって言うならまた籠る可能性が高い。下手に動いたら、国守の公爵にしっかりと気付かれる」
「分かった」
黒い男はそのまま霞に紛れるように姿を揺らがせ始めた。
「フーガ、後それと頼み事がある」
「何だ」
バネでひき戻されたように身体をはっきりとさせ、不機嫌そうに聞き返す。
「次か、その次の僕のパーティーに国守の公爵が来る可能性が高い。警備をそれ用に組み直してくれ」
黒い男は露骨に嫌そうな顔をした。
「国守の公爵が来るのか」
「嫌いだったっけ?」
「あいつは我々に気付いているのに気付いていないふりをするのが気に食わん」
「気を使われてやんの」
「黙れ。だが、まぁ良い。彼が来るのなら確かに警備を組み直す必要がある。先ほど言った大女、あれはおそらく護衛だがあいつも来るか?」
「分からないけど、多分公爵の娘の護衛官だと思うんだよね。あんまり情報がないから憶測交じりで悪いんだけど。公爵が来るとしたら娘と一緒だろうから、その女性も一緒に来るでしょ」
「警戒心の強い護衛官は面倒なんだが、まァ良い。分かった」
傷だらけの顔を思案に曇らせながら、姿を霞のように揺らがせ始める。
「もう頼み事はないか」
「あと、今日の夜にさっきの池にいた女の子が来るから、護衛よろしく」
「今更言わんでも良い。今までもずっとそうしておるだろうが。我々は常にあんたへの万難を排する」
「ありがと」
その礼に対して何も言わず、黒い男は姿を透明な絵の具を塗りたくられた様に姿を消した。そうなると、最早足音や気配ですら捕える事が出来ない。
国富の公爵はその事に対して慣れきっているように歩みを緩めることなく、自身の執務室に向かう。
「さぁて、次来るか、次の次に来るか。楽しみだ」
水差しの水を勢いよく飲みこむと、流れるようにそれを後ろに放り投げた。
その宙に放りだされた水差しは空中でいきなり向きを変えると、公爵の頭に思いっきり当たって先程の男のように姿を消した。
「………いったいなぁ、もう」
公爵は頭をさすりながら、先程まで男がいた方向を恨みがましく睨んでいた。




