奴隷の少女は公爵に拾われる 162
公爵は外に出て、後ろ手にゆっくり扉を閉めていく。
「おいおい、どうした」
「少し話をしてくるよ」
扉の隙間から公爵が顔を見せた。
「こっからでも十分話くらいできるだろ」
「それは出来ないよ。わざわざ来てくれてるのに失礼だから」
そういう公爵は、かなり苦い顔をしている。
「書類の準備だけ済ませておいて。わからないことがあったらラトに聞いたら良いから」
公爵はそのまま扉を閉め、数歩分の足音を残して扉の向こうに行ってしまった。
「なんなんだ?」
『筆頭執政官って言ってたわね』
「言ってましたね」
『どんな人だった?扉の向こうで見えなかったわ』
「ただのハゲたおっさんにしか見えなかったですけど。公爵さんと同じくらいの年齢に見えました」
『お父さんは年齢より若く見えるらしいから、もしかしたらその人はもっと年上かもね』
「公爵さんって幾つなんですか?」
ツツィーリエは首を傾げる。
「知らないんですか?」
ツツィーリエが頷いた。
『話題にならないから』
「そんなもんですかね」
『それより、筆頭執政官が自分でお父さんの出迎えに来るのはなんだか珍しい気がするわ』
「まぁ、公爵さんは何だかんだ偉い貴族様ですからね。相手も気を使うんじゃないですか?」
『昨日は気を使うとは程遠い感じの招待状の渡し方だったのに?』
大きさの違う2人が腕を組んで首を傾けていると、上の方から声がかけられる。
「モヌワ、どうしたんですか?まだ書類は残ってますよ」
ラトとタレンスが書類の束を持って階段を降りてくる。
「おや、公爵様はどちらへ?」
「筆頭執政官って奴が迎えに来たから外で話ししてるよ」
ラトの白い眉が上がる。
「イヴン筆頭執政官が?」
「あぁ、ハゲたおっさんだ」
「なるほど」
ラトの眉間に僅かな皺が寄る。
「なんかまずいんですか?」
「いえ、少し面倒なだけです。気にせずに書類を運んでください」
ラトが玄関ホールの書類の山を高くする。
「モヌワとお嬢様は、1の男爵が来たら、我々は予定より早く出発したと言っておいてください」
『もう行くの?』
「いえいえ、朝の食事くらいは取れると思いますよ。その後ゆっくりすることはできないでしょうが」
「随分と落ち着いてんだな」
「慣れてますから。ほら、さっさと運んでしまいますよ」
ラトがモヌワを呼びながら、キレのある動きで執務室に歩き始めた。
「お嬢様はマーサの手伝いをお願いします。早めに朝食を出してもらうことになるかもしれませんから」
「朝食くらいゆっくり食べたいものだね」
公爵は焼き立てのパンを口の中で咀嚼しながらぼやく。大きなテーブルからは、パンと野菜のスープの湯気と、香ばしく焼けた塩漬け肉の匂いが立ち上っていた。
「全くです、せっかく公爵様がたくさん食べる気になってる日に限って邪魔が入るんですから」
恰幅の良いマーサが公爵の前にボウルを置いてから、憤慨した様子で腰に手を当てる。置かれたボウルの中にはゆで卵が入ったサラダが山盛りになっていた。公爵が少しだけ取り分けて口に含むと、野菜の甘みとわずかな苦み、少し酸味の強いドレッシングがアクセントになり口の中が気持ちよく潤う。サラダの脇には小さな淡い紅色の果物がボウルに盛られていた。
「これは何、マーサ」
「双紅果ですよ。美味しそうなのが市場に回ってたので」
「ふーん」
公爵は不審そうな目で小さな果物を見つめ、ツツィーリエに流す。
「好き嫌いはいけませんよ」
「別に嫌いなわけじゃないよ。あまり馴染みがないだけ」
「食わず嫌いは良くないですよ」
『美味しいよ、これ。甘くて、とってもみずみずしい』
「それは良かった。きっとツィルが食べたほうが果物も喜んでくれる」
公爵はそう言ってパンを口に入れる。
「まぁ。食べるだけ良いですけどね。普段ほとんど食べないから」
「全くです。そういう意味では、ありがたい話です」
ラトは小振りな柑橘を口に含んで口髭を小さく動かしている。
「ありがたいといえば、イヴン執政官と一緒に食事をしなくても良いのもありがたい」
「誘われたんですか?」
タレンスが双紅果を口の中に放り込みながらたずねた。
「建前だよ。彼としてはどちらでも良いんだろうさ。話がしたいのは事実だろうけど、どうせ彼の馬車の中でしばらく話す」
「男爵様の馬車には乗られないんですか」
「うん。せっかく来てくれるのに悪いから、朝ご飯食べさせてあげて」
「分かりました」
マーサは野菜や卵を挟んだ薄切りのパンを布巾が敷かれた籠の中に敷き詰めている。
『なんで筆頭執政官がわざわざ来たの?』
「んー、まぁ、打ち合わせだよ」
「打ち合わせ?あっちは、こっちの敵みたいなもんなのにか?」
「落とし所をどこにするのか、事前に話しておきたいのさ」
「なんだそりゃ」
「執政官としても、あんまり私を攻撃して今後動き辛くなるのは望んでいない。味方ではないけど、あからさまに敵対したいわけでもない、ってことを示したいんだろうね」
「昨日来た奴はそんなこと考えているように見えなかったけどな」
「あの人は王族であって執政官ではないから。何かの間を取り持つ必要がないから、ああいう浅慮な事をするんだよ」
公爵が溜息をつく。
「先代の陛下がおられたら、あんなこと許さなかっただろうに」
「昔を懐かしむ奴は老けるぜ」
「老けるのも悪くないさ」
公爵は食事を半分以下まで減らしてから、ツツィーリエに残りを渡した。
「いつもより食べましたね」
「お腹がはちきれそうだ」
「ネズミみたいな胃袋だな」
「ネズミの方がよっぽど食べるわよ。最近私の家の野菜がやられたわ」
マーサは息を荒くしながら席に着く。
「マーサの家の野菜が美味しい証拠だ」
「ちゃんと手をかけて、天気に恵まれれば、美味しい野菜なんか勝手にできますよ」
マーサは手早く自分の分の食事を取り分ける。
「ちゃんと手をかけるのが難しいんだろうに」
「働き手が沢山いますからね。息子達も体力が余ってしょうがないったら」
『ミーナは元気?』
「ええ。文字を読み書き出来るようになりたいって、近所の習い所に行ってますよ
「マーサさんが教えたら良いんじゃないですか」
タレンスが指をくるくると廻す。
「何か教えるなんて、ガラじゃないですよ」
「私が教えようか?」
公爵がコップに口をつけながら言った。
「あら嬉しい。公爵様がもっと暇だったらお願いしてた所です」
マーサはカラカラと笑いながら、ラトに弁当の入った籠を手渡した。
「ありがとうございます」
「大事に食べてくださいな。いつ頃お帰りですか?」
「今日、明日とはいかないかな。私もラトも不在だから、タレンスには一応伝えてあるけど、何かあったら三の侯爵とかに対処してもらいなさい」
『そんなに長いの?』
「うん。私がある事ない事さっさと認めてしまえばすぐに終わるだろうけど、余り認める気がないからね」
「嘘つきながら生きてたら、地獄に落ちるぜ」
「嘘なんかつかないよ」
「けっ、どうだか」
「本当だよ。私が言ったことが真実になる」
モヌワは呆れた様に白目を剥くと、大きなパンを一息に口の中に押し込める。
「ツィル、そういえば、国富の公爵の息子さんへの贈り物は考えてる?」
ツツィーリエは皿から顔を上げて、首を横に振った。
『あんまり人に物を送った経験が無いから、迷ってしまうわ』
「よっぽどの物じゃなければ失礼にはあたらないから、そこまで気負う必要は無い。まぁ、出来れば今後の良好な関係を象徴するような物が良いけど」
ツツィーリエは人形のような顔のまま、首を斜めに傾ける。
「じゃあ、私が帰ってくるまでに決めてしまう事。宿題にしよう」
公爵は立ち上がってパンくずを払うと、先ほどまでのうんざりしたような表情とは一変したやさしい顔つきで、ツツィーリエの頭をなでた。




