奴隷の少女は公爵に拾われる 161
「さぁ、あともう一息だ。夕飯までには終わるだろう」
ツツィーリエは小さく頷くと座っていた椅子から立ち上がる。
「無理しなくても良いからね、ツィル。疲れたら言うんだよ」
『大丈夫』
ツツィーリエは黙々と作業を再開した。
「とっとと終わらせちまおう」
「そうね」
モヌワとタレンスも立ち上がり作業を再開する。
「この大量の書類、どうやって持っていくつもりだ?」
「男爵君に馬車と御者を借りるよ。いつも、そうしてるからね」
「そういや、この家には馬車とかないな。不便だろうに」
「そうでもないよ。私が動くときは大抵誰かが一緒だから」
書類から目を離さず公爵が言った。
「それで大丈夫なのか?他の国だと、お偉いさんは割といろんな行事ごとに呼ばれたりする印象だが」
「この国の貴族の位置づけが、他の国と若干異なるからね。それに各地に公爵の代理官がいて、式典の出席は彼らに一任してるんだ」
「へぇ。そいつらはあんまり公爵さんのこと好きじゃねぇのか?」
公爵は書類から顔を上げ、不思議そうに首をかしげた。
「どうしてだい?」
「いや、ずっとこの家にいるが、公爵の代理官とやらにあったことがねぇから」
「あぁ、彼らにはよっぽど緊急事態じゃない限りその任地から離れないように言ってるんだ。でも、ツィルの初成人の儀が終わったら都合つけて会いに来るんじゃないかな」
「それは良いのか?」
「まぁ、彼らもツィルに興味津々だし」
「お嬢の事は知ってるのか」
「当然だろ?彼らと実際に顔を合わせることは少ないけど、文章でのやり取りは頻繁に行っている」
「そいつらも貴族なのか?」
「いや。彼らは国守公爵直属の国守公爵代理官という役職を持った役人に近いかな。各地の国守貴族から上がる状況報告の取りまとめと私への報告、私からの指示伝達と実行が主業務だ」
「まどろっこしいな」
「私が全部見る事なんて出来やしないからね」
「前に行った北の山にはいないのか?」
「代理官?筆頭辺境伯が兼任してるよ」
「それは大丈夫なのか?」
「彼らはどうせ代理官の言うことなんか聞かないよ」
公爵が肩を竦めた。
「その麓にある地域には代理官がいるから、一般的な情報はそこから上がってくる」
「なんか、あんたもちゃんと公爵やってるんだな」
「どういう意味さ」
公爵がやや苦い笑みを浮かべる。
「モヌワ、あんた失礼よ」
「ふん、どうせあたしは無礼が筋肉つけて歩いてますよ」
「その筋肉も無礼でできてるんじゃない?」
「そんな簡単に筋肉がついてたまるか。これは日々の鍛錬の賜物だ」
「ほらほら、無駄話せずに」
ラトが書類を渡しながらモヌワとタレンスに声をかける。
「すいません」「へーい」
それからほとんど言葉が交わされることもなく、紙の擦れる音と足音、時折ペンの走る音のみが部屋を通り去るのみだ。カーテンの裾から漏れる光の色が変わるまでの間、公爵執務室の作業は続いた。
「皆さん、調子はどう?」
マーサがお盆に湯気の立つカップを乗せて執務室に入ってきた。
「順調だよ」
「それは良かった。お嬢様は、大丈夫?」
ツツィーリエが頷く。
「病み上がりなんだから無理しないでくださいね。薬湯持ってきましたから、飲んでください」
ツツィーリエはカップを渡されると、ゆっくり中身を確認する。
『今日のは苦くない?』
「ええ、大丈夫ですよ」
『良かった、前に飲んだのは舌が痺れるかと思ったから」
と言って、ツツィーリエが表情を変えないまま舌を出した。
「苦くない薬が病気に効くもんですか。風邪を追い出すにはあの薬湯が一番」
公爵が表情を殺してわずかに震える。
「公爵様も風邪ですか?」
「まさかまさか。違うよ」
公爵が顔の前で手を振った。
「前に飲んだあの味を思い出しただけ。美味しい薬湯も作れるのに、風邪引いた時のあれはとんでもない味がするから」
「不味い方が早く治ろうと思うでしょ。体からも気持ちからも体を治そうとすれば、すぐ治りますからね」
ツツィーリエはそれを聞きながらカップに唇をつける。
わずかにとろみのついた液体が喉を温める。舌にわずかな刺激と甘み、そのあと爽やかな柑橘の香りが鼻に抜ける。ツツィーリエはそれをゆっくり口に含んで、静かに呼吸をした。
『美味しい』
「それは良かった。ご飯までには終わりそうですか?」
「一通り終わるよ。細かいとことか、他の仕事はラトと私でやってしまうさ」
「公爵様にも薬湯作りましょうか?明日もきっと早いでしょうし」
「明日の朝、ちょっともらおうかな」
「わかりました。でもーーー」
「朝食もしっかり食べるさ」
「あら、珍しい。雨でも振るのかしら」
公爵は書類をヒラヒラと揺らしてみせる。
「空腹で戦はできないからね」
その夜、公爵の執務室の明かりは早々に消え、寝息と共に静寂が公爵邸を包み込む。風のない、静かな夜だった。
夜明けの前から、公爵邸の中で動きがある。台所からはいつにも増して早く湯気が立ち、執務室の扉は開きっぱなしになっていた。
「次はここの黄色の付箋がついてるカゴからお願い」
「はいよ」
モヌワが書類の入ったカゴをいくつも持ち上げると、腕の筋肉と血管が盛り上がる。公爵も指示を出しながら、器用に書類の山を持ち上げた。
「鍛錬の代わりになるな、こりゃ」
「体力の必要な仕事だからね。こうやってたまに体を鍛えるのも必要なのさ」
「あぁそうだろうとも」
廊下でタレンスとラトの二人とすれ違う。
「後残り少しだ」
「そう願うわ。これ以上やったら腕が太くなっちゃう」
「なんか困るのか?」
「着れる服がなくなっちゃうじゃないの」
「おぉ、それはわかる。私も数年前の服の胸元がきつい」
「一緒にしないでよ」
「同じだろ」
そう言いながら公爵とモヌワが玄関ホールに向かう。
「男爵はいつ頃くるんだ?」
「まぁ、まだ来ないだろうね。昼前に王都に着きたい、って伝えてるから」
ホールではツツィーリエが一人、人形のような顔で立っていた。公爵たちに気づくと顔を上げ、顔にかかった髪をかきあげた。
「ツィル、具合はどうだい?」
『元気』
「それは良い」
『何か手伝うことはない?」
「昨日手伝ってもらったから、今日は力仕事さ。ホールは冷えるから、マーサの手伝いをしておいで」
ツツィーリエはうなづくと、台所の方に顔を向ける。しかし、数歩歩いたところで立ち止まり玄関の方に目を向けた。
『男爵はもう来るの?』
「いや、まだ来ないよ」
『門の方から馬車の音がするわ』
公爵が片眉をあげる。
「こんな早くに誰だろ。お客の対応はできないんだけど」
そんな話をしていると、すぐに呼び鈴が鳴る。モヌワが扉の方に行き、窺うようにゆっくりと開ける。
外から丁寧な口調の男の声が聞こえる。
「私は執政官のイヴン・ナイトゲールと申します」
公爵の表情が僅かに動く。
「公爵閣下をお迎えにあがりました。朝早くで大変恐縮ですが、取り次いでいただけないでしょうか」
モヌワが玄関ホールの方に顔を戻すと、公爵に声をかける。
「イヴンって禿げたおっさんが迎えに来たとよ。どうする?追い返すか?」
モヌワはそう言ってから、公爵の表情の変化に気づいた。
「どうした?」
「追い返さなくて良い」
公爵はモヌワの傍から扉の外に出る。
「あぁ、公爵閣下!朝早くに申し訳ない」
公爵を見て声をあげたのは、禿げた頭の壮年を少し過ぎた男だ。黒いローブをしっかり纏い、縁の太めの眼鏡をかけている。嬉しそうに笑みを浮かべ、朝にも関わらず精力的な笑顔だ。眼鏡の奥の瞳には、柔和な笑顔で隠された狡猾な光が沈んでいる。
「イヴン筆頭執政官、わざわざすいません」
「いえいえ、閣下にご足労願うのですから。これくらい当然です」




