奴隷の少女は公爵に拾われる 156
公爵はブィールルが一礼して部屋の外に出たのを一瞥で確認すると、一人きりの部屋で静かに呟いた。
「フーガ、報告を」
その声とともに公爵の隣の空間が黒く滲み、やがて収束して、人の形になった。
「………お前の部下の報告通りだ」
低い声で喋るその男は、まるで先程までそこにいたかのような自然さで公爵に話しかけた。
「国守が犯罪者を逃がしているってところかな」
体にぴたりと張り付く黒い服は、男の引き締まった肉体を覆う。首筋からは僅かに鎖の刺青が覗き、その上の傷だらけの顔は不機嫌そうに歪んでいた。
「あぁ。あの男は我々が確認したところで20人の犯罪者を逃がしている」
「なんのために?」
「しらん。だが、広告だけが目的ではないだろうな。かなりおおっぴらにやっているというのも、あんたの部下の報告通りだ」
「どれくらい大っぴらかな」
「王族の間抜けな犬が嗅ぎ付けるほどだ」
「へぇ」
国富の公爵は小さくない驚きの声を上げる。
「それは、明らかに何か目的がありそうだね。その犯罪者の逃亡に関して、実際に動いているのは一の侯爵?」
「いや、確かにあの丸いのもかかわっているようだが、実質動いているのは3の侯爵だ」
「ふーん。まぁ、でも犯罪者を逃がしたていう尻尾をつかねば、国守に対する揺さぶりになるね。調べて」
「もうやった」
「ふーん。なんか表情暗いね」
国富の公爵はすでに答えを知っているかのような冷たい顔でフーガを見上げる。
「証拠はつかめなかった。あからさまに犯罪者の解放はしているくせに、それ以上が隠されている。我らがそろっても一片の情報も得られなかった」
「僕は無能な部下を雇っているという事かな」
フーガの眉間のしわが警告のように深くなる。
「我らがほかに比べて劣っているわけではない。俺の部下が3の侯爵に、文字通り張り付いて探っていたが、ほとんど情報が得られなかった」
「なんでだい?書類を書くときに暗号で書いていたりするのかい?」
おどけた様子の国富の公爵を、顰めた顔でにらむ。
「違う。文章どころか、部下との会話すら暗号で行っている」
「じゃあ、部下をさらって暗号を調べ上げたら?」
「そこまで乱暴ではないが、暗号の解読はやった。だが、あれは無理だ」
「なにが」
「あいつが部下の一人に暗号を伝えると、伝えられた部下は暗号を一定のルールに従って変形させ他の者に伝える。伝えられた側も同じように違う者に伝える。問題は、その規則がかなり煩雑でしかもそれぞれが全く違う法則で以てその暗号を変形させているという事だ。同じ暗号であるはずなのに、伝えられた部下が違うと全く違う情報として伝わっている。それが何十回も繰り返されている。おそらく、その暗号が伝わっていくどこか途中で決定的な指示になっているのだろうが、暗号を伝えている者ですらその実態を把握していない。一つの暗号が、同じ者の耳について、また違う者の所に伝えられるという過程を何十回も、それを何百という暗号全てで徹底している。その暗号をすべて理解するためには、あいつの部下を全員さらって、全員の口を割る必要がある。だが、そんなことをしている間に初成人の儀が終わる」
「何か書類は残ってないの?」
「正式な手順を踏んで釈放された、という旨の書類のみだ。彼奴は最近独り言ですら暗号だ」
「徹底してるね」
「おそらくだが」
フーガの顔の傷が僅かに動く。
「国守の3の侯爵は、我々の存在に気付いているぞ」
「彼は別に特別勘が鋭いという事もなさそうだけど。公爵が言ったかな」
「それはなかろう。我らの事はお前にとって秘匿したい大事な情報だ。それを知らせてお前に喧嘩を売ることはしない、と前にお前も言っていただろう。だが、あれは頭の良い奴だ。何かのきっかけに、姿を隠せる者が情報を探っている可能性に気付いたのかも知らん」
「ふーん」
公爵は緑の目をくりっと動かしながら考え込む。
「あんたに提案だが」
「ん?」
「あれは、消したほうが良い」
残酷なほどフーガの言葉に揺らぎがなかった。
「今なら容易い」
その言葉に、国富の公爵は大きな笑みを浮かべる。
「お前らしいね、フーガ」
「さっそく手配する」
「でも、それはダメだ」
「なぜだ。我々の優位をみすみす譲るか」
「公爵の時も言っただろ?気に食わない人間だろうが、彼は優秀な人材だし、国を回すには優秀な人材が必要だ」
まるで、獲物をなぶる猫のように目を細める。
「フーガ、お前はすぐに負け犬になるね。悪い癖だ」
フーガの髪が小さく逆立つ。
「………なんだと?」
深く低く、無理やり抑えられた、平板な声色だ。
「もう一度言ってみろ」
「すぐ安易な道を選ぶ」
金の公爵は、滾る溶岩のようなそれにあえて踏み込む。
「君たちの一族は、戦闘と諜報活動を旨とし、それに生涯を捧げるんじゃなかったのかい?それをなんだ、君の部下は国守の護衛官に簡単に倒され、満足に情報を収集できない」
国富の公爵の顔には、既に笑みは浮かんでいなかった。
「不甲斐ないとは思わないのかい、フーガ。そのままで良いのかい?」
黒服の男からギリッと歯が噛み締められる音が聞こえる。
「まぁ、君に寝首をかかれるのは怖いから、余り苛めないでおこう」
公爵は執務机の書類に目を移した。
「それに、君たちも役に立たないばかりではない。君たちがもたらした情報の中で一つ、彼の核心に近づくことがあった」
「………慰めか。ずいぶんと優しいことだな」
書類にサインをしてから、羽のペンをインクのツボに戻す。
「お前たちは国守の3の侯爵から離れろ。そっちは僕が物量で潰そう。代わりに―――」
公爵は自身の金髪をつまんだ。
「王族の馬鹿どもと執政官の狸の動きを見張れ」
舌なめずりをする蛇のような、尖った眼光がフーガを照らす。
「容易い。だが、なぜ」
「国守が王族にその動きを知られるようなことはありえない。知られてるという事は、何か意図がある」
フーガが唾をのむ。
「意図を探りたい」
「………心得た」
そう一言言葉を残してフーガの体が墨に霞み、すぐに空気の中に溶けて消える。
部屋の中は、先程までの会話がなかったかのように、薄い静寂で満たされた。




