奴隷の少女は公爵に拾われる 154
コツコツと明瞭なノックの音が聞こえる。
「ツツィーリエ、入るよ」
ツツィーリエが起き上がるよりも早く扉が開き、白髪混じりの銀髪をした男が入ってきた。
「寝てていいよ」
その男は起き上がろうとするツツィーリエを静かな声で制する。その声からは特段何か強い感情は感じられないが、色素の薄い灰色の瞳はまっすぐツツィーリエを映している。
「モヌワがあんまり大きな声を出すものだから、何があったのかと思ったけど」
落ち着いた声をかけた。
「風邪かい?」
ベッドの縁に腰掛けると、いつもよりも若干深い微笑みを浮かべる。ツツィーリエは掛け布団を顎まで上げながら頷く。
「そう」
公爵はツツィーリエの額に若干筋張った手を当てた。
「確かに少し熱いかな」
『お父さんの手は冷たいわ』
「そうかい?」
公爵は小さく首を傾けながら、ツツィーリエの頬を手の甲で撫でていく。
『うん。触られてると、頭がすっきりする』
「それは困った。ツィルが寝てくれないと、私がマーサに怒られる」
ツツィーリエは少しくすぐったそうに笑顔を浮かべた。が、すぐ表情を戻すとノロノロと手を動かした。
『お父さん、部屋にいたら風邪がうつっちゃうわ』
「そしたら執務を休めるね」
公爵はそう言うと、ツツィーリエの部屋の本棚から本を一冊取り出した。
「まぁ、どのみち少し休もうと思ってたんだ。働き詰めだったから。ツィルは私がここにいると邪魔かい?」
ツツィーリエが首を横に降る。公爵はそれを見て少し笑うと、本に目を向け、しばらく無言で本のページをめくっていた。ツツィーリエはそれを赤い目でしばらく見ながら、ゆっくりと微睡みの中に意識を沈めていく。
小さな寝息とページをめくる音だけの時間が緩やかに流れていった。
その時間を破ったのは、こちらに向かってくる足早な足音だ。
「ん?」
公爵が顔を上げると、ちょうど扉が開いた。
「あら、公爵様。いたんですか」
マーサがお盆に湯気の立つお椀を乗せて立っていた。
「あ、ずりい。私はお嬢に部屋に入るなって言われたのに、公爵さんは入ってる」
両手のふさがっているマーサに変わって扉を開けたモヌワが、恨めしげに公爵を睨む。
「私はいいんだよ」
公爵はそんな視線を微風の様に受け流しながら、マーサのために場所を開ける。
「はい、ありがとうございます。お嬢様、体起こせますか」
マーサがテーブルにお盆を置くと、ツツィーリエの方に歩み寄った。ツツィーリエは体を引っ張るようにしながらノロノロと体を起こす。
「食べれるだけ食べてください。残しても良いですからね。一人で食べれますか?」
ツツィーリエが頭を重そうにしながらうなづいた。
「そうですか。私は薬湯の準備をしてきます」
「あ、じゃあ私はお嬢に付いてよう」
「モヌワはお嬢様に部屋にあまり入らないようにと言われてるんでしょ。私もそれには賛成だわ」
「なんでだよ!」
「お嬢様は動けなくなっても担いで動かせるけど、あなたが動けなくなったら、重くて動かし辛いからよ」
「でも公爵さんはこの部屋に残るんだろ?公爵さんばっかずるいぞ」
「そりゃ、私は公爵だからね。偉い人はずるいと相場が決まっている」
飄々と答えながら、マーサが退いた場所に座り本を開いた。
「風邪を召して面倒なのは公爵様も同じですからね。お嬢様の世話は私がしますから」
「それだとマーサだって風邪をひいてしまうよ」
「そんな簡単にうつりません。病気のほうが私から逃げていきますからね。公爵様も、あまり部屋に長居されないように」
マーサが公爵に向かってピシリというと、未練がましく残ろうとするモヌワを引きずるようにして足早に外に出た。
ツツィーリエはそれを見てから、憂鬱そうに湯気の立つパン粥のほうを見る。
「どうしたの?食欲がないのかい?」
ツツィーリエは頷いた。
「少しでも食べておいたほうが良い」
公爵はツツィーリエからお椀を受け取って、中にある匙をツツィーリエのほうに差し出す。
「ほら、あーん」
匙の中から湯気が立っているのをツツィーリエは赤い目でじっと見つめて、ゆっくりと口を開けて慎重に口に含んだ。熱そうに口をパクパクさせる少女を公爵が見る。
「熱いかい?」
少し顔を赤くしたツツィーリエが頷いた。
「すまないね。私はあまりこういうことをしたことも、されたこともないから」
公爵は困ったように頭を掻き、再度匙をお椀の中に突っ込む。
「うーむ、これをとってしばらく持ったまま置いておけば、そのうち冷めるかな」
首をかしげながら、湯気の立つ匙を見つめる。
『息を吹きかけたらよいと思うわ』
「あぁ、なるほど。それはいい考えだ」
公爵は灰色の目を綻ばせて、静かに息を吹きかけた。
「今度は大丈夫」
公爵は嬉しそうにツツィーリエの口元へ匙を持って行った。ツツィーリエがそれを口に含んで、ゆっくりと噛んでいるのを穏やかな目で見ている。
「うーん、何事も経験が大事だね」
『お父さんは、子供のころ、こういうことをされたことがなかったの?』
「ないね。私は生まれた家ではあまりよく思われていなかったし、父に引き取られてからはほとんど体調不良を起こさなかったからね」
パン粥をゆっくりと混ぜながら、公爵が言った。
「あぁ、そうだ。一回だけ風邪をひいて寝込んだことがあったか。その時は、寝込んだ直後に父が来て、しばらく一緒にいてくれたかな。懐かしい」
微笑みを浮かべながら目を細める。
『お父さんのお父さんは、どんな人だったの?』
「ん?そうだね……豪快な人だったよ」
遠くを見ながら公爵は言った。
「父は体が大きくてね。口を囲む黒いひげを生やして、声も大きくて、公爵邸のどこかで笑うとその声が公爵邸全体に響くんだ」
パン粥を差し出しながら公爵が続ける。
「貴族というより、戦士というような感じかな。ここから北の国境まで一人で馬を駆けていくような、そんな人だったよ。私が寝込んだのを聞いて部屋に来た時も、最初はいつも通りしゃべっているんだけど、咳き込んでる私をみてすぐに困った顔をしてね。『俺は生まれてから風邪をひいたことがないから、こういう時子供がどういう風にしてほしいかがわからんのだ。何がしてほしい?』って」
『なんて答えたの?』
「とにかく寒気がするから何とかしてほしい、って言ったよ。そしたら、『たき火でもするか』って薪をとってきてベッドの横に置くんだ」
おかしそうに公爵が笑った。
「本当に火を焚こうとするものだから、すぐに侍女がすっ飛んできて部屋から追い出されたよ」
『ほかには、何か言わなかったの?』
「ほかに?あぁ、言ったよ」
ツツィーリエのパン粥を持ち上げて冷ましながら言う。
「心細いから黙って近くにいてくれって。そしてら、分かった、っていうんだよ。ものの数分と黙ってられなくて、すぐにさっき言ったみたいなことになったんだけどね」
公爵は肩をすくめる。
「困った人だったよ。まったく」
『だから、お父さんはここにいてくれるの?』
公爵は匙の柄で顔を掻く。
「ツィルはまだ食べるかい?」
公爵がお椀を示した。ツツィーリエは小さく首を横に振る。
「そうかい。じゃあ、無理はしないほうが良い。そのうちマーサが薬湯を持ってきてくれる。医者も呼んでいるからね」
公爵はお椀をテーブルに置くと、ツツィーリエをベッドに寝かせる。
『お父さん』
「ん?」
公爵はかけ布団をツツィーリエの肩にかけながら目を向ける。
『寝るまでそこにいてもらえる?』
公爵はそれを聞くと、微笑みをさらに深くして頭をなでる。
「いいよ。もちろん」




