奴隷の少女は公爵に拾われる 152
分厚い木の扉に軽いノックの音が響く。
「はーい」
部屋の中からどすの利いた低い声が響く。それとほぼ同時に扉が内側から開き、幾何学模様に髪の毛を刈り込んでいる胸板の厚い男が出てきた。
「やっぱりツツィーリエちゃん。どうぞ入って入って」
その男は扉をノックした少女を視界に入れると、にっこりと笑った。少女は黒い髪を下し、すでにほぼ寝間着状態になっている。
「あと、あんたは呼んでないわよ」
「黙れ、女男。お嬢がいるところに私はいるんだ」
ツツィーリエの後ろにいたのは、扉の高さよりも高い身長のモヌワだ。タレンスは不満げではあるが、それでもモヌワが入ることを拒否しようとはしない。
「まぁ、いいわ。どうぞ」
タレンス扉を開けて二人を招き入れた。
「結構片付いてるな」
「当然でしょ。それがレディの嗜みってものよ」
「どいつがレディだって?」
「その狼みたいな目、見えないんだったら刳り貫いたらどうかしら」
公爵邸の他の部屋と同様に、広さはそれなりにある。石造りの壁にベッド。広い机には書類が広がっていた。そのベッドのわきにある箪笥は公爵邸にあるどの箪笥よりも大きいように見える。その箪笥の横は大きな鏡台と、整然と並べられた化粧品の瓶が置いてあった。
『良い匂いがするわね』
「ありがと。香油を混ぜた蝋燭を灯してたからだと思うわ」
「けっ。しゃれたことしてんな」
「あなたもやったらどう?汗臭いのがちょっとはましになるかもよ」
「ごめんだね。別に私はお嬢が不快に思わなけりゃそれでいい」
ツツィーリエは言い合っている二人をよそに部屋の壁一面を支配している本棚の方に足を向けた。公爵邸に住む者は自分の本棚を設えている者も珍しくないし、公爵邸の図書室には個人では一生かけても集めきれない量の蔵書がある。だが、タレンスの本棚に納められている本の種類は、それとは一線を画していた。
「ん?あぁ、珍しい本がたくさんあるでしょ」
『どこの国の言葉なのかわからない本ばっかり』
「本棚の中にある本の言葉の種類だけでも30は下らないもの」
タレンスの本棚の蔵書は、この国の周辺国の言語に関する辞書だけではなく、この国とはほぼ国交がないはずの国の言葉で書かれた分厚い辞書、様々な国の政治情勢に関する研究論文、もはやツツィーリエには文字として認識する事すらできない文章で書かれた本の方がはるかに多い。それらの本が壁一面の大きさがある本棚に入っていた。
「もう読み終えた本なんかを公爵様の図書室に寄贈したから、これでも減ったのよ」
『凄いわね。辞書だけでもすごい量だし』
「その国の言語の文法とかを理解してても、単語がわからなくて言いたいことが言えなかったら意味がないもの。それにいろいろ面白いわよ」
「何が面白いのかね」
「例えば、あんたの母国の言葉なんかは面白いわよ。砂粒に関する言葉だけで30を下らない独立した単語があるなんて、私は他に知らないわ。砂漠の国って言うだけじゃないわね」
タレンスは本棚の中にある一つの辞書を迷いなく引っ張り出して楽しそうにページをめくる。
「あぁ、そういえばそうだな」
『砂にそんなに言葉がいるの?』
「えぇ。例えば夜の砂と朝の砂、昼の砂で呼び方が違います。季節によっても違いますし、たまに降る雨に濡れた状態の砂の乾き具合でいくつか呼び方が違います。他にもいろいろ」
『なんでそんなに多いの?』
「砂漠が多いっていうのもありますが、私たちの国では砂漠には神が住むといわれているので。それで砂漠の砂が神聖視されて、自然と言葉が増えるんです」
ツツィーリエは何度も頷きながら本棚の蔵書に目をやる。
「あ、だめよ。本の話してたら、ツツィーリエちゃんにプレゼント渡しそびれちゃう。ちょっと待って」
タレンスは机の方に早足で向かうと、すぐに箱を持って戻ってきた。ツツィーリエが抱えて持つほどの大きさだ。黒目の塗装と木製の箱全体に蔓状の彫り物が施されている。
「はい、ツツィーリエちゃん。初成人おめでとう」
『まだだけどね』
「いいのよ。初成人の儀式は一つの区切りでしかないから。そんなことよりも、開けて」
ツツィーリエは受け取った箱をゆっくり開ける。開けたとたんに若干甘い匂いがツツィーリエの鼻をくすぐる。ツツィーリエは中身を確認すると、タレンスの方を見上げた。
「化粧品よ。ツツィーリエちゃん持ってないでしょ?」
ツツィーリエは頷くと、もう一度中身を確認する。大小さまざまな瓶が大きめの箱の中いっぱいに入っていた。
「本当は自分で選んだものを付けるのが一番なんだけど、まぁ、最初だから。それらを試して、気に入ったものは使ってもらって、気に入らなかったのは違うものを買ったらいいわ。まぁ、叩き台ね」
『使い方、わからないわ』
「教えてあげる。明日また来て。私も忙しいからそんなにたくさん時間作れないけど、ツツィーリエちゃんのためなら時間作るわ」
『そんな、悪いわ』
「別にいいのよ。私があげた化粧品なんだから、私が教えるのが一番でしょ」
タレンスはいたずらっぽくウインクをする。
「なんだったら、明日お化粧して外に出たらいいわ。せっかく化粧をするんだったら、誰かに見てもらうのが一番よ」
「それはいいアイデアだ。お嬢、こいつの言うとおりです。明日外出しましょう」
『モヌワはいっつもそれね。今日も外に出たんだから、明日はいいじゃない』
「今日のは採寸でほとんど部屋に閉じこもりっきりだったじゃないですか。そうじゃなくて、街をぶらぶらするんですよ」
「モヌワ、あんたがうらやましいわ。私はいっつもこもりっきりなんだもん」
「休暇くらいあるだろうが」
「そりゃそうだけど、それとは話が別よ」
「意味が分からん」
モヌワはツツィーリエの方に向き直る。
「それにあれですよ。あの公爵の息子への贈り物も買わないとですし」
ツツィーリエは思い出したように目を開く。
『それもそうね。何を買うか決めてないけど』
「見てたら何かいい考えが浮かぶかもしれないですよ」
ツツィーリエは少し上を向いて考えていたが、何度か頷いて肩を竦めた。
「よっし、決まりですね」




